およそ越後の雪をよみたる哥あまたあれども、越雪を目前してよみたるはまれなり。西行が山家集、頓阿が草菴集にも越後の雪の哥なし、此韻僧たちも越地の雪はしらざるべし。俊頼朝臣に「降雪に谷の俤うづもれて稍ぞ冬の山路なりける」これらは実に越後の雪の真景なれども、此あそん越後にきたり玉ひしにはあらず、俗にいふ哥人は居ながら名所をしるなり。 伊達政宗卿の御哥に「さゝずとも誰かは越ん関の戸も降うづめたる雪の夕暮」又「なか〳〵につゞらをりなる道絶て雪に隣のちかき山里」此君は御名たかき哥仙にておはしまししゆゑ、かゝるめでたき御哥もありて人の口碑にもつたふ。雪の実境をよみ玉ひしはしろしめす御ン国も深雪なればなり。芭蕉翁が奥に行脚のかへるさ越後に入り、新潟にて「海に降る雨や恋しきうき身宿」寺泊にて「荒海や佐渡に横たふ天の川」これ夏秋の遊杖にて越後の雪を見ざる事必せり。されば近来も越地に遊ぶ文人墨客あまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷へ逃皈るゆゑ、越雪の詩哥もなく紀行もなし。稀には他国の人越後に雪中するも文雅なきは筆にのこす事なし。吾が国三条の人崑崙山人、北越奇談を出板せしが(六巻絵入かな本文化八年板)一辞半言も雪の事をしるさず。今文運盛にして新板湧がごとくなれども日本第一の大雪なる越後の雪を記したる書なし。ゆゑに吾が不学をも忘れて越雪の奇状奇蹟を記して後来に示し、且越地に係りし事は姑く載て好事の話柄とす。
さて元禄の頃高田の御城下に細井昌庵といひし医師ありけり。一に青庵といひ、俳諧を善して号を凍雲といへり。ひとゝせはせを翁奥羽あんぎやのかへり凍雲をたづねて「薬欄にいづれの花を草枕」と発句しければ、凍雲とりあへず「萩のすだれを巻あぐる月」此時のはせをが肉筆二枚ありて一枚は書損と覚しく淡墨をもつて一抹の痕あり、二枚ともに昌庵主の家につたへしを、后に本書は同所の親族三崎屋吉兵衛の家につたへ、書損のは同所五智如来の寺にのこれり。しかるに文政のころ此地の 邦君風雅をこのみ玉ひしゆゑ、かの二枚持主より奉りければ、吉兵ヱヘ常信の三幅対に白銀五枚、かの寺へもあつき賜ありて、今二枚ともに 御蔵となりぬと友人葵亭翁がものがたりしつ。葵亭翁は蒲原郡加茂明神の修験宮本院名は義方吐醋と号し、又無方斎と別号す、隠居して葵亭といふ。和漢の博識北越の聞人なり。芭蕉が件の句ものに見えざればしるせり。
百樹曰、芭蕉居士は寛永廿年伊賀の上野藤堂新七郎殿の藩に生る。(次男なり)寛文六年歳廿四にして仕絆を辞し、京にいでゝ季吟翁の門に入り、書を北向雲竹に学ぶ。はじめ宗房といへり、季吟翁の句集のものにも宗房とあり。延宝のすゑはじめて江戸に来り杉風が家に寄、(小田原町鯉屋藤左ヱ門)剃髪して素宣といへり、桃青は后の名なり。芭蕉とは草庵に芭蕉を植しゆゑ人よりよびたる名の后には自号によべり。翁の作に芭蕉を移辞といふ文あり、その終りの辞に「たま〳〵花さくも花やかならず茎太けれども斧にあたらず、かの山中不材の類木にたぐへてその性よし。僧懐素は是に筆を走らし張横渠は新葉を見て修学の力とせしとなり。予その二ツをとらず。たゞ此蔭に遊びて風雨に破れ易きを愛す「はせを野分して盥に雨をきく夜哉」此芭蕉庵の旧蹟は深川清澄町万年橋の南詰に対ひたる今或侯の庭中に在り、古池の趾今に存せりとぞ。(余芭蕉年表一名はせを年代記といふものを作せり、書肆刻を乞ども考証未足ゆゑに刻をゆるさず)翁身を世外に置て四方に雲水し、江戸に趾をとゞめず。終には元禄七年甲戊十月十二日「旅に病て夢は枯埜をかけ廻る」の一句をのこして浪花の花屋が旅囱に客死せり。是挙世の知る処なり。翁が臨終の事は江州粟津の義仲寺にのこしたる榎本其角が芭蕉終焉記に目前視るが如くに記せり。此記を視るに翁いさゝか菌毒にあたりて痢となり、九月晦日より病に臥、僅に十二日にして下泉せり。此時病床の下にありし門人○木節(翁に薬をあたへたる医なり)○去来○惟然○正秀○之道○支考○呑舟○丈草○乙州○伽香以上十人なり。其角は此時和泉の淡の輪といふ所にありしが、翁大坂にときゝて病ともしらずして十日に来り十二日の臨終に遇り、奇遇といふべし。(以上終焉記を摘要す)其角が終焉記の文中に(此記義仲寺に施板ありて人の乞ふにあたふ、俳人はかならずみるべき書なり)『義仲寺にうつして葬礼義信を尽し京大坂大津膳所の連衆被官従者までも此翁の情を慕へるにこそ招ざるに馳来る者三百余人なり。浄衣その外智月と(百樹云、大津の米屋の母、翁の門人)乙州が妻縫たてゝ着せまゐらす』又曰『二千余人の門葉辺遠ひとつに合信する因と縁との不可思議いかにとも勘破しがたし』百樹おもへらく、孔子に三千の門人ありて門に十哲をいだす。芭蕉に二千の門葉ありて、庵に十哲とよぶ門人あり。至善の大道と遊芸の小技と尊卑の雲泥は論におよばざれども、孔子七十にして魯国の城北泗上に葬て心喪を服する弟子三千人、芭蕉五十二にして粟津の義仲寺に葬る時招ざるに来る者三百余人、是以人に師たるの徳ありしをおもふべし。盖芭蕉の盆石が孔夫子の泰山に似たるをいふなり。芭蕉曾駔儈の風軽薄の習少しもなかりしは吟咏文章にてもしらる。此翁は其角がいひしごとく人の推慕する事今に於も不可思議の奇人なり。されば一句一章といへども人これを句碑に作りて不朽に伝ふる事今猶句碑のあらざる国なし。吟海の幸祥詞林の福禎文藻に於て此人の右に出る者なし。されば本文にもいへるごとくかりそめにいひすてたる薬欄の一句の墨痕も百四十余年の后にいたりて文政の頃白銀の光りをはなつぞかし、論外不思議といふべし。蜀山先生嘗謂予曰、凡文墨をもつて世に遊ぶ者画は論せず、死後にいたり一字一百銭に当らるゝ身とならば文雅幸福足べしといはれき。此先生は今其幸福あり、一字一百銭に当らるゝ事嗟乎難かな。
○さてまた芭蕉が行状小伝は諸書に散見して普く人の知る所なり、しかれども翁の容㒵は挙世知る人あるべからず。されば爰に一証を得たるゆゑ、此雪譜に記載して后来に示すは、かゝる瑣談も世に埋冤せん事のをしければ、いざ然ばとて雪に転す筆の老婆心なり。
○こゝに二代目市川団十郎初代段十郎(のち団に改む)の俳号を嗣で才牛といふ。后に柏筵とあらたむ。(元文元年なり)此柏筵は、○正徳○享保○元文○寛保を盛に歴たる名人なり。妻をおさいといひ、俳名を翠仙といふ、夫婦ともに俳諧を能し文雅を好り。此柏筵が日記のやうに書残したる老の楽といふ随筆あり。(二百四五十帋の自筆なり)嘗梱外へ出さゞりしを、狂哥堂真顔翁珎書なれば懇望してかの家より借りたる時余も亡兄とともに読しことありき。そのなかに芝居土用やすみのうち柏筵一蝶が引船の絵の小屏風を風入れする旁にて、人参をきざみながら此絵にむかしをおもひいだして独言いひたるを記したる文に「我れ幼年の頃はじめて吉原を見たる時、黒羽二重に三升の紋つけたるふり袖を着て、右の手を一蝶にひかれ左りを其角にひかれて日本堤を往し事今に忘ず。此ふたりは世に名をひゞかせたれど今はなき人なり。我は幸に世にありて名もまた頗る聞えたり(中略)今日小川破笠老まゐらる。むかしのはなしせられたるなかに、芭蕉翁はほそおもてうすいもにていろ白く小兵なり。常に茶のつむぎの羽織をきられ、嵐雪よ、其角が所へいてくるぞよとものしづかにいはれしとかたられたり」此文はせをを今目前に見るが如し。(翁の門人惟然が作といふ翁の肖像あるひは画幅の肖像、世に流伝するものと此説とあはせ視るべし)小川破笠俗称平助壮年の頃放蕩にて嵐雪と倶に(俗称服部彦兵ヱ)其角が堀江町の居に食客たりし事、件の老の楽又破笠が自記にも見ゆ。破笠一に笠翁また卯観子、夢中庵等の号あり。絵を一蝶に学び、俳諧は其角を師とす。余が蔵する画幅に延享三年丙寅仲春夢中庵笠翁八十有四筆とあり。描金を善して人の粕をなめず、別に一趣の奇工を為す。破笠細工とて今に賞せらる。吉原の七月創て機燈を作りて今に其余波を残り、伝詳なれどもさのみはとてもらせり。