我が隣駅関といふ宿につゞきて関山といふ村あり、此村より魚野川を渡るべき橋あり。流れ急なれば僅の出水にも橋をながすゆゑ、仮に造りたる橋なれど川広ければはしもみじかからず。雪の頃は所のもの橋の雪を掘て途を作れども、一夜の内に三尺も五尺もつもる事もあるゆゑに、日毎にもほらざれば橋幅の狭きに雪のつもりたる上をわたるなれば、渡り慣たるものすら過て川におち入り溺死するものも間あり。
○さて此関山村のかたほとりに、独り草庵を結びて住む源教といふ念仏の道心坊ありけり。年は六十あまり、たゞ念仏三昧の法師にて、无学なれどもその行は碩僧にもをさ〳〵劣ず。かゝる僧なれば年毎に寒念仏の行をつとめ、无言はせざるゆゑ夜毎に念仏して鉦打ならし、ものにまゐりしかへるさ二夜に一度はかの橋に立て年頃おぼれしゝたる者の回向をなししに、今夜は満願とてかの橋にもいたり殊更につとめて回向をなし鉦うちならして念仏しけるに、皎々たる月遽然に曇りて朦朧たり。こはいぶかしとおもひしに、水中より青き火閃々ともえあがりければ、こは亡者の陰火ならんと目を閉てかねうちならし、しばらく念仏して目をひらきしに、橋の上二間ばかり隔て、年齢三十あまりと見ゆる女白く青ざめたる㒵に黒髪をみだしかけ、今水よりいでたりとおもふばかり濡たる袖をかきあはせて立り。常人ならば吁といひて逃べきに、さはなくてその方に身を対てつら〳〵見るに、斯闇くなりしにかゝるものゝあり〳〵と見ゆるもたゞ人ならじと猶よく見れば、体は透徹やうにてうしろにあるものも幽に見ゆ。腰より下はありともなしともおぼろげ也。これこそ幽霊ならめとしきりに念仏しければ、移歩ともなくまへにすゝみきたり、細微たる声していふやう、わらはゝ古志郡何村(村名はもらす)の菊と申もの也、夫も子も冥途にさきだて独り跡にのこり、かそけき烟りさへ立かねたれば、これよりちかき五十嵐村に由縁の者あるゆゑ助けを乞んとてこの橋をわたりかゝり、あやまちて水に入り溺死たるもの也、今夜は四十九日の待夜なれど、世にすてられしかなしさは誰ありて一掬の水だに手向る人なし。さるをおん僧しば〳〵こゝにきたりて回向ありつる功徳によりてありがたき仏果をばえたれども、頭の黒髪が障りとなりて閻浮に迷ふあさましさよ。此上のねがひには此くろかみを剃こぼして玉はれかし、あな悲哉とて、㒵に袖をあてゝさめ〴〵と泣けり。源教いふやう、そはいとやすき事也、されどこゝには剃べき物ももたざれば、あすの夜わがすむ関山の庵へきたり候へ、望をはたし申さんといひければ、さもうれしげにうなづくと見えしが烟りのごとく消うせ、月は皎々として雪を照り。
○さるほどに源教いほりにかへりて、朝日人をたのみて旧来親しき同じ村の紺屋七兵衛をまねき、昨夜かう〳〵の事ありしとお菊が幽霊の㕝をこまかに語り、お菊が亡魂今夜かならずきたるべし、かゝる事は仏に疎き人らにもかたりきかせて教化の便ともなすべくおもへども、たしかに見とゞけたりといふ証人なければ人々空言とおもふらん、和殿は正直の聞えある人なれば幽霊の証人にたのみ申也、これも人の為也といふ。七兵衛も此法師とおなじとしごろにて、しかも念仏の信者なれば打うなづき、御坊のたのみとあればいかで固辞申さん、火ともすころに来べし、何方にもあれ隠れゐて見とゞけ申さん。さればよ仏壇の下こそよきかくれ所なれ、かまへて人にかたり玉ふな、かたりたらば幽霊を見んとて村の若人らが来べきぞ。心えたるはとて立皈りぬ。
○斯てその黄昏にいたり、源教は常より心して仏に供養し、そこら清らになし経を誦し居たり。七兵衛はやきたりぬ。誦しをはりて七兵衛に物などくはせ、さて日もくれければ仏壇の下の戸棚にかくれをらせ、覗くべき節孔もあり、さて仏のともし火も家のもわざと幽になし、仏のまへに新薦をしきて幽霊を居らする所とし、入り口の戸をもすこしあけおき、研たてたる剃刀二てうを用意し今や〳〵と幽霊を待居たり。此夜はしかも雪になりて、すこしあけおきたる戸口よりもふりこむ風にあかしもきえんとするゆゑ、戸をさし炉のはたにありて戸棚の七兵衛にいふやう、蒲団はしきおきたり、そこにありて眠り玉ふな。いかでさることせん、幽霊を見んとおもへば心に念仏するのみ也。御坊こそくせをいだしてふねこぎ玉ふらめ、吁、音たかししづかにいへ、幽霊を見るともかまへて音をたて玉ふな、といひつゝ手作とて人にもらひたる烟草のあらく刻たるもやゝ吸あきて、呻に念仏を噛まぜ頷ひ撫まはししが髭をぬきて居たり。雪は雪簾にあたりてさら〳〵と音のふのみ、四隣なければ寂として声なくやゝ時もうつりけり。
○さて幽霊は影も見えず、源教は炉に温りて睡眠をもよほし、居眠りしつゝ終に倒れんとして目をひらきしに、お菊が幽霊何時か来りて仏に対ひ、まうけたる新薦の上に坐り頭を低てゐたり。さすがの源教も戦慄せしが、心をしづめてよくこそきたりつれといふに、幽霊はさらにことばをいださず、すがたは昨夜見たるにたがはず。源教手をそゝぎ盥に水をくみとり剃刀をもちて立より見れば、打みだしたる髪つゆのたるばかりぬれてあり。されど雪ふるなかをきたりしといふしるしもなし。心におもふやう、これが髪の毛をのこしとゞめて后のしるしとせばやなど心して剃刀をはこばせけるに、そりおとす髪の毛糸をつけて引がごとくかれが懐に入る。女なれば髪の毛を惜むならんと毛を指にからみて剃りしに、自然ふところに入りて手にとゞまらず。とかくして剃りをはり、わづかすこしの毛はやうやくとりとゞめつ。幽霊は白く痩たる掌を合せ、仏を拝みつゝすがた次第に薄くなると見えしがきえうせけり。