我が塩沢近辺の風俗に、正月十五日まへ七八歳より十三四までの男の童ども斎の神勧進といふ事をなす。少し富家の童これをなすには𣖾木を上下より削り掛て鍔の形を作る、これを斗棒といふ。これを二本大小にさし、上下をちやくし、童僕に一升ますをもたせ又はひもありてくびにかくるあり。その中へ五六寸ばかりの木を頭ばかり人形に作り、目鼻をゑがき、二ツつくりて女神男神とし、女神はかしらに綿をきせ、紙にて作りたる衣服に紅にて梅の花などゑがく。男神には烏帽子をきせ、木をけづりかけて髭とす。紙のいふくに若松などゑがく。此二ツをかの升の内におき、斎の神勧進々々とよばゝりありく。敢物の欲にもあらず正月あそびの一ツなり、これ一人のみにあらず、児輩おの〳〵する事なり。これに与ふるものは切餅あるひは銭も与ふ。又まづしきものゝわらべらは五七人十人余も党をなし、茜木綿の頭巾にあさぎのへりをとりたるをかむり、かの斗棒を一本さし、かの二神を柳こりに入れて首にかけ〽さいの神くわんじん、銭でも金でもくはつ〳〵とおやれ〳〵 と門々をおしありく。これに銭をもあたへあるひは濁り酒などのませ、顔に墨をぬりてわらひどよめく、これかならずするならはせなり。又長岡のほとりにてはかの斗棒のけづりかけの三尺ばかりなるに、宝づくしなどゑがきたるをさして勧進す、これは小児にあらず、大人のいやしきがわざなり。勧進のことばに「ぜにでもかねでもおいやれ、らいねんの春は娵でも聟でもとるやうに、泉のすみからわくやうに、すつくらすわいとおいやれ〳〵」かくして勧進の銭をあつめて斎の神を祭る入用とするなり。(さいの神のまつり下にしるす)又去年むこよめをむかへたる家の門に、未明よりわらべども大勢あつまり、かの斗棒をもつて門戸を敲き、よめをだせむこをだせと同音によばゝりたゝく。これを里俗の祝事とすればいかる家なく、小どもを入れて物などくはするもあり、かゝる俗習他国にもあまたあるべし。
○さて此事たあいもなき小どものたはむれとのみおもひすぐししに、醒斎京伝翁が骨董集を読て本拠ある事を発明せり。骨董集上編下、粥の木の条に、○粥杖○祝木○ほいたけ棒といふ物、前にいひし斗棒に同じ。京伝翁の説に、粥の木とは正月十五日粥を烹たる薪を杖とし、子もたぬ女のしりをうてば男子をはらむといふ祝ひ事なりとて、○枕の草紙○狭衣○弁内侍の日記その外くさ〳〵の書を引て、上代の宮裏近古の市中粥杖の事を挙て、考証甚詳なり。今我が郡にいふ斗棒は則いにしへの粥杖の遺風なる事を発明せり、我国にも祝木あるひは御祝棒といふ所もあり。これ七八百年前より正月十五日にする事、京伝翁が引れたる書にてしらるゝなり。その引書の中にも明人の作「日本風土記」にあるはもつとも我国のによく似たり、此書は今より三百年ばかりいぜんの日本の風俗を明人が聞つたへて書たるものなれば、今我国にて小童のたはむれにするも三百年ばかりさきの風俗遠境にもうつりのこりたるなるべし。京伝翁が引たる日本風土記(巻の二時令の部とあり、漢文のまゝを引たれどこゝにはかなをまじふ)に「但街道郷村の児童年十五八九已上に及ぶ者、各柳の枝を取り皮を去り木刀に彫成なし、皮を以復外刀上に纏ひ用火焼黒め皮を去り以黒白の花を分つ、名づけて荷花蘭蜜といふ。再荊棘の条を取香花神前に挿供。次に集る各童手に木刀を執途に隊閙、凡有婚无子の婦木刀を将て遍身打之口に荷花蘭蜜と舎ふ。かならず此婦当年孕男を生」我国にて児童等が人の門を斗棒にてたゝき、娵をだせ聟をだせとのゝしりさわぐは、右の風土記の俗習の遺事なるべし。
百樹案に、件の風土記に再び荊棘の条を取り香花神前に挿といひしは、餅花を神棚へ供ずる事を聞て粥杖の事と混錯して記したるなるべし。然りとすれば餅花も古き祝事なり。