岩居に語って言った。「今から五十年あまり前、天明の初年、大坂で下男を四、五人も使うほどの家の次男で、年は二十七、八歳ほどの利助という者が、自分より二つも年上の芸者を連れて駆け落ちし、江戸に下って私の家(京橋南街第一の路地)の向かいの裏長屋に住んだ。ある日ことのついでに私の家に来てから、いつも出入りして下男のように使いなどさせていたが、色街で身を持ちくずした者なので話もおもしろく、才もあってよく用を足したので、惜しい人に銭がないと亡兄も冗談に言われた。ある日、利助が言うには、『江戸にはごま揚げの辻売りが多いが、大坂ではつけ揚げといって、魚肉のつけ揚げはうまいものだ。江戸にはまだ魚のつけ揚げを夜店で売る人がない。私はこれを売ろうと思うがどうだろう』。亡兄(京伝)が言うには、『それはよい思いつきだ、まず試してみよう』と言ってさっそく作らせたところ、いかにも美味である。利助が言うには、『これを夜店の辻で売るのに、その行灯に"魚のごま揚げ"と記すのも何やら回りくどい。何か名をつけてください』と頼んだので、亡兄はしばらく思案して筆を取り、『天麩羅』と書いて見せた。利助はいぶかしげな顔をして、『天麩羅とはどういういわれですか』と言う。亡兄はほほえみながら、『あなたは今、天竺浪人(宿なしの浪人)だ。ぶらりと江戸へ来て売りはじめる物だから"てんぷら"だ。これに"麩羅"という字を当てたのは、麩は小麦の粉で作る、羅は薄物と読む字だ。小麦の粉の薄物をかけたということだ』と冗談を言われると、利助も洒落た男なので、天竺浪人のぶらつきだから天ぷらとはおもしろいと大いに喜び、やがてこの店を出すとき行灯を持ってきて字を求めたので、私が幼いころ『天麩羅』と大書して与えた。このてんぷらは一つ四文で、毎晩売り切れるほどだった。さてひと月もたたないうちに近所のあちこちにてんぷらの夜店が出て、今は天麩羅の名が油のように世間に染みわたり、この小千谷でまでてんぷらの名で呼ぶのは一つの奇事と言うべきだ。けれども京伝翁が名づけ親で利助が売りはじめたとは、どんな大学者の大先生も知るまい。てんぷらの講釈をするのは天下に私一人だ」と戯れたので、岩居も手を打って笑った。
○先年このてんぷらの話を友人の静廬翁に語ったところ(翁は和漢の学に広く通じた、当代に名の知れた人である)、翁は「『事物紺珠』(明の黄一正の作、二十四巻)の夷食の部に、てんぷらに似た名があった」と言われたので、その書を借りて読むと、○「塔不剌」とあって、注に○ねぎ○山椒○油○醤を炒り、後から鴨あるいは鶏○鵞鳥を入れ、とろ火で煮るとある。蟹を油揚げにするのも見えていた。
○さて天麩羅が広まったのに似たことがあるので、ついでに記す。○『橘菴漫筆』に(享和元年、京の田仲宣の作)「京の下河原に佐野屋嘉兵衛という者が、享保年間に長崎から上京して、はじめて大碗十二の卓袱料理を作って広めた。これが京・大坂の卓袱料理のはじめという。嘉兵衛の娘はんという者が老婆となって近ごろまで存命していた。すなわち今の佐野屋の祖である。大坂でもあれこれ卓袱料理がたくさん広まったが、野堂町の貴徳斎ほど長く続いたものはない」。岩居がてんぷらをふるまってくれた夜、その友人の蓉岳が来て(桜屋という菓子屋)、私が酒を好まないと聞いて、自家製だといって練り羊羹をくれた。味は江戸と同じである。私は越後で練り羊羹を味わって大いに感嘆し、岩居に言った。「この練り羊羹も近年のものだ。ふつうの羊羹に比べて味がまさっている。私が幼いころはふつうの羊羹さえ身分の低い者の口には入らなかったのに、江戸から遠く離れたこの地にもできたての練り羊羹があるのは、実に太平の世の徳化だ」と言うと、蓉岳も書画をよくし文事もたしなむ物好きなので、これを聞いてひざを進め、「菓子はわが家の家業です。練り羊羹を近来のものとおっしゃるいわれをお示しください」と言う。私は語って言った。「○寛政のはじめ、江戸日本橋通一丁目の横町、字を式部小路という所に喜太郎といって、夫婦に丁稚を一人使い、菓子屋とは見えない格子造りに看板も掛けない者がいた。この喜太郎は以前、高貴な方のお菓子を調進する家の菓子職人だったという。奉公をやめてここに住み、極上の菓子ばかりを作って茶人や富豪にだけ売っていた。さてこの者の工夫として、はじめて練り羊羹と名づけて売ったところ(羊羹の本字は"羊肝"であることは『芸苑日鈔』に言う)、喜太郎の練り羊羹といって人々が珍しがってもてはやした。しかし一人の手で作るので、今日は売り切れたといって使いの重箱がむなしく帰ることがたびたびだった。これは私が目の前で見たことである。こうして一、二年のうちに菓子屋二軒が喜太郎をまねて練り羊羹を作り、それも珍しがられたが、今は江戸の菓子屋は言うまでもなく、だんだん広まってこの小千谷にもあるのだから、この国の市の立つ所には必ずあるだろうし、また諸国にもあるだろう」と言うと、蓉岳は笑って「小倉羹もあり、八重成り羹もあります。明日お持ちしましょう」と言った。これらのことは「雪譜」の名には似つかわしくない話だが、本文の小千谷の話で思い出したので、人の話の種に記した。なお近古の食べ物の起源はいろいろあるが、私の『食物沿革考』に上古から挙げて記したので、ここでは省いた。