或村に(不祥の事ゆゑつまびらかにいはず)夫婦して母一人をやしなひ、五ツと三ツになる男女の子を持たる農人ありけり。年毎に鮏の時にいたればその漁をなして生業の助とせり。此所はすべて岸阻たるゆゑ村のものおの〳〵岸にかの架を作りて掻網をなす。しかるに絶壁の所は架を作るものもなければ鮏もよくあつまるゆゑ、かの男こゝに架をつりおろし、一すぢの縄を命の綱として鮏をとりけり。さて十月の頃にいたり雪降る日には鮏も多く獲易きものゆゑ、一日降る雪をも厭ず蓑笠に身をかため、朝より架にありてさけをとり、畚にとりためたる時は畚にも縄をつけおけば、おのれまづ架を鉤たる綱に縋りて絶壁を登り、さてふごを引あぐる也。つなにすがりて登り下りするもこれに慣ては猿のごとし。物喰ふ時ものぼる也。此日も暮て雪荒になりければ、雪荒にはかならず鮏えやすきがゆゑにふたゝびかの架にゆかんといふを、雪荒なればとて母も妻もとゞめたるをきかず、炬を用意して架にありてかきあみをせしに、はたしてさけあまたえしゆゑ鵜飼の謡曲にうたふごとく罪も報も后の世も忘れはてゝ、おもしろくやゝ時をぞうつしける。
○かくてその妻は母も臥し子どもゝ寐かしたれば、この雪あれに夫はさこそ凍え玉ふらめ、行むかへてつれ皈らんと、蓑にみの帽子をかふり、松明をてらし、ほかに二本を用意して腰にさし、かしこにいたり松明をあげてさしのぞき、遙下にある夫にこゑかけ、いかにさむからん初夜もいつかすぎつらん、もはややめて皈り玉へ、飯もあたゝかにして酒ももとめ置たり、いざかへり玉ヘ、たいまつもなかるべし、橇も入るやうになりしぞ、それも持来れりといふも、西おとしの雪荒にてよくもきこえず。猶こゑをあげていへば夫これをきゝつけ、よろこべよ鮏はあまたとりたるぞ、あすはうちよりてうまき酒をのむべし、今すこし捕てかへらん、そちはさきへかへれといふ。しからば松明はこゝにおかんとて、燈したるまゝ架をつりとめて綱をくゝしたる樹のまたにさしはさみて、別の松明に火をうつして立かへりぬ。これぞ夫婦が一世の別れなりける。
○さるほどに妻は家にかへり炉に火を焼たて、あたゝかなるものくはせんとさま〴〵にしつらへ待居たりしに、時うつれども皈りきたらず。まちわびてふたゝびかの所にいたりしに、かのはさみたるたいまつも見えず、持たるたいまつをかざして下を見るに、ひかりもよくはとゞかで夫のすがた見えわかたず、こゑのかぎりよべどもこたへず。さては架にはをらぬにや、さるにてもいぶかしと心をとゞめて松明をふりてらし、登りし跡の雪にあるやとあたりを見れば、さいぜん木のまたにさしはさみおきたる炬もえおちてあり、これに心つきて持たるたいまつにて猶たしかに見れば、架をくゝしたる命のつな焼残りてあり。これを見るよりむねせまり、たいまつこゝにやけおちて綱をやきゝり、架おちて夫は深淵に沈たるにうたがひなし、いかに泳をしり給ふとも闇夜の早瀬におちて手足凍え助り玉ふべき便はあらじ。こはいかにせん〳〵姑にいひわけなしと泪を雫にふらせて哭けるが、我もともにと松明を川へ投入れ身を投んとしつるが、又おもへらく、わがなきあとは老たる母さまと稚き子どもらを養ふものなく、手をひきて路上に立玉ふらん。死ぬるにも死なれざる身には成けるかな、ゆるし玉へわがつまと雪にひれふし、やけたるつなにすがりつきこゑをあげて哭になきけり。かくてもあられねばなく〳〵焼残りたる綱をしるしにもち、暗き夜にたいまつもなく雪荒に吹れつゝ泪もこほるばかりにてなく〳〵立かへりしが、夫が死骸さへ見えざりしと、其所に近き辺りの友人が此頃の事とてさきのとし物がたりせり。