七十六 雪吹に焼飯を売

北越雪譜 原文
原文現代語訳

雪国にて悚(ふるひ)懼(おそるゝ)物は、冬の○雪吹(ふゞき)○ホウラ、春の雪頽(なだれ)なり。此奇状(きじやう)奇事(きじ)已(すで)に初編にもいへり、されど一奇談(いつきだん)を聞たるゆゑこゝにしるして暖国(だんこく)の話柄(はなしのたね)とす。

○そも〳〵金銭の貴(たつとき)こと、魯氏(ろし)が神銭論(しんせんろん)に尽(つく)したれば今さらいふべくもあらず。年(とし)の凶作はもとより事に臨(のぞん)で餓(うゑ)にいたる時小判を甜(なめ)て腹(はら)は彭張(ふくれ)ず、餓(うゑ)たる時の小判一枚は飯一碗(わん)の光をなさず。五十余年前の饑饉(ききん)の時、或所にて餓死(がし)したる人の懐に小判百両ありしときゝぬ。

○こゝに我が魚沼郡(うをぬまごほり)藪上(やぶかみ)の庄の村より農夫(のうふ)一人柏崎(かしはざき)の駅(えき)にいたる、此路程(みちのり)五里計(ばかり)なり。途中にて一人の苧纑商人(をがせあきびと)に遇(あ)ひ、路伴(みちづれ)になりて往(ゆき)けり。時は十二月のはじめなりしが数日の雪も此日晴(はれ)たれば、両人肩(かた)をならべて心(こゝろ)朗(のどか)にはなしながら已(すで)に塚(つか)の山といふ小嶺(ちひさきたふげ)にさしかゝりし時、雪国の恒(つね)として晴天(せいてん)俄(にはか)に凍雲(とううん)を布(しき)、暴風(ばうふう)四方の雪を吹散(ちら)して白日を覆(おほ)ひ、咫尺(しせき)を弁(べん)ぜず。袖襟(そでえり)へ雪を吹入れて全身(みうち)凍(こゞえ)て息(いき)もつきあへず、大風四面よりふきめぐらして雪を渦(うづ)に巻揚(まきあぐ)る、是を雪国にて雪吹といふ。此ふゞきは不意(ふい)にあるものゆゑ、晴天(せいてん)といへども冬の他行(たぎやう)には必蓑笠(みのかさ)を用ること我国の常なり。二人は橇(かじき)に雪を漕(こぎ)つゝ(雪にあゆむを里言にこぐといふ)互(たがひ)に声(こゑ)をかけて助(たすけ)あひ辛(からう)じて嶺(たふげ)を逾(こえ)けるに、商人(あきひと)農夫(のうふ)にいふやう、今日の晴天に柏崎(かしはざき)までは何ともおもはざりしゆゑ弁当(べんたう)をもたず、今空腹(すきはら)におよんで寒(さむさ)に堪(たへ)ず、かくては貴殿(おみさま)に伴(ともなひ)て雪を漕(こぐ)ことならず、さいぜんの話(はなし)におみさまの懐(ふところ)に弁当(べんたう)ありときゝぬ、夫(それ)を我に与(あた)へたまふまじきや、惟(たゞ)には貰(もら)ふまじ、こゝに銭六百あり、死(しぬ)か活(いきる)かの際(きは)にいたりて此銭を何にかせん、六百にて弁当を売(うり)玉へといふ。農夫(のうふ)は貧乏(びんぼふ)の者なりしゆゑ六百ときゝて大によろこび、焼飯(やきめし)二ツを出して六百の銭に替(かへ)けり。商人は懐(ふところ)にありて温(あたゝまり)のさめざる焼飯の大なるを二ツ食し、雪に咽(のど)を潤(うるほ)して精心(せいしん)健(すこやか)になり前にすゝんで雪をこぎけり。

○かくていそぐほどに雪吹(ふゞき)ます〳〵甚しく、橇(かじき)を穿(はく)ゆゑ道(みち)遅(おそ)く日も已(すで)に暮(くれ)なんとす。此時にいたりて焼飯を売たる農夫(のうふ)は肚(はら)減(へり)て労(つか)れ、商人は焼飯に腹(はら)満(みち)足をすゝめて往(ゆく)。農夫は屡(しば〳〵)後(おくる)るゆゑ終(つひ)には棄(すて)て独(ひとり)先(さき)の村にいたり、しるべの家に入りて炉辺(ろへん)に身(み)を温(あたゝめ)て酒を酌(くみ)、始(はじめ)て蘇生(よみがへり)たるおもひをなしけり。

○さてしばらくありてほうい〳〵と呼声(よぶこゑ)遠(とほ)く聞(きこゆ)るを家内の者きゝつけ、(ふゞきにほうい〳〵とよぶは人にたすけを乞ふことば也、雪中の常とす)雪吹倒(ふゞきたふ)れぞ、それ助けよとて、近隣(あたりとなり)の人をもよび集(あつ)め手毎(てごと)に木鋤(こすき)を持て(木鋤を持は雪に埋りし雪吹たふれの人をほりいださんため也、これも雪国の常也)走行(はせゆき)しが、やゝありて大勢のもの一人の死骸(しがい)を家の土間(どま)へ舁(かき)入れしを、かの商人(あきびと)も立寄(たちより)見れば、最前(さいぜん)焼飯(やきめし)を売(うり)たる農夫なりしとぞ。この苧纑(をがせ)商人、或時(あるとき)余(よ)が俳友(はいいう)の家に逗留(とうりう)の話(はなし)に件(くだん)の事を語(かた)り出(いだ)し、彼時(かのとき)我六百の銭を惜(をし)み焼飯を買(かは)ずんば、雪吹(ふゞき)の中(うち)に餓死(うゑじに)せんことかの農夫(のうふ)が如くなるべし、今日の命も銭六百のうちなりとて笑ひしと俳友(はいいう)が語(かた)れり。

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