六十四 関山村の毛塚

北越雪譜 原文
原文現代語訳

かくて紺屋(こんや)七兵衛かくれゐたる戸棚(とだな)よりはひいで、さても怖(おそろ)しきものを見つる事かな、いかに法師なればとてよくぞ剃刀(かみそり)をあて玉ひたる、たゞ見るさへおそろしかりき、独(ひと)りかへらんも気味(きみ)わろし今夜(こよひ)はこゝに宿らん。いかにもやどり玉へ、待し人の皈(かへ)りたればもはや用なし、これ見玉へ、后(のち)の証(しる)しにせばやとてこればかりの髪の毛をやう〳〵のこしおきたり、幽霊(いうれい)も心ありてのこしつらんとて見せければ、七兵衛はさしのぞきて手にもとらず。法師は紙につゝみて仏壇(ぶつだん)におき、夕間(ま)にのみ玉ひし酒ものこりあり、肴はなくとものみ玉へとていさゝかのものとりいだして、二人ながら炉(ろ)のはたに胡坐(あぐら)かきて酒のみながら七兵衛がいふやう、幽霊(いうれい)といふもの話(はなし)にはきゝつるが見しははじめて也、袖振合(そでふりあは)すも他生(たしやう)の縁(えん)とこそいふなれ、いたづらに見すぐさんも本意(ほい)なし、今夜こそ仏法(ぶつほふ)のありがたさも身にしみつれば、あすは此いほりにて百万遍(べん)をなしてお菊が仏果(ぶつくわ)のいとなみにせん。源教(げんけう)、そはよき功徳(くどく)ならん、古志郡(こしこほり)のお菊がいうれいを見とゞけたりと人々にかたり玉へ、愚僧(ぐそう)もわどのを証人(しやうにん)として幽霊をかたりて教化(けうぐゑ)のたよりにせん。すでにむかしもかゝる事ありしと砂石集(させきしふ)に見えし事など、人にきゝたるをおぼろげにおぼえて一ツ二ツかたりきかせなどして、夜もふけゝれば一ツの夜具(やぐ)をふたりしてかづきうちふしけり。

○さてあけの日、七兵衛源教(げんけう)を伴(ともな)ひて家に皈(かへ)り、四隣(あたり)の人をあつめてお菊が幽霊の事をかたりければ、源教(げんけう)懐(ふところ)よりかの髪の毛をとりいだして見すれば人々奇異(きい)のおもひをなしぬ。さて七兵衛百万遍の事をいひしに、あつまりし者(もの)ども、それこそよき善行(ぜんぎやう)なれ、こよひもよほし玉へ、茶の子はこなたよりもちゆかん、御坊(ごばう)は茶の用意(ようい)をし玉へ、数珠(ずゝ)は庵(あん)にはなかりき、これもおてらのを借(かり)てもちゆかん、猶人々をもさそひあはせてゆかんといふ。七兵衛が妻(つま)もかたはらにありしが、夫(をつと)にむかひ、とてもの事に餅(もち)をつきたまへとすゝむ。いかにもよからんとて俄(にはか)にそのもよほしをなしけり。

○かくてその夜源教(げんけう)が草庵(さうあん)に人々あつまり、おしこりあひて念仏しければ、なか〳〵ににぎはしき仏事也けり。此事こゝかしこに伝(つた)へ聞(きこ)えて話柄(はなしのたね)としけるが、こゝろざしあるものゝいふやう、源教がもちしかの髪の毛を瘞(うづ)め石塔(せきたふ)を建(たて)て供養(くやう)せば、お菊が幽魂(いうこん)黄泉地(よみぢ)のかげにもよろこびなんといひ出(いだ)ししに、おなし心の人あまたありてその事とゝのひ、終(つひ)に石塔を建(たて)んとする時にいたりて、源教いふやう、かゝる㕝の導師(だうし)たらんは我がおよぶ所にあらず、是(こは)最上山(さいしやうざん)関興寺(くわんごうじ)の上人を招請(せうだい)あれかしといふ。人々さらばとてかしこにいたり、事のよしをつげてお菊が戒名(かいみやう)をもとめ、お菊が溺死(おぼれしゝ)たる橋(はし)の傍(かたはら)に髪の毛を埋(うづ)め石塔(せきたふ)を建(たつ)る事すべて人を葬(はうふ)るが如(ごと)くし、みなあつまりてねんごろに仏事(ぶつじ)を営(いとな)みしに、かの紺(こん)屋七兵衛は此㕝より発心(ほつしん)して後(のち)に出家(しゆつけ)しけるとぞ。こはひとむかしまへの事也ける、関山(せきやま)の毛塚(けづか)とて今に残(のこ)れり。

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