百樹曰、余丁酉の年の晩夏豚児京水を従て北越に遊し時、三国嶺を踰しは六月十五日なりしに、谷の底に鶯をきゝて、
足もとに鶯を聞く我もまた谷わたりするこしの山ぶみ
拙作なれども実境なれば記す。此嶺うちこし四里山径隆崛して数武も平坦の路を践ず浅貝といふ駅に宿り猶○二居嶺(二リ半)を越て三俣といふ山駅に宿し、芝原嶺を下り湯沢に抵んとする途にて遙に一楹の茶店を見る。庇のもとに床ありて浅き箱やうのものに白く方なる物を置たるは、遠目にこれ石花菜を売ならん、口には上らずとおもひながらも、山をはなれて暑もはげしく汗もしとゞに足もつかれたれば茶店あるがうれしく、京水とともにはしりいりて腰をかけ、かの白き物を見ればところてんにはあらで雪の氷なりけり。六月に氷をみる事江戸の目には最珍しければ立よりて熟視ば、深さ五寸計の箱に水をいれその中に小き踏石ほどの雪の氷をおきけり。売茶翁に問ば、これは山蔭の谷にあるなり、めしたまはゞすゝめんといふ。さらばとて乞ひければ翁菜刀を把、盎のなかへさら〳〵と音して削りいれ、豆の粉をかけていだせり。氷に黄な粉をかけたるは江戸の目には見も慣ず可笑ければ、京水と相目して笑をしのびつゝ、是は価をとらすべし、今ひとさらづゝ豆の粉をかけざるをとて、両掛に用意したる沙糖をかけたる削氷に、歯もうくばかり暑をわすれたるは珍しき事いはんかたなし。
そも〳〵このけづり氷といふ物を珍味とする事古書に散見せしその中に、定家卿の明月記に曰『元久二年七月廿八日途より和哥所に参る、家隆朝臣唐櫃二合を取寄らる、○破子○瓜○土器○酒等あり、又寒氷あり自刀を取り氷を削る、興に入る事甚し』(本書は漢文也)件の元久二年乙丑より今天保十一年まで凡六百三十余年を歴て、古人の如く削氷を越後の山村に賞味したる事珍とすべし奇とすべし。実に好古の肝を清くす。
○按にひといふは冰の本訓、こほりと訓は寒凝の義なりと士清翁が和訓栞にいへり。氷室といふ事、俳諧の季寄といふものなどにもみえたれば普人の知りたる事にて、周礼にもいでたれば唐土のむかしにもありしことなり。 御国は仁徳紀に見えたればその古きを知るべし。延喜式に山城国葛城郡に氷室五ヶ所をいだせり、六月朔日氷室より氷をいだして朝庭に貢献するを、諸臣にも頒賜事年毎の例なるよしなり。前に引し明月記の寒氷は朝庭よりの古例の賜にはあるべからず、いかんとなれば削氷を賞味せられしは七月廿八日なり、六月朔日にたまはりたる氷、七月廿八日まで消ずやあるべき。明月記は千写百摹の書なれば七は六の誤としても氷室を出し六月の氷朝を待べからず。盖貢献の後氷室守が私に出すもしるべからず。
○さて氷室とは厚氷を山蔭などの極陰の地中に蔵置、屋を作りかけて守らす、古哥にもよめる氷室守是なり。其氷室は水の氷ををさめおくやうに諸書の注釈にも見えしが、水の氷れるは不潔なり、不潔をもつて貢献にはなすべからず。且水の冰は地中に在りても消易ものなり、是他なし、水は極陰の物なるゆゑ陽に感じ易ゆゑなり。我越後に削氷を視て思に、かの谷間に在といひしは天然の氷室なり。むかしの冰室といふは雪の氷りむろなるべし。極陰の地に竅を作り、屋を造り掛、別に清浄の地に垣をめぐらして、人に踏せず、鳥獣にも穢させず、而雪を待、雪ふれば此地の雪をかの竅に撞こめ埋め、人是を守り、六月朔日是を開、最清浄なる所を貢献せしならん歟。是己が臆断を以て理に就て古の氷室を解するなり。
○氷室の古哥枚挙べからず。かの削氷を賞味し玉ひたる定家に(拾遺愚艸)「夏ながら秋風たちぬ氷室山こゝにぞ冬をのこすとおもへば」又源の仲正に(千載集)「下たさゆる氷室の山のおそ桜きえのこりたる雪かとぞ見る」この哥氷室山のおそ桜を消残りたる雪に見たてたる一首の意、氷室は雪の氷なるべくぞおもはるゝ。今加州侯毎年六月朔日雪を献じ玉ふも雪の氷なり。これにても古の氷室は雪の氷なるをおもふべし。
○さてかの茶店にて雪の氷をめづらしとおもひしに、その次日より塩沢の牧之老人が家に在しに、日毎に氷々とよびて売来る、山家の老婆などなり。掌ほどなるを三銭にうる、はじめは二三度賞味せしがのちには氷ともおもはざりき。およそ物の得がたきは珍らしく、得易はめづらしからざるは人情の恒なり。塩沢に居て六月の氷のめづらしからざりしをおもへば、吉野の人はよしのゝ花ともおもはず、松嶋の人は松嶋の月ともおもふまじ。たゞいつまでも飽ざる物は孝心なる我子の顔と、蔵置黄金の光なるべし。