九十一 芭蕉翁が遺墨

北越雪譜 原文
原文現代語訳

およそ越後の雪をよみたる哥(うた)あまたあれども、越雪(こしのゆき)を目前(もくぜん)してよみたるはまれなり。西行(さいぎやう)が山家集(さんかしふ)、頓阿(とんあ)が草菴集(さうあんしふ)にも越後の雪の哥なし、此韻僧(ゐんそう)たちも越地の雪はしらざるべし。俊頼朝臣(としよりあそん)に「降雪(ふるゆき)に谷(たに)の俤(おもかげ)うづもれて稍(こずゑ)ぞ冬の山路(やまぢ)なりける」これらは実(じつ)に越後の雪の真景(しんけい)なれども、此あそん越後にきたり玉ひしにはあらず、俗(ぞく)にいふ哥人(かじん)は居(ゐ)ながら名所(めいしよ)をしるなり。 伊達政宗卿(だてまさむねきやう)の御哥に「さゝずとも誰(たれ)かは越(こえ)ん関(せき)の戸(と)も降(ふり)うづめたる雪(ゆき)の夕暮(ぐれ)」又「なか〳〵につゞらをりなる道(みち)絶(たえ)て雪に隣(となり)のちかき山里」此君は御名たかき哥仙(かせん)にておはしまししゆゑ、かゝるめでたき御哥もありて人の口碑(こうひ)にもつたふ。雪の実境(じつきやう)をよみ玉ひしはしろしめす御ン国も深雪(みゆき)なればなり。芭蕉翁が奥(おく)に行脚(あんぎや)のかへるさ越後に入り、新潟(にひがた)にて「海に降(ふ)る雨や恋(こひ)しきうき身宿(みやど)」寺泊(てらどまり)にて「荒海(あらうみ)や佐渡(さど)に横(よこ)たふ天の川」これ夏秋の遊杖(いうぢやう)にて越後の雪を見ざる事必(ひつ)せり。されば近来も越地に遊ぶ文人墨客(ぶんじんぼくかく)あまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷(ふるさと)へ逃皈(にげかへ)るゆゑ、越雪の詩哥(しいか)もなく紀行(きかう)もなし。稀(まれ)には他国の人越後に雪中するも文雅(ぶんが)なきは筆にのこす事なし。吾が国三条の人崑崙(こんろん)山人、北越奇談を出板せしが(六巻絵入かな本文化八年板)一辞半言(いちじはんげん)も雪の事をしるさず。今文運(ぶんうん)盛(さかん)にして新板湧(わく)がごとくなれども日本第一の大雪なる越後の雪を記(しる)したる書(しよ)なし。ゆゑに吾が不学(ふがく)をも忘(わす)れて越雪(ゑつせつ)の奇状(きぢやう)奇蹟(きせき)を記して後来(こうらい)に示(しめ)し、且越地(ゑつち)に係(かゝ)りし事は姑(しばら)く載(のせ)て好事(かうず)の話柄(わへい)とす。

さて元禄の頃(ころ)高田の御城下に細井昌庵(ほそゐしやうあん)といひし医師ありけり。一に青庵といひ、俳諧(はいかい)を善(よく)して号(がう)を凍雲(とううん)といへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり凍雲(とううん)をたづねて「薬欄(やくらん)にいづれの花を草枕(くさまくら)」と発句(ほつく)しければ、凍雲(とううん)とりあへず「萩(はぎ)のすだれを巻(まき)あぐる月」此時のはせをが肉筆(にくひつ)二枚ありて一枚は書損(しよそん)と覚しく淡墨(うすゞみ)をもつて一抹(ひとふで)の痕(あと)あり、二枚ともに昌庵主(しやうあんぬし)の家につたへしを、后(のち)に本書(しよ)は同所の親族(しんぞく)三崎屋吉兵衛の家につたへ、書損(しよそん)のは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の 邦君(はうくん)風雅(ふうが)をこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚持主(もちぬし)より奉りければ、吉兵ヱヘ常信(つねのぶ)の三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに 御蔵(ござう)となりぬと友人葵亭(きてい)翁がものがたりしつ。葵亭翁は蒲原郡(かんばらごほり)加茂明神の修験(しゆげん)宮本院名は義方吐醋(よしかたとさく)と号(がう)し、又無方斎(むはうさい)と別号(べつがう)す、隠居(いんきよ)して葵亭(きてい)といふ。和漢(わかん)の博識(はくしき)北越の聞人(なたかきひと)なり。芭蕉が件(くだん)の句ものに見えざればしるせり。

百樹(もゝき)曰、芭蕉居士(こじ)は寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩(はん)に生る。(次男なり)寛文六年歳廿四にして仕絆(しはん)を辞(じ)し、京にいでゝ季吟(きぎん)翁の門に入り、書(しよ)を北向雲竹(きたむきうんちく)に学(まな)ぶ。はじめ宗房(むねふさ)といへり、季吟翁の句集(くしふ)のものにも宗房とあり。延宝(えんはう)のすゑはじめて江戸に来り杉風(さんふう)が家に寄(よる)、(小田原町鯉屋藤左ヱ門)剃髪(ていはつ)して素宣(そせん)といへり、桃青(たうせい)は后(のち)の名なり。芭蕉(はせを)とは草庵(さうあん)に芭蕉を植(うゑ)しゆゑ人よりよびたる名の后(のち)には自(みづから)号(がう)によべり。翁の作に芭蕉を移辞(うつすことば)といふ文あり、その終(をは)りの辞(ことば)に「たま〳〵花さくも花やかならず茎太(くきふと)けれども斧(をの)にあたらず、かの山中不材(ふさい)の類木(るゐぼく)にたぐへてその性よし。僧(そう)懐素(くわいそ)は是に筆を走(はし)らし張横渠(ちやうくわうきよ)は新葉(しんえふ)を見て修学(しゆがく)の力(ちから)とせしとなり。予(よ)その二ツをとらず。たゞ此蔭(かげ)に遊びて風雨に破(やぶ)れ易(やす)きを愛(あい)す「はせを野分(のわき)して盥(たらひ)に雨をきく夜哉」此芭蕉庵の旧蹟(きうせき)は深(ふか)川清澄町(きよすみちやう)万年橋の南詰(づめ)に対(むか)ひたる今或侯(あるこう)の庭中(ていちゆう)に在り、古池の趾(あと)今に存せりとぞ。(余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書肆(しよし)刻(こく)を乞ども考証未足ゆゑに刻をゆるさず)翁(おきな)身を世外(せいぐわい)に置(おき)て四方に雲水(うんすゐ)し、江戸に趾(あと)をとゞめず。終(つひ)には元禄七年甲戊十月十二日「旅(たび)に病(やみ)て夢(ゆめ)は枯埜(かれの)をかけ廻(めぐ)る」の一句をのこして浪花の花屋が旅囱(りよさう)に客死(かくし)せり。是挙世(きよせい)の知る処なり。翁が臨終(りんじゆう)の事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉終焉記(しゆうえんき)に目前視るが如くに記(しる)せり。此記を視(み)るに翁いさゝか菌毒(きんどく)にあたりて痢(り)となり、九月晦日より病に臥(ふし)、僅(わづか)に十二日にして下泉(かせん)せり。此時病床(びやうじやう)の下(もと)にありし門人○木節(もくせつ)(翁に薬をあたへたる医なり)○去来(きよらい)○惟然(ゐねん)○正秀(せいしう)○之道(しだう)○支考(しかう)○呑舟(どんしう)○丈草(ぢやうさう)○乙州(おつしう)○伽香(かかう)以上十人なり。其角は此時和泉の淡(あは)の輪(わ)といふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の臨終(りんじゆう)に遇(あへ)り、奇遇(きぐう)といふべし。(以上終焉記を摘要す)其角が終焉記の文中に(此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり)『義仲寺にうつして葬礼義信を尽(つく)し京大坂大津膳所(ぜゞ)の連衆(れんじゆう)被官(ひくわん)従者(ずさ)までも此翁の情(なさけ)を慕(した)へるにこそ招(まねか)ざるに馳来(はせきた)る者三百余人なり。浄衣(じやうえ)その外智月と(百樹云、大津の米屋の母、翁の門人)乙州が妻縫(ぬひ)たてゝ着せまゐらす』又曰『二千余(よ)人の門葉辺遠(もんえふへんゑん)ひとつに合信(かつしん)する因(ちなみ)と縁(えん)との不可思議(ふかしぎ)いかにとも勘破(かんは)しがたし』百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十哲(てつ)をいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、庵(あん)に十哲とよぶ門人あり。至善(しぜん)の大道(たいだう)と遊芸(いうげい)の小技(せうぎ)と尊卑(そんひ)の雲泥(うんでい)は論におよばざれども、孔子七十にして魯国(ろこく)の城北(しろのきた)泗上に葬(はうふり)て心喪(こゝろのも)を服(ふく)する弟子(でし)三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に葬(はうむ)る時招(まねか)ざるに来る者三百余人、是以(こゝをもつて)人に師たるの徳ありしをおもふべし。盖(けだし)芭蕉の盆石(ぼんせき)が孔夫子の泰山(たいさん)に似たるをいふなり。芭蕉曾(かつて)駔儈(そくわい)の風(ふう)軽薄(けいはく)の習(しふ)少しもなかりしは吟咏(ぎんえい)文章(ぶんしやう)にてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の推慕(すゐぼ)する事今に於も不可思議(ふかしぎ)の奇人(きじん)なり。されば一句(く)一章(しやう)といへども人これを句碑(くひ)に作りて不朽(ふきう)に伝(つた)ふる事今猶(なほ)句碑(くひ)のあらざる国なし。吟海(ぎんかい)の幸祥(かうしやう)詞林(しりん)の福禎(ふくてい)文藻(ぶんさう)に於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる薬欄(やくらん)の一句の墨痕(ぼくこん)も百四十余年の后(のち)にいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、論外不思議(ろんぐわいふしぎ)といふべし。蜀山先生嘗(かつて)謂予(よにいつて)曰(いはく)、凡(およそ)文墨(ぶんぼく)をもつて世に遊ぶ者(もの)画は論せず、死後(しご)にいたり一字一百銭に当(あて)らるゝ身とならば文雅(ぶんがの)幸福足(たる)べしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭に当(あて)らるゝ事嗟乎(あゝ)難(かたい)かな。

○さてまた芭蕉が行状小伝(ぎやうぢやうせうでん)は諸書(しよしよ)に散見(さんけん)して普(あまね)く人の知る所なり、しかれども翁(おきな)の容㒵(かほかたち)は挙世(きよせい)知る人あるべからず。されば爰(こゝ)に一証を得(え)たるゆゑ、此雪譜(せつふ)に記載(きさい)して后来(こうらい)に示(しめ)すは、かゝる瑣談(さだん)も世に埋冤(まいゑん)せん事のをしければ、いざ然(さら)ばとて雪に転(ころば)す筆の老婆心(らうばしん)なり。

○こゝに二代目市川団十郎初代段(だん)十郎(のち団に改む)の俳号(はいがう)を嗣(つい)で才牛といふ。后(のち)に柏筵(はくえん)とあらたむ。(元文元年なり)此柏筵(はくえん)は、○正徳○享保○元文○寛保を盛(さかん)に歴(へ)たる名人なり。妻(つま)をおさいといひ、俳名を翠仙(すゐせん)といふ、夫婦ともに俳諧を能(よく)し文雅(ぶんが)を好(このめ)り。此柏筵(はくえん)が日記のやうに書残(かきのこ)したる老(おい)の楽(たのしみ)といふ随筆(ずゐひつ)あり。(二百四五十帋の自筆なり)嘗(かつて)梱外(こんぐわい)へ出(いだ)さゞりしを、狂哥堂真顔翁珎書(ちんしよ)なれば懇望(こんまう)してかの家より借りたる時余(よ)も亡兄(ばうけい)とともに読(よみ)しことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち柏筵(はくえん)一蝶が引船の絵の小屏風を風入れする旁(かたはら)にて、人参(にんじん)をきざみながら此絵にむかしをおもひいだして独言(ひとりごと)いひたるを記(しる)したる文に「我れ幼年(えうねん)の頃(ころ)はじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖を着(き)て、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本堤(づゝみ)を往(ゆき)し事今に忘(わすれ)ず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまた頗(すこぶ)る聞(きこ)えたり(中略)今日小川破笠老(はりつらう)まゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。常(つね)に茶のつむぎの羽織をきられ、嵐雪(らんせつ)よ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり」此文はせをを今目前に見るが如し。(翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし)小川破笠俗称平助壮年(さうねん)の頃(ころ)放蕩(はうたう)にて嵐雪と倶(とも)に(俗称服部彦兵ヱ)其角が堀江町の居(きよ)に食客(しよくかく)たりし事、件(くだん)の老(おい)の楽(たのしみ)又破笠が自記(じき)にも見ゆ。破笠一に笠翁また卯観(ばうくわん)子、夢中庵(むちゆうあん)等の号あり。絵(ゑ)を一蝶に学(まな)び、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆(ふで)とあり。描金(まきゑ)を善(よく)して人の粕(かす)をなめず、別に一趣(いつしゆ)の奇工(きこう)を為(な)す。破笠(はりつ)細工とて今に賞(しやう)せらる。吉原の七月創(はじめ)て機燈(からくりとうろ)を作りて今に其余波(よは)を残(のこせ)り、伝(でん)詳(つまびらか)なれどもさのみはとてもらせり。

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