雪国にて悚懼物は、冬の○雪吹○ホウラ、春の雪頽なり。此奇状奇事已に初編にもいへり、されど一奇談を聞たるゆゑこゝにしるして暖国の話柄とす。
○そも〳〵金銭の貴こと、魯氏が神銭論に尽したれば今さらいふべくもあらず。年の凶作はもとより事に臨で餓にいたる時小判を甜て腹は彭張ず、餓たる時の小判一枚は飯一碗の光をなさず。五十余年前の饑饉の時、或所にて餓死したる人の懐に小判百両ありしときゝぬ。
○こゝに我が魚沼郡藪上の庄の村より農夫一人柏崎の駅にいたる、此路程五里計なり。途中にて一人の苧纑商人に遇ひ、路伴になりて往けり。時は十二月のはじめなりしが数日の雪も此日晴たれば、両人肩をならべて心朗にはなしながら已に塚の山といふ小嶺にさしかゝりし時、雪国の恒として晴天俄に凍雲を布、暴風四方の雪を吹散して白日を覆ひ、咫尺を弁ぜず。袖襟へ雪を吹入れて全身凍て息もつきあへず、大風四面よりふきめぐらして雪を渦に巻揚る、是を雪国にて雪吹といふ。此ふゞきは不意にあるものゆゑ、晴天といへども冬の他行には必蓑笠を用ること我国の常なり。二人は橇に雪を漕つゝ(雪にあゆむを里言にこぐといふ)互に声をかけて助あひ辛じて嶺を逾けるに、商人農夫にいふやう、今日の晴天に柏崎までは何ともおもはざりしゆゑ弁当をもたず、今空腹におよんで寒に堪ず、かくては貴殿に伴て雪を漕ことならず、さいぜんの話におみさまの懐に弁当ありときゝぬ、夫を我に与へたまふまじきや、惟には貰ふまじ、こゝに銭六百あり、死か活かの際にいたりて此銭を何にかせん、六百にて弁当を売玉へといふ。農夫は貧乏の者なりしゆゑ六百ときゝて大によろこび、焼飯二ツを出して六百の銭に替けり。商人は懐にありて温のさめざる焼飯の大なるを二ツ食し、雪に咽を潤して精心健になり前にすゝんで雪をこぎけり。
○かくていそぐほどに雪吹ます〳〵甚しく、橇を穿ゆゑ道遅く日も已に暮なんとす。此時にいたりて焼飯を売たる農夫は肚減て労れ、商人は焼飯に腹満足をすゝめて往。農夫は屡後るゆゑ終には棄て独先の村にいたり、しるべの家に入りて炉辺に身を温て酒を酌、始て蘇生たるおもひをなしけり。
○さてしばらくありてほうい〳〵と呼声遠く聞るを家内の者きゝつけ、(ふゞきにほうい〳〵とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす)雪吹倒れぞ、それ助けよとて、近隣の人をもよび集め手毎に木鋤を持て(木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也)走行しが、やゝありて大勢のもの一人の死骸を家の土間へ舁入れしを、かの商人も立寄見れば、最前焼飯を売たる農夫なりしとぞ。この苧纑商人、或時余が俳友の家に逗留の話に件の事を語り出し、彼時我六百の銭を惜み焼飯を買ずんば、雪吹の中に餓死せんことかの農夫が如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと俳友が語れり。