八十七 雪頽に熊を得

北越雪譜 原文
原文現代語訳

酉陽雑俎(いうやうざつそ)に云(いふ)、熊胆(ゆうたん)春は首(くび)に在(あ)り、夏は腹(はら)に在り、秋は左の足にあり、冬は右の足にありといへり。余(よ)試(こゝろみ)に猟師(かりうど)にこれを問(とひ)しに、熊(くま)の胆(きも)は常に腹(はら)にありて四時(しじ)同じといへり。盖(けだし)漢土(かんど)の熊(くま)は酉陽雑俎(いうやうざつそ)の説(せつ)のごとくにや。凡(およそ)猟師(れふし)山に入りて第一(だいいち)に欲(ほつす)る処(ところ)の物は熊なり。一熊(いちゆう)を得(う)ればその皮とその胆(きも)と大小にもしたがへども、大(おほ)かたは金五両以上にいたるゆゑに猟師(れふし)の欲(ほつす)るなり。しかれども熊は猛(たけ)く、且(かつ)智(ち)ありて得(う)るに易(やす)からず。雪中の熊は皮(かは)も胆(きも)も常に倍(ばい)す、ゆゑに雪に穴居(けつきよ)するを尋(たづ)ね捜(さが)し、猟師(れふし)ども力(ちから)を戮(あは)せてこれを捕(と)るに種々(しゆ〴〵)の術(じゆつ)ある事初編(しよへん)に記(しる)せり。たま〳〵一熊(いちゆう)を得(う)るとも其儕(そのともがら)に価(あたひ)を分(わかつ)ゆゑ利得(りとく)薄(うす)し、さればとて雪中の熊は一人(ひとり)の力(ちから)にては得事(うること)難(かた)しとぞ。

○茲(ここ)に吾(わ)が住(すむ)近在(きんざい)に后谷村(ごやむら)といふあり。此村の弥左ヱ門といふ農夫(のうふ)、老(おい)たる双親(ふたおや)年頃(としごろ)のねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参詣(さんけい)させけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留守(るす)、隣家(りんか)の者過(あやまち)て火を出(いだ)したちまち軒(のき)にうつりければ、弥左ヱ門が妻(つま)二人(ふたり)の小児(こども)をつれて逃去(にげさ)り、命(いのち)一ツを助(たすか)りたるのみ、家財(かざい)はのこらず目前(もくぜん)の烟(けむり)となりぬ。弥左ヱ門は村に火災(くわさい)ありときゝて走皈(はせかへ)りしに、今朝(けさ)出(いで)し家は灰(はひ)となりてたゞ妻子(つまこ)の无㕝(ぶじ)をよろこぶのみ。此夫婦(ふうふ)心(こゝろ)正直(しやうぢき)にして親(おや)にも孝心(かうしん)なる者ゆゑ、人これを憐(あはれ)みまづしばらく我(わ)が家に居(を)るべしなど奨(すゝむ)る富農(ふのう)もありけるが、われ〳〵は奴僕(ぬぼく)の業(わざ)をなしても恩(おん)に報(むく)ゆべきが、双親(ふたおや)皈(かへ)り来りて膝(ひざ)を双(ならべ)て人の家に在(あ)らんは心も安からじとて諾(うけがは)ず。竊(ひそか)に田地(でんぢ)を分(わかち)て質入(しちいれ)なしその金にて仮(かり)に家を作り、親も皈(かへ)りて住(すみ)けり。草(くさ)を刈(かる)鎌(かま)をさへ買求(かひもとむ)るほどなりければ、火の為(ため)に貧(まづし)くなりしに家を焼(やき)たる隣家(りんか)へ対(むか)ひて一言(いちごん)の恨(うらみ)をいはず、交(まじは)り親(したし)むこと常にかはらざりけり。かくてその年もくれて翌年(よくとし)の二月のはじめ、此弥左ヱ門山に入(いり)て薪(たきゞ)を取りしかへるさ、谷に落(おち)たる雪頽(なだれ)の雪の中(なか)にきは〳〵しく黒(くろ)き物(もの)有(あり)、遙(はるか)にこれを視(み)て、もし人のなだれにうたれ死したるにやと辛(からう)じて谷に下り、是(これ)を視(み)れば稀有(けう)の大熊雪頽(なだれ)に打殺(うちころさ)れたるなりけり。此雪頽(なだれ)といふ事初編(しよへん)にもくはしく記(しるし)たるごとく、山に積(つも)りたる雪二丈にもあまるが、春の陽気(やうき)下(した)より蒸(むし)て自然(しぜん)に砕(くだ)け落(おつ)る事大磐石(だいばんじやく)を転(まろば)しおとすが如し。これに遇(あへ)ば人馬はさらなり、大木大石もうちおとさる。されば此熊もこれにうたれしゝたるなり。弥ざゑもんはよきものをみつけたりと大に悦(よろこ)び、皮(かは)も胆(きも)もとらんとおもひしが、日も西に傾(かたぶき)たれば明日(あす)きたらんとて人の見つけざるやうに山刀(やまがたな)にて熊を雪に埋(うづ)めかくし、心に目しるしをして家にかへり親(おや)にもかたりてよろこばせ、次のあした皮(かは)を剥(はぐ)べき用意をなしてかしこにいたりしに胆(きも)は常に倍(ばい)して大なりしゆゑ、弁当(べんたう)の面桶(めんつう)に入れて持かへりしを人ありて皮(かは)を金一両胆(きも)を九両に買(かひ)けり。弥ざゑもんはからず十両の金を得(え)て質(しち)入れせし田地をもうけもどし、これより屡(しば〳〵)幸(さいはひ)ありてほどなく家もあらたに作りたていぜんにまさりて栄(さかえ)けり。弥左ヱ門が雪頽(なだれ)に熊を得たるは金一釜(きんいつふ)を掘得(ほりえ)たる孝子(かうし)にも比(ひ)すべく、年頃(としごろ)の孝心(かうしん)を天(てん)のあはれみ玉ひしならんと人々賞(しやう)しけりと友人(いうじん)谷鴬翁(こくあうをう)がかたりき。

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