越後の国の南は上州に隣りあう魚沼郡である。東は奥州・羽州に隣りあう蒲原郡・岩船郡である。国境はいずれも山々が波のように連なっているので雪が多い。東北は鼠ケ関(岩船郡のうち、出羽との境)、西は市振(頸城郡のうち、越中との境)に至る八十里の道のりは、すべて北の海辺である。海の気によって雪は一丈に至らず(年によって多い少ないがある)、また消えるのも早い。頸城郡の高田は海から遠くないが雪が深い。文化のはじめの大雪のとき、高田の町中(町の長さは一里を超える)が雪に埋まって闇夜のようになり、昼も夜もわからないことが十日あまり続き、町中の灯の油が尽きて人々が難儀したので、ご領主から家ごとに油をくだされたことがあった。このとき私の塩沢も大雪で、夜も昼もわからず家が雪に埋まって日の光を見ないことが十四、五日(毎日吹雪なので雪を掘ることができず、家が埋まって暗いのである)、人々の気がふさいで病気になる者もいた。
百樹が言う。私が牧之老人のこの書の草稿について増補の説を添え、出版のために筆耕に渡す一本を作っていたちょうどそのとき、老人がよこした手紙の中にこうあった。
「今年は雪が遅く、冬至になっても宿場の雪は一尺に足らず、この日並びでは今年は小雪だろうと皆々喜んでおりましたところ、二十四日(十一月である)の夕暮れから降りだし、二十五、六、七、八、九日まで五日のあいだ、昼夜に積もることおよそ一丈四、五尺にも及びました。毎年のことながら不意の大雪で、二十七日から二十九日まで宿場じゅう家ごとの雪掘りで混雑し、軒の外にたちまち玉の山を築き、戸外へも出られず困っております。今日もまた大吹雪になり、家の中が暗いので蝋燭でこの手紙をしたためております。どれほど降るか見当もつかず、一同心配しております」(下略)。これは今年(天保十年亥の年)十一月二十九日に出された手紙である。この文によっても越後の雪を知るべきである。
○私が越後で夏を過ごしたとき、五穀や野菜・果物の育ちには少しも雪を恐れた様子がない。山の景色も野の色も、雪があったとは思われず、雪の浅いよその国と同じである。『五雑組』に(天部)「百草は雪を恐れずに霜を恐れる。思うに雪は雲から生じて陽の位にあり、霜は露から生じて陰の位にある」とある。越後の夏を見て、謝肇淛のこの説に感服した。