五穀が豊かに実り、年貢も気安く納め、民がみな腹鼓を打つような春に、氏神の祭りなどにめぐり合わせたのを幸いに、地芝居を興行することがある。役者はみなその土地の素人、あるいは近くの村や宿場からも来る。師匠には田舎芝居の役者を雇う。はじめに寺などに集まって演目を決めてから、それぞれの役を決める。この寄り合いの議論はごたごたして、一度で決まったことがない。決まってから寺で稽古をはじめ、芸が上達してから初日を決める。衣装やかつらの類は、これを貸すことを商売にしている者がいるので、不足はない。
この芝居は二、三月ごろにすることがあり、このときはまだ雪の消えない銀世界である。そこで芝居小屋を作るところには、この役者たちの家はもちろん、親類縁者や友人からも人を出し、あるいは人を雇って、芝居小屋の地所の雪を平らに踏み固め、舞台・花道・楽屋・桟敷の類をすべてみな雪を集めてその形にまとめ、形よく造ることは下の図を見て知るべきである。この雪で造ったものは、天もまた人の仕事を助けて一晩のうちに凍って鉄や石のようになるので、どれほど大入りでも桟敷の崩れる心配はない。三月のころは雪もややまれなので、春らしい空を見て家ごとに雪囲いを取りのける時期なので、あちこちから雪囲いの丸太、あるいは「雪垂れ」といって茅で幅八、九尺、長さ二間ほどに作った簾を借り集めて、すべての日よけとする。舞台や花道は、雪で作った上に板を並べる。この板も一晩のうちに凍りついて、釘づけにしたよりも固い。暖かい国とは比べものにならない。物を売る茶屋も作る。どこも平らに一面の雪なので、物を煮るところは雪をくぼめてぬかを散らして火を焚くと、雪が解けないのは不思議である。
○さて芝居小屋の造作ができあがっても、春の雪が降り続いて何日も晴れず、興行の初日が延びるときは、役者になった家はもちろん、この芝居を見ようとあちこちに泊まっている客が多く、毎日空をながめて晴れるのを待ちわび、客のもてなしも尽くしてほとほと飽きはて、ついには役者仲間が申し合わせて、川の氷を砕いて水を浴び、千垢離をして晴れを祈るのもおかしい。
百樹(京山)が言う。私は丁酉の年(天保八年)の夏に北越に遊んで塩沢にいたとき、近くの村に地芝居があると聞いて京水とともに行った。寺の門のそばに杭を立てて横に長い行灯があり、これに題して「当院屋根普請の勧進のため、本堂において晴天七日のあいだ芝居を興行させるものである。名題は仮名手本忠臣蔵」とあり、役者の替え名が書いてあって、役者の名は多くは変名である。寺の門の中には仮の店があって物を売り、人が群がっている。芝居には仮に戸板を集めて囲った入り口があり、ここに番をする者がいて一人いくらと料金を取る。これが屋根普請の勧進である。本堂の上がり段に舞台を作りかけ、左に花道があり、左右の桟敷は竹の床に薦張りである。土間には薦を敷き、筵を並べる。旅回りの芝居はたいていこのようなものだと、市川白猿の話にも聞いた。桟敷のあちこちに、燃えるような赤い毛氈をかけ、後ろに彩色画の屏風を立てたのは今日の晴れの日だからである。四、五人の女がみな綿帽子をかぶっているのは、田舎に古風が失われていないのである。見物人が群れをなして大入りなので、猿のような子どもたちが木にのぼって見ているのもいる。小娘がざるを提げて「氷、氷」と呼んで土間の中を売り歩く。ざるの中に木の青葉を敷いて、雪の氷の塊を売るのである。茶を売るべきところに氷を売るのははなはだ珍しい。氷のことは「削り氷」の条で言う。
○さて口上が出てきて、寺への寄進の品、あるいは役者への贈り物、餅や酒の類を、一つ一つ人の名をあげ品を呼んで披露し、「ここは忠臣蔵七段目の始まり」と言って幕が開いた。お軽に扮したのは岩井玉之丞という田舎芝居の役者だそうで、なかなか美しい。由良之助に扮したのは、私が旅の途中で文雅によって知り合った人である。年が若いので、こういう遊びもするのだろう。ふだんとは変わって、今の坂東彦三郎に似ていた。芸もまた見ごたえがある。寺岡平右衛門になったのは、私の宿に来る髪結いである。これもふだんとは変わって関三十郎に似ていて、声もまた生まれつき関三のようである。私は京水と顔を見合わせて感心し、京水がふざけて「いよっ、尾張屋」とほめたが、尾張屋が関三の屋号であることは通じなかったのか、尾張屋とほめる者は一人もいない。一幕で帰ろうとしたが、番をする者が木戸から出さず、「便所は寺の後ろにあります。空腹なら弁当をお買いなさい。取り次ぎます」と言う。私たちだけでなく、ほかの人も出さない。思うに、人が散ると芝居場がさびしくなるのを嫌うからだろう。どこかに出口はないかと探したが、この寺の四方には垣根がめぐらしてあって出るすきまがない。ちょうど子どもが外から垣根を破って入ってきた、その穴から二人でくぐり出たのは、これもまたおかしいことの一つであった。