『雲根志』の霊異の部にこうある。「私の隣の家に勇ましい者がいて儀兵衛という。ある時、田上谷という山中に行って夜ふけに帰ると、向こうの山の谷底から青く光るものが虹のようにのぼって、その先は天に届いている。この男は勇ましい男なので、無二無三に草木をかき分けて山を越え、谷を渡ってその根もとを探ってみると、ただ何の変わったこともない石である。拾いとって背に負って帰ると、道すがら前のように光る。夜道の苦労がたいそう助かって、明け方ごろ家に着いた。その石を軒の外に置き、朝飯などをすませて、あの石を見ようとすると石がない。どうしたことかといろいろ探し求めたが、行方は知れなかったという。また、わが国(近江)の甲賀郡石原の潮音寺の和尚の話に、近くの村の農夫が畑を掘っていると、拳ほどの石を掘り出した。この石はふつうの石よりはなはだ美しい。それで持ち帰った。夜になると流れ星のように光る。友が言うには、これは霊石だ、人の持つものではない、家にあれば必ず災いがあるだろう、早く打ち割って捨てるがよいと。これを聞いて斧で打ち砕いて竹やぶの中へ捨てた。その夜、竹林一面が数万の蛍のように光った。翌朝、近くの村の人が聞き伝えて集まってきて、竹林を探してみたが、少しのかけらまで一つもなかった。また筑後国上妻郡の人が用があって夜中に近くの村へ行くと、一本の小川があった。歩いて渡っていると、何やら光るものがある。拾ってみると小石である。翌日あるところへ献上したが、しばらくしてなくなったという」(以上一条の全文)。これらはよその国のことである。わが越後にも夜光の玉があったことがある。
新発田(蒲原郡)から東北の加治というところと中条というところの間の道ばたの田の中に、庚申塚がある。この塚の上に大きさ一尺五寸ほどの丸い石を据えてこれを祭っている。この石は、以前、農夫が家の裏の竹林を掃除して竹の根などを掘ったときに掘り出したものである。その色は青みがあって黒く、はなはだなめらかである。農夫はこれをわらを打つ台にした。その夜、妻が庭に出ると、きらきらと光るものがある。妻は化け物だと驚いて叫んだ。主人が若い男を三人五人連れてきて光るものを打つと石である。みな怪しんで石を竹林に捨てた。その石は夜ごとに光り、村人は恐れて夜歩く者もいない。それでこの石を庚申塚に祭り、上に泥を塗って光を隠した。今も苔むしてある。物好きの人がこの石を欲しがっても、村人はたたりがあるのを恐れて許さないという。また駒ケ岳の麓、大湯村と栃尾村の間を流れる谷川を佐奈志川という。ある年、水が涸れたころ、水中に一点の光があり、蛍が水の中にいるようだった。何日も場所を移さなかったが、ある日暴風で水が増えて、光るものが場所を失った。後に四、五町川下に蛍の火のように光るものがあった。この地は山中なので村の者たちは愚かで、夜光の玉だとは知らず、あえて探し求める者もいなかったが、その秋の洪水で夜光の玉はまた流れて所在がわからなくなったという(以上『北越奇談』の説)。
さてここに夜光の玉の本当の話がある。私は文政二年卯の春、下越後を巡り歩いたおり、三島郡に入って弥彦明神を拝み、旧知の間柄なので高橋光則翁を訪ねると、翁は大いに喜んで一泊を許してくれた。この翁は和歌をよくし、また古いものを好む癖があって、すぐれた人である。風雅な話が湧くように出て、思わず杖をとどめること四、五日になった。
ある晩、翁が語ったのはこうである。「今から四、五十年前、吉田の(三島郡の内である)あたりの大鳥川という谷川に、夜な夜な光り物があるといって、人々は恐れて近づく者がいなかった。この川の近所に富長村という村があり、ここに鍛冶屋の兄弟がいて、一人の母を養っていたが、家はたいそう貧しかった。この兄弟は気の強い者なので、あの光り物を見きわめ、もし化け物なら退治して村の者たちの肝をつぶしてやろうと、ある夜、兄弟でそこへ行った。ちょうど秋のころで水かさも増した川面を見ると、月は暗くてただ水の音が聞こえるだけである。二人はたいまつを振り照らしてあちこちを見たが、光るものはまったくなく、また怪しむべきものも見えない。さては人の言うのはうそだろう、さあ帰ろうとしたところ、水の上がにわかに光を放った。それっと二人は着物を脱ぎ捨てて水に飛びこみ、泳ぎ寄って光るものを探ってみると、くくり枕ほどの石である。これを手に入れて家に帰り、まずかまどの下に置くと、光が部屋じゅうを照らした。これこれのことと母に語ると、不思議な宝を得たと親子で喜び、近所からも見に来る者があったが、物を知らない者たちなので、趙の璧や隋侯の珠のような宝とも思わずに過ごしていた。
その後、弟が分家するとき、家の物を二つに分けて弟に与えようと母が言うと、弟は家財は望まず、光る石を持っていきたいと言う。兄が言うには、『光る石を拾ったのはおれの企てだ。お前はおれの力を助けただけだ。光る石は親の譲りものではない、兄のものだ。家財を分けるなら親の譲りものこそ分けるべきだ。やるものか、やるものか』。弟は『いやいや、あの石はおれのものだ。なぜなら兄さんは光る石を拾おうという企てではなく、化け物を退治しようとして川へ行ったのだ。兄さんより先に川へ飛びこみ、光りものを探り当てて抱えあげたのもおれだ。だからおれが拾ったものを持っていって何が悪い』。『いやいやこの兄のものだ』『弟のものだ』と口論がやまず、ついにはつかみ合い殴り合いになったのを、母がやっとのことで押し静め、『それなら光る石を二つに割って分けなさい』と言う。弟はそれではと明玉を取り出して、鍛冶に使う金床の上に載せ、金槌で力まかせに打ったので、惜しいことに明玉は砕け、中に白玉を宿していたが、それも砕け、水があって四方へ飛び散った。その夜、水のかかったところが蛍の群がったように光り輝いたが、二、三晩でその光も消えうせたという。いかに愚か者の手にあったとはいえ、世にもまれな宝玉が田舎者の一槌を受けて滅びたのは、玉も人もともに不幸と言うべきだ」と語られた。
私、牧之が考えるに、橘春暉の著した『北窓瑣談』(後編の二)で石の収集家のことを言う条にこうある。「近江山田の浦の木内古繁(石亭)、伊勢の山中甚作、大坂の加島屋源太兵衛、そのほかにも三都の中の物好きや諸国の隠れた人で、石の収集で名の高い人が近年たいへん多い。私も諸家の珍しい石を見たが、みな一家の収蔵が三千種、五千種にもなり、五日十日かけてようやく目を通すことができるほどである。その多い中にも、格別に目を驚かすほどの珍奇なものはないものである。加島屋源太兵衛の話に、先年北国から人が来て、拳の大きさの夜光の玉があって、よく部屋じゅうを照らす、よい値なら売ろうと言ったので、すぐその人に託して、『その玉を買いたい。暗い夜にその玉の入った箱の中だけでも白く見えるなら金五十両で買おう。またその玉で闇夜に大きな文字一字でも読めるなら金百両で買おう。また手紙が読めるほどなら三百両、いよいよ部屋じゅうを照らすなら、わが身代を残らず尽くして買おう。仲立ちしてくだされ』と言ったが、その後何の便りもなくて終わった。うそだったと思われる」云々。この一段は、天明年間に石の収集が世に流行したころの加島屋の話を、そのまま春暉が後に記したものだろう。さてまた私があの鍛冶屋の玉の話を聞いたのは文政二年の春である。今から四、五十年前とあるので、鍛冶屋が玉を砕いたのは安永の末か天明の初めだろう。そうだとすれば、石の収集が流行したころなので、あの加島屋の話に北国の人が部屋を照らす玉の売り物があると言ったのは、わが国の縮商人などが鍛冶屋の玉のことを聞き伝えて、商売の口上を言ったのかもしれない。ところが玉は砕いたと聞いて、加島屋へ返事をしなかったのだろうか。卞和の玉も楚王を得たからこそ世に出たのである。右に載せた夜光の話は五つあり、三つはわが越後にあったことである。いずれも世に出なかった。ああ、惜しむべし、惜しむべし。
百樹が言う。『五雑組』の物の部に、鍛冶屋の話に似たことがある。「明の万暦の初め、閩中の連江というところの人が蛤を割って玉を得たが、それと知らずにこれを煮た。玉は釜の中で跳ねまわって落ち着かず、火の光が天を照らしたので、里の人々は火事だろうと驚いて来て消そうとした。玉を煮た者がそのわけを聞いて釜の蓋を開けて見ると、玉はすでに半ば枯れていた。その珠は直径一寸ほど、これこそまことの夜光明月の珠である。俗人に損なわれたのは悲しいことだ」と記している。またこうある(『五雑組』の同じ続き)。「魏の恵王の直径一寸の珠が前後の車十二台を照らしたというのは昔のこと、今は天子の宝蔵にも夜光珠はない」と、明の謝肇淛が『五雑組』で言っている。○『神異記』、○『洞冥記』にも夜光珠のことが見えるが、でたらめの類である。『古今注』には、すぐれて大きな鯨の目は夜光珠となるとある。卞和の玉も「これを割ると中に果たして玉があった」というから、石の中に玉を宿していたことは、鍛冶屋の砕いた玉が卞和の玉に似ている。趙の恵王の夜光の玉を、秦の昭王が城十五と換えようと言ったのは、加島屋が北国の明玉を身代を尽くして買おうと約束したのに似ている。
さてまた『癸辛雑識』続集(巻下)に、機織りの女が糸を水に浸しておいたところ、夜中に白く大きな蜘蛛が来てその水を飲むと、体から光を放った。その女はこれを見て大いに怪しみ、鶏かごをかぶせてその蜘蛛を捕らえると、腹に夜光珠があり、大きさは弾丸のようだったと記している(このことを、前の文で牧之老人が引いた『北越奇談』の玉の部に、越後にあったこととして出している。その内容は『癸辛雑識』と少しも違わない。思うに『癸辛雑識』は中国の本で、しかも容易には手に入らない書なので、『北越奇談』の作者が俗人の目に珍しさを示そうとして、たわむれに越後のこととして書き加えたのかもしれない。しかし『癸辛雑識』続集は江戸でさえ手に入りにくいので、本書を見たわけではあるまい。博識な人から伝え聞いたのだろう)。また『増一阿含経』(第三十三、等法品第三十九)に、転輪聖王の徳に備わった一尺六寸の夜光摩尼宝は、その国の十二由旬を照らすとある。文が長いので挙げない。思うに一由旬は異国の四十里、十二由旬は日本の道で六十六里である。一尺六寸の玉が六十六里四方を照らすとは不思議と言うべきだ。転輪王がこの玉を得て試しに高い旗竿の先に掲げると、人々は玉の光とも知らず夜が明けたと思って、それぞれ家業をはじめたと記してある。このことは碩学として名高い了阿上人の話に聞いて、その経を借りて読んだが、これこそ夜光の玉の親玉だろう。