酉陽雑俎に云、熊胆春は首に在り、夏は腹に在り、秋は左の足にあり、冬は右の足にありといへり。余試に猟師にこれを問しに、熊の胆は常に腹にありて四時同じといへり。盖漢土の熊は酉陽雑俎の説のごとくにや。凡猟師山に入りて第一に欲る処の物は熊なり。一熊を得ればその皮とその胆と大小にもしたがへども、大かたは金五両以上にいたるゆゑに猟師の欲るなり。しかれども熊は猛く、且智ありて得るに易からず。雪中の熊は皮も胆も常に倍す、ゆゑに雪に穴居するを尋ね捜し、猟師ども力を戮せてこれを捕るに種々の術ある事初編に記せり。たま〳〵一熊を得るとも其儕に価を分ゆゑ利得薄し、さればとて雪中の熊は一人の力にては得事難しとぞ。
○茲に吾が住近在に后谷村といふあり。此村の弥左ヱ門といふ農夫、老たる双親年頃のねがひにまかせ、秋のはじめ信州善光寺へ参詣させけり。さてある日用ありて二里ばかりの所へゆきたる留守、隣家の者過て火を出したちまち軒にうつりければ、弥左ヱ門が妻二人の小児をつれて逃去り、命一ツを助りたるのみ、家財はのこらず目前の烟となりぬ。弥左ヱ門は村に火災ありときゝて走皈りしに、今朝出し家は灰となりてたゞ妻子の无㕝をよろこぶのみ。此夫婦心正直にして親にも孝心なる者ゆゑ、人これを憐みまづしばらく我が家に居るべしなど奨る富農もありけるが、われ〳〵は奴僕の業をなしても恩に報ゆべきが、双親皈り来りて膝を双て人の家に在らんは心も安からじとて諾ず。竊に田地を分て質入なしその金にて仮に家を作り、親も皈りて住けり。草を刈鎌をさへ買求るほどなりければ、火の為に貧くなりしに家を焼たる隣家へ対ひて一言の恨をいはず、交り親むこと常にかはらざりけり。かくてその年もくれて翌年の二月のはじめ、此弥左ヱ門山に入て薪を取りしかへるさ、谷に落たる雪頽の雪の中にきは〳〵しく黒き物有、遙にこれを視て、もし人のなだれにうたれ死したるにやと辛じて谷に下り、是を視れば稀有の大熊雪頽に打殺れたるなりけり。此雪頽といふ事初編にもくはしく記たるごとく、山に積りたる雪二丈にもあまるが、春の陽気下より蒸て自然に砕け落る事大磐石を転しおとすが如し。これに遇ば人馬はさらなり、大木大石もうちおとさる。されば此熊もこれにうたれしゝたるなり。弥ざゑもんはよきものをみつけたりと大に悦び、皮も胆もとらんとおもひしが、日も西に傾たれば明日きたらんとて人の見つけざるやうに山刀にて熊を雪に埋めかくし、心に目しるしをして家にかへり親にもかたりてよろこばせ、次のあした皮を剥べき用意をなしてかしこにいたりしに胆は常に倍して大なりしゆゑ、弁当の面桶に入れて持かへりしを人ありて皮を金一両胆を九両に買けり。弥ざゑもんはからず十両の金を得て質入れせし田地をもうけもどし、これより屡幸ありてほどなく家もあらたに作りたていぜんにまさりて栄けり。弥左ヱ門が雪頽に熊を得たるは金一釜を掘得たる孝子にも比すべく、年頃の孝心を天のあはれみ玉ひしならんと人々賞しけりと友人谷鴬翁がかたりき。