九十八 てんぷらの説・煉羊羹の起原

北越雪譜 原文
原文現代語訳

岩居(がんきよ)に語(かたり)て曰(いはく)、今をさる事五十余年前(ぜん)天明の初(しよ)年大阪にて家僕(かぼく)四五人もつかふほどの次男年(とし)廿七八ばかり利助といふもの、その身よりとしの二ツもうへの哥妓(げいしや)をつれて出奔(しつほん)し、江戸に下り余が家の(京橋南街第一衖)対(むか)ひの裏屋(うらや)に住しに、一日(あるひ)事の序(ついで)によりて余が家に来りしより常に出入(でいり)して家僕(かぼく)のやうに使(つかひ)などさせけるに、花柳(くわりう)に身を果(はた)したるものゆゑはなしもおもしろく才もありてよく用を弁(べん)ずるゆゑ、をしき人に銭(ぜに)がなしとて亡兄(ばうけい)もたはむれいはれき。ある日利助いふやう、江戸には胡麻揚(ごまあげ)の辻売(つじうり)多し、大阪にてはつけあげといふ魚肉(ぎよにく)のつけあげはうまきものなり、江戸にはいまだ魚のつけあげを夜みせにうる人なし、われこれをうらんとおもふはいかん。亡兄(ばうけい)(京伝)いはく、それはよきおもひつきなりまづこゝろむべしとて俄(にはか)に調(てう)じさせしに、いかにも美味(びみ)なり。利助いはく、これを夜みせの辻にうらんにその行灯(あんどん)に魚のごまあげとしるさんもなにとやらまはりどほし、なにとか名をつけて玉はれと乞(こ)ひければ、亡兄(ばうけい)しばらくしあんして筆をとり天麩羅(てんふら)とかきてみせければ、利助不審(ふしん)の㒵(かほ)をなし天麩羅(てんふら)とはいかなる所謂(いはれ)にかといふ。亡兄うちゑみつゝ足下(そこ)は今天竺浪人(てんぢくらうにん)なり、ぶらりと江戸へきたりて売創(うりはじむ)る物ゆゑに天ふらなり、是(これ)に麩羅(ふら)といふ字を下(くだ)したるは麩(ふ)は小麦の粉にてつくる、羅(ら)はうすものとよむ字なり。小麦の粉のうすものをかけたといふ㕝なりと戯言(たはむれごと)云れければ、利助も洒落(しやれ)たる男ゆゑ、天竺浪人のぶらつきゆゑ天ふらはおもしろしと大によろこび、やがて此店(みせ)をいたす時あんどんを持きたりて字をこひしゆゑ、余(よ)がをさなき時天麩羅と大書(たいしよ)して与へしに此てんぷら一ツ四銭にて毎夜うりきるゝ程なり。さて一月もたゝざるうちに近辺(きんべん)所々にてんぷらの夜みせいで、今は天麩羅の名油のごとく世上に伝染(しみ)わたり、此小千谷(をぢや)までもてんぷらの名をよぶ事一奇事といふべし。されども京伝翁が名づけ親にて利助が売はじめたりとはいかなる碩学鴻儒(せきがくかうじゆ)の大先生もしるべからず。てんぷらの講釈(こうしやく)するは天下に我一人なりとたはむれければ、岩居(がんきよ)も手(て)をうちて笑ひけり。

○先年此てんぷらの話(はなし)を友人静廬(せいろ)翁に語りしに(翁は和漢の博達時鳴の聞人なり)翁曰、事物紺珠(じぶつかんしゆ)(明人黄一正作廿四巻)夷食(いしよく)の部にてんぷらに似たる名ありきといはれしゆゑ、其書(しよ)を借(か)りえてよみしに、○塔不剌(たふふら)とありて注(ちゆう)に○葱(ねぎ)○椒(さんしよ)○油○醤(ひしほ)を熬(いりつけ)、後(あと)より鴨(あひる)或は雞○鵞(が)をいれ、慢火(ぬるひ)にて養熟(しあげる)とあり。蟹(かに)をあぶらげにするも見えたり。

○さて天麩羅の播布(はんふ)に類(るゐ)せる事あり、因(ちなみ)に記す。○橘菴漫筆(きつあんまんひつ)に(享和元年京の田仲宣作)「京師下河原に佐野屋嘉兵衛といふもの、享保年中長崎より上京して初て大碗十二の食卓(しつほく)を料理して弘めける。是京師浪花(おほざか)に食卓(しつほく)料理の初とかや。嘉兵衛娘はんといへるもの老婆(らうば)となりて近頃まで存命せり、則今の佐野屋祖なり。大坂にてかれこれ食卓料理あまた弘りたれど野堂(のど)町の貴徳斎(きとくさい)ほど久しくつゞきたるはなし」岩居(がんきよ)がてんぷらをふるまひたる夜その友蓉岳(ようがく)来り、(桜屋といふ菓子や)余が酒をこのまざるを聞て家製(かせい)なりとて煉羊羹(ねりやうかん)を恵(めぐみ)ぬ、味(あぢは)ひ江戸に同じ。余(よ)越後にねりやうかんを賞味して大に感嘆(かんたん)し、岩居に謂(いひて)曰(いはく)、此ねりやうかんも近年のものなり、常のやうかんにくらぶれば味(あぢは)ひまされり。吾(わ)がをさなきころは常のやうかんすらいやしきものゝ口には入らざりしに、江戸をさる事遠き此地にも出来逢(できあひ)のねりやうかんあるは実(じつ)に大平の徳化(とくくわ)なりといひしに、蓉岳(ようがく)も書画をよくし文事(ぶんじ)もありて好事(かうず)ものなればこれをきゝてひざをすゝめ、菓子は吾が家産(かさん)なり、ねりやうかんを近来のものといふ由来(ゆらい)を示(しめ)し玉へといふ。余(よ)かたりていはく、○寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町字(あざな)を式部小路(しきぶこうぢ)といふ所に喜太郎とて夫婦に丁稚(でつち)ひとりをつかひ菓子屋とは見えぬ𥴩子造(かうしづくり)にかんばんもかけず、此喜太郎いぜんは 貴重(きちよう)の御菓子を調進(てうしん)する家の菓子杜氏(とうじ)なるよし。奉公をやめてこゝに住し、極製(こくせい)の菓子ばかりをせいして茶人又は富家のみへあきなひけり。さて此者が工風とてはじめて煉羊羹(ねりやうかん)と名づけてうりけるに(羊羹(やうかん)本字は羊肝(やうかん)なる事芸苑日鈔(げいゑんにつせう)にいへり)喜太郎がねりやうかんとて人々めづらしがりてもてはやしぬ。しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきらしたりとてつかひの重箱空(むな)しくかへる事度々なり、これ余(よ)が目前(もくぜん)したる所なり。かくて一二年の間に菓子や二軒にて喜太郎をまねてねりやうかんをせいし、それもめづらしかりしに今は江戸の菓子やはさらなり、迫々弘り此小千谷(をぢや)にもあれば此国に市会(しくわい)をなす所にはかならずあるべく又諸国にもあるべしといひければ、蓉岳(ようがく)わらつて小倉羹(をぐらかん)もあり八重なりかんもあり、あすはまゐらすべしといへり。これらの事雪譜の名には似気(にげ)なき弁(べん)なれど本文小千谷(をぢや)のはなしにおもひいだしたれば人の話柄(わへい)に記(しる)せり。なほ近古(きんこ)食類(しよくるゐ)の起原(きげん)さま〴〵あれど余(よ)が食物(しよくもつ)沿革考(えんかくかう)に上古より挙(あげ)てしるしたればこゝにはもらせり。

現代語訳で読む →
← 前の項九十七 斎の神の祭