かくて紺屋七兵衛かくれゐたる戸棚よりはひいで、さても怖しきものを見つる事かな、いかに法師なればとてよくぞ剃刀をあて玉ひたる、たゞ見るさへおそろしかりき、独りかへらんも気味わろし今夜はこゝに宿らん。いかにもやどり玉へ、待し人の皈りたればもはや用なし、これ見玉へ、后の証しにせばやとてこればかりの髪の毛をやう〳〵のこしおきたり、幽霊も心ありてのこしつらんとて見せければ、七兵衛はさしのぞきて手にもとらず。法師は紙につゝみて仏壇におき、夕間にのみ玉ひし酒ものこりあり、肴はなくとものみ玉へとていさゝかのものとりいだして、二人ながら炉のはたに胡坐かきて酒のみながら七兵衛がいふやう、幽霊といふもの話にはきゝつるが見しははじめて也、袖振合すも他生の縁とこそいふなれ、いたづらに見すぐさんも本意なし、今夜こそ仏法のありがたさも身にしみつれば、あすは此いほりにて百万遍をなしてお菊が仏果のいとなみにせん。源教、そはよき功徳ならん、古志郡のお菊がいうれいを見とゞけたりと人々にかたり玉へ、愚僧もわどのを証人として幽霊をかたりて教化のたよりにせん。すでにむかしもかゝる事ありしと砂石集に見えし事など、人にきゝたるをおぼろげにおぼえて一ツ二ツかたりきかせなどして、夜もふけゝれば一ツの夜具をふたりしてかづきうちふしけり。
○さてあけの日、七兵衛源教を伴ひて家に皈り、四隣の人をあつめてお菊が幽霊の事をかたりければ、源教懐よりかの髪の毛をとりいだして見すれば人々奇異のおもひをなしぬ。さて七兵衛百万遍の事をいひしに、あつまりし者ども、それこそよき善行なれ、こよひもよほし玉へ、茶の子はこなたよりもちゆかん、御坊は茶の用意をし玉へ、数珠は庵にはなかりき、これもおてらのを借てもちゆかん、猶人々をもさそひあはせてゆかんといふ。七兵衛が妻もかたはらにありしが、夫にむかひ、とてもの事に餅をつきたまへとすゝむ。いかにもよからんとて俄にそのもよほしをなしけり。
○かくてその夜源教が草庵に人々あつまり、おしこりあひて念仏しければ、なか〳〵ににぎはしき仏事也けり。此事こゝかしこに伝へ聞えて話柄としけるが、こゝろざしあるものゝいふやう、源教がもちしかの髪の毛を瘞め石塔を建て供養せば、お菊が幽魂黄泉地のかげにもよろこびなんといひ出ししに、おなし心の人あまたありてその事とゝのひ、終に石塔を建んとする時にいたりて、源教いふやう、かゝる㕝の導師たらんは我がおよぶ所にあらず、是最上山関興寺の上人を招請あれかしといふ。人々さらばとてかしこにいたり、事のよしをつげてお菊が戒名をもとめ、お菊が溺死たる橋の傍に髪の毛を埋め石塔を建る事すべて人を葬るが如くし、みなあつまりてねんごろに仏事を営みしに、かの紺屋七兵衛は此㕝より発心して後に出家しけるとぞ。こはひとむかしまへの事也ける、関山の毛塚とて今に残れり。