五十四 漁夫の溺死

北越雪譜 原文
原文現代語訳

或村(あるむら)に(不祥の事ゆゑつまびらかにいはず)夫婦(ふうふ)して母一人をやしなひ、五ツと三ツになる男女の子を持(もち)たる農人(のうにん)ありけり。年毎(としごと)に鮏(さけ)の時にいたればその漁(れふ)をなして生業(いとなみ)の助(たすけ)とせり。此所はすべて岸(きし)阻(そばだち)たるゆゑ村のものおの〳〵岸にかの架(たな)を作りて掻網(かきあみ)をなす。しかるに絶壁(ぜつへき)の所は架を作るものもなければ鮏もよくあつまるゆゑ、かの男こゝに架(たな)をつりおろし、一すぢの縄(なは)を命の綱(つな)として鮏をとりけり。さて十月の頃にいたり雪降(ふ)る日には鮏も多く獲易(えやす)きものゆゑ、一日(あるひ)降(ふ)る雪をも厭(いとは)ず蓑笠(みのかさ)に身(み)をかため、朝より架(たな)にありてさけをとり、畚(ふご)にとりためたる時は畚(ふご)にも縄(なは)をつけおけば、おのれまづ架(たな)を鉤(つり)たる綱(つな)に縋(すが)りて絶壁(ぜつへき)を登(のぼ)り、さてふごを引あぐる也。つなにすがりて登(のぼ)り下(くだ)りするもこれに慣(なれ)ては猿(さる)のごとし。物(もの)喰(く)ふ時ものぼる也。此日も暮(くれ)て雪荒(ゆきあれ)になりければ、雪荒にはかならず鮏(さけ)えやすきがゆゑにふたゝびかの架(たな)にゆかんといふを、雪荒なればとて母も妻(つま)もとゞめたるをきかず、炬(たいまつ)を用意(ようい)して架(たな)にありてかきあみをせしに、はたしてさけあまたえしゆゑ鵜飼(うかひ)の謡曲(うたひ)にうたふごとく罪(つみ)も報(むくひ)も后(のち)の世(よ)も忘(わす)れはてゝ、おもしろくやゝ時をぞうつしける。

○かくてその妻(つま)は母も臥(ふ)し子どもゝ寐(ね)かしたれば、この雪あれに夫(をつと)はさこそ凍(こゞ)え玉ふらめ、行(ゆき)むかへてつれ皈(かへ)らんと、蓑(みの)にみの帽子(ばうし)をかふり、松明(たいまつ)をてらし、ほかに二本を用意(ようい)して腰(こし)にさし、かしこにいたり松明(たいまつ)をあげてさしのぞき、遙下(はるかした)にある夫(をつと)にこゑかけ、いかにさむからん初夜(しよや)もいつかすぎつらん、もはややめて皈(かへ)り玉へ、飯(まゝ)もあたゝかにして酒ももとめ置(おき)たり、いざかへり玉ヘ、たいまつもなかるべし、橇(かんじき)も入るやうになりしぞ、それも持来(もちきた)れりといふも、西おとしの雪荒(ゆきあれ)にてよくもきこえず。猶こゑをあげていへば夫(をつと)これをきゝつけ、よろこべよ鮏(さけ)はあまたとりたるぞ、あすはうちよりてうまき酒をのむべし、今すこし捕(とり)てかへらん、そちはさきへかへれといふ。しからば松明(たいまつ)はこゝにおかんとて、燈(とも)したるまゝ架(たな)をつりとめて綱(つな)をくゝしたる樹(き)のまたにさしはさみて、別の松明(たいまつ)に火をうつして立かへりぬ。これぞ夫婦(ふうふ)が一世の別(わか)れなりける。

○さるほどに妻(つま)は家(いへ)にかへり炉(ろ)に火を焼(たき)たて、あたゝかなるものくはせんとさま〴〵にしつらへ待居(まちゐ)たりしに、時うつれども皈(かへ)りきたらず。まちわびてふたゝびかの所にいたりしに、かのはさみたるたいまつも見えず、持たるたいまつをかざして下を見るに、ひかりもよくはとゞかで夫(をつと)のすがた見えわかたず、こゑのかぎりよべどもこたへず。さては架(たな)にはをらぬにや、さるにてもいぶかしと心をとゞめて松明(たいまつ)をふりてらし、登(のぼ)りし跡(あと)の雪にあるやとあたりを見れば、さいぜん木のまたにさしはさみおきたる炬(たいまつ)もえおちてあり、これに心つきて持たるたいまつにて猶(なほ)たしかに見れば、架(たな)をくゝしたる命(いのち)のつな焼残(やけのこ)りてあり。これを見るよりむねせまり、たいまつこゝにやけおちて綱(つな)をやきゝり、架(たな)おちて夫(をつと)は深淵(ふかきふち)に沈(しづみ)たるにうたがひなし、いかに泳(およぎ)をしり給ふとも闇夜(くらきよ)の早瀬(はやせ)におちて手足(てあし)凍(こゞ)え助(たすか)り玉ふべき便(よすが)はあらじ。こはいかにせん〳〵姑(しうとめ)にいひわけなしと泪(なみだ)を雫(しづく)にふらせて哭(なき)けるが、我もともにと松明(たいまつ)を川へ投(なげ)入れ身を投(なげ)んとしつるが、又おもへらく、わがなきあとは老(おい)たる母さまと稚(をさな)き子(こ)どもらを養(やしな)ふものなく、手をひきて路上に立玉ふらん。死(し)ぬるにも死なれざる身(み)には成けるかな、ゆるし玉へわがつまと雪にひれふし、やけたるつなにすがりつきこゑをあげて哭(なき)になきけり。かくてもあられねばなく〳〵焼残(やけのこ)りたる綱(つな)をしるしにもち、暗(くら)き夜(よ)にたいまつもなく雪荒(ゆきあれ)に吹(ふか)れつゝ泪(なみだ)もこほるばかりにてなく〳〵立かへりしが、夫(をつと)が死骸(しがい)さへ見えざりしと、其所に近き辺(ほと)りの友人(いうじん)が此頃(このごろ)の事とてさきのとし物がたりせり。

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