わが国で正月十五日に斎の神の祭りというのは、いわゆる左義長である。中国で爆竹といい、唐の人の除夜の詩に「竹爆ぜて千門響き、灯燃えて万戸明らかなり」の句があるので、爆竹は大晦日にすることである。わが国では正月十五日、清涼殿のお庭で青竹を焼き、正月の書き初めをこの火で焼いて天に奉るという意味とする。十八日にもまた竹を飾り、扇を結びつけて同じお庭で燃やされるのを祝い事とされる。民間もこれにならって、正月十五日に正月に飾ったものを集めて燃やす。これが左義長といって昔からすることである。これを斎の神祭りというのも古いことである。爆竹・左義長の故事は、俳諧の季寄せ『年浪草』に諸書を引いてくわしく述べている。
○わが郡中で小千谷という所は人家が千戸を超える豊かな土地である。それで斎の神(「斎」あるいは「幸」とも書く)の祭りも盛大である。これを祭るのに、その町々にそれぞれ毎年決まった場所があって、そこの雪を踏み固め、直径三間ほどにめぐらした高さ六、七尺の円い壇を雪で作り、これに二か所の登り段を作る。これも雪で作る。土地の人は呼んで「城」という。さて壇の中央に杉の生木を立てて柱とし、正月に飾ったものを何やかやとこの柱に結びつけたり積みあげたりして、しめ縄で上から結びめぐらして蓑のような形にし(かやをまぜて形を作る)、その頂に大根じめというものの左右に開いた扇をつけて、飛ぶ鳥の形を作りつける。壇の上には席を設けて神酒を供え、この町の長たる者が礼服をつけて拝み、土地の繁栄と幸福を祈る。このことが終わると清めた火を四隅から移す。油かすなど火の移りやすいようにしてあるので、めらめらと燃えあがる(この火で餅を焼いて食べると病を除くというのは、世に古くからあることである)。これがすなわち爆竹・左義長である。ほかの国でもすることである。ある人の話では、このことは百年あまり前までは江戸にもあったが、火災をはばかって禁止されてやんだという。
○さてまた「おんべ」というものを作って、この左義長にかざして火を移らせて焼くのを祝い事とする。おんべは「御幣」のなまりである。その作り方は、白紙と色紙とを数百枚つぎ合わせたものを細い幣束のように切りさげ、末に扇の地紙の形を切り残す。これを数千集めて青竹にくくりつけて垂らす。大小長短は作る家の思いのままで、大きいのを人に誇る。竿の先に開いた扇を四つ寄せて、扇には家の紋などを彩って描く。色紙で作るものなのでたいへんみごとである。これを作ってまずそれぞれの家の門に立てておくことは、五月の幟の扱いと同じである。十五日になって例の場所へ持っていき、左義長にかざして焼き捨てるのを祝いとし、楽しみとする。見物の人が群れをなすのはもちろん、事が終わるとあちこちで祝い酒の宴を開く。これはみな国の殿様の盛んな徳のおかげである。よそにも左義長はあるが、まずは小千谷を盛大とする。
百樹が言う。私が京水を連れて越後に遊んだとき、この小千谷の人、岩淵氏(牧之老人の親族である)の家に十四日間逗留した(八月である)。主人の跡取りは二十四、五歳ほどで、号を岩居といい、書をよくする。私をたいへん手厚くもてなしてくれた。小千谷は北越の一つの市場町で、商家が鱗のように並び、何でもそろっている。海からわずか七里なので魚類にも不自由しない。私が塩沢にいたのは四十日あまりで、そこは海から遠くて夏は海の魚に乏しく、江戸者の口に魚肉が入らないこと四十日あまりだったが、小千谷に来てはじめて生の鯛を食べたときの美味しさは言いようもなかった。また鮭の時節で、小千谷の前の川は海に注ぐ大河なので、今とったものをすぐに料理する。味は江戸にまさっていた。ある日、鮭をてんぷらというものにして出した。私が岩居に向かって、これはこの土地では何という名で呼ぶのかと尋ねると、岩居は「これはテンプラといいます。私は長年この名の意味がわからず、古老に尋ねましたが知る人はまったくいません。先生の説をうかがいたい」と言う。私は答えて「まず食べ終わってからテンプラの由来を話そう」と言いながら、鮭のてんぷらを飽きるほど食べた。