新撰字鏡といふ字書は、本朝の僧昌住といひし人、今より九百四十年あまりのむかし寛平昌泰の年間作りたる文字の吟味をしたる書也。むかしより世の学匠たち伝へ写して重宝せられき。しかるを近き頃、村田春海大人右の書を京都にて購得てのち、享和三年の春創て板本となし、世の重宝となりてより后の学者の机上に置は、実に春海大人の賜なりけり。右の字鏡ありて后二十余年を歴て、源の順朝臣の作りたる和名類聚抄ありき、是も字書也。元和の年間那波道円先生創て板本とせられたり。(後の板もあり)さて和名抄ありて后五百年ちかくをへて文安年中下学集といふ字書ありき、これも元和三年創て板本となりたり。下学集より五十三年の后明応五年林宗二(堺の町人)節用集を作り、文亀のころの活字本あり。これいろは引節用集の権輿也。其后百八十年を歴て元禄十一年に槙嶋照武駒谷山人が作りたる(江戸の人)書言字考、一名合類節用集といふ板本あり、宗二が節用集を大成したる物にていろは引也。(平他字類抄のるゐ、下に引用せざるものはこゝにあげず)本朝の字書のるゐ大抵は件のごとし。されば今俗用する節用集は新撰字鏡和名抄を先祖の父母として、后のは皆其子孫也。是は鮏の字の事を言んとて童蒙の為に先いふ也けり。
○新撰字鏡魚の部に鮭(佐介)とあり、和名抄には本字は鮏俗に鮭の字を用ふるは非也といへり。されば鮭の字を用ひしも古し。同書に崔禹錫が食経を引て「鮏其子苺に似て赤く光り春生れて年の内に死す故にまた年魚と名く」と見えたり。新撰字鏡に鮭の字を出しゝは鮏と鮭と字の相似たるを以て伝写の誤りを伝へしもしるべからず。鮭は河豚の事なるをや。下学集にも鮭干鮭と並べ出せり。宗二が文亀本の節用集にも塩引干鮭とならべいだせり。これらも鮏と鮭と伝写のあやまりにや。駒谷山人が書言字考には○鱖○石桂魚○水豚○鮭と出して、注に和名抄を引て本字は鮏といへり。大典和尚の学語編には鱖の字を出されたり、鱖はあさぢと訓也。唐の字書には鱖は大口細鱗とあれば鮏にるゐせるならん。字彙には鮏は鯹の本字にて魚臭といふ字也といへり。按るに、鮏の鮮鱗はことさらに魚臭きものゆゑにやあらん。鮭は鯸鮐の一名ともいへば鮏にはいよ〳〵遠し。とまれかくまれ鮏の字を知りて俗用には鮭の字を用ふべし。件の如く鮭の字も古く用ひたれば、おほかたの和文章にも鮭の字を用ふべし、鮏の字は普くは通じ難し。こゝには姑く鮏に从ふ。