九十九 雪中の狼

北越雪譜 原文
原文現代語訳

初編(しよへん)にもしるしたるごとく、我国の獣(けもの)冬にいたれば山を踰(こえ)て雪浅(あさき)国へさる、これ雪ふかくして食(しよく)にとぼしきゆゑなり。春にいたればもとの棲(すみか)へかへる。されども雪いまだきえざるゆゑ食(しよく)にたらず、をりふしは夜中人家(じんか)にちかより犬などとり、又人にかゝる事もあり、これ山村(さんそん)の事なり。里には人多きゆゑおそれてきたらざるにや。雪中に穴居(けつきよ)するは熊(くま)のみなり。熊は手に山蟻(やまあり)をすりつけ、これをなめて穴居(けつきよ)の食(しよく)とするよしいひつたふ。

○こゝに我(わが)郡中(ぐんちゆう)の山村(さんそん)に(不祥(ふしやう)のことなれば地名人名をはぶく)まづしき農夫(のうふ)ありけり、老母と妻と十三の女子七ツの男子あり。此農夫性質(せいしつ)篤実(とくじつ)にしてよく母につかふ。ひとゝせ二月のはじめ、用ありて二里ばかりの所へいたらんとす、みな山道(やまみち)なり。母いはく、山なかなれば用心なり、筒(つゝ)をもてといふ、実(げ)にもとて鉄炮(てつはう)をもちゆきけり。これは農業(のうげふ)のかたはら猟(れふ)をもなすゆゑに国許(こくきよ)の筒(つゝ)なり。かくてはからず時をうつし日も暮(くれ)かゝる皈(かへ)りみち、やがて吾が村へ入らんとする雪の山蔭(かげ)に狼(おほかみ)物を喰(くら)ふを見つけ、矢頃(やごろ)にねらひより火蓋(ひぶた)をきりしにあやまたずうちおとしぬ。ちかよりみればくらひゐたるは人の足(あし)なり。農夫大におどろき、さては村ちかくきつるならんと我家(わがや)をきづかひ狼(おほかみ)はそのまゝにしてはせかへりしに、家のまへの雪の白きに血(ち)のくれなゐをそめけり。みるよります〳〵おどろきはせいりければ狼二疋逃(にげ)さりけり、あたりをみれば母はゐろりのまへにこゝかしこくひちらされ、片足(かたあし)はくひとられてしゝゐたり。妻(つま)は囱(まど)のもとに喰伏(くひふせ)られあけにそみ、そのかたはらにはちゞみの糸などふみちらしたるさまなり。七ツの男の子は庭(には)にありてかばね半(なか)ば喰(くは)れたり。妻(つま)はすこしいきありて夫(をつと)をみるよりおきあがらんとしてちからおよばず、狼(おほかみ)がといひしばかりにてたふれしゝけり。農夫(のうふ)はゆめともうつゝともわきまへず鉄炮(てつはう)もちて立あがりしが、さるにても娘(むすめ)はとてなきごゑによびければ、床(ゆか)の下よりはひいで親にすがりつきこゑをあげてなく、おやもむすめをいだきてなきけり。山家(さんか)は住居(ぢゆうきよ)もこゝかしこはなれあるものゆゑ、これらの事をしるものもなかりけり。農夫(のうふ)は時の間(ま)に六十の母、三十の妻、七ツの子を狼の牙(きば)にころされ、歯(は)がみをなして口をしがり、親子ふたり、くりこといひつゝ声をあげてなきゐたり。村のものやう〳〵にきゝつけきたり此体(てい)をみておどろきさけびければ、おひ〳〵あつまりきたり娘にやうすをたづねければ、囱(まど)をやぶりて狼三疋はせいりしが、わしは竈(かまど)に火をたきてゐたりしゆゑすぐに床(ゆか)の下へにげ入り、ばゞさまと母さまとおと(弟)がなくこゑをきゝて念仏(ねんぶつ)申てゐたりといふ。かくて此ありさまをいふべき所へつげしらせ、次の日の夕ぐれ棺(くわん)一ツに妻(つま)と童(わらべ)ををさめ、母の棺(くわん)と二ツ野辺(のべ)おくりをなしけるに涙(なみだ)そゝがざるものはなかりけるとぞ。おもふにはゝが筒(つゝ)をもてといひしゆゑ、母の片足(かたあし)を雪の山蔭(かげ)にくらひゐたる狼(おほかみ)をうちおとして母の敵(かたき)はとりたれど、二疋をもらししはいかに口惜(くちをし)かりけん。これよりのち此農夫(のうふ)家を棄(すて)、娘(むすめ)をつれて順礼(じゆんれい)にいでけり。ちかき事なれば人のよくしれるはなしなり。

百樹(もゝき)曰、日本の狼は幻化(ばける)事をきかず、唐土(もろこし)の狼はばけること老狐にことならず。宋人(そうひと)李昉等(りはうとう)が太平広記畜獣(ちくじう)の部に(四百四十二巻)狼(おほかみ)美人(びじん)に幻化して少年(わかいひと)と通じ、あるひは人の母にばけて年七十になりてはじめてばけをあらはして逃(にげ)さり、又は人の父を喰殺(くひころ)してその父にばけて年を歴(へ)たるに、一日その子山に入りて桑(くは)を採(と)るに、狼(おほかみ)きたりて人の如く立其裾(そのすそ)を銜(くはへ)たるゆゑ斧(をの)にて狼の額(ひたひ)を斫(きり)、狼にげ去(さ)りしゆゑ家にかへりしに、父の額(ひたひ)に傷(きず)の痕(あと)あるを視(み)て狼なることをさとり、これを殺(ころ)すに果(はた)して老狼(おいたるおほかみ)なり。親をころしたるゆゑ自(みづから)県(けん)にいたりて事の由(よし)をつげたる事など○広異(くわうい)記○宣室志(せんしつし)を引てしるせり。悍悪(かんあく)の事に狼の字をいふもの○残忍(ざんにん)なるを豺狼(さいらう)の心といひ○声のおそろしきを狼声(らうせい)といひ○毒(どく)の甚(はなはだ)しきを狼毒(らうどく)といひ○事の猥(みだりなる)を狼々(らう〳〵)○反相(はんさう)ある人を狼顧(らうこ)○義(ぎ)无(なき)を中山狼○恣(ほしいまゝ)に食(くふ)を狼飡(らうざん)○病(やまひ)烈(はげしき)を狼疾(らうしつ)といひ○狼藉(ろうぜき)○狼戻(らうれい)○狼狽(らうばい)など、皆彼(かれ)に譬(たとへ)て是をいふなり。(文海披沙)されば獣中(じうぢゆう)最(もつとも)可悪(にくむべき)は狼(おほかみ)なり。余(よ)竊(ひそか)に以為(おもへらく)、狼は狼にして狼なれども、人にして狼なるはよく狼をかくすゆゑ、狼なるをみせず。これが為(ため)に狼毒(らうどく)をうくる人あり。人の狼なるは狼の狼なるよりも可惧(おそるべく)可悪(にくむべし)。篤実(とくじつ)を外面(げめん)とし、奸慾(かんよく)を内心(ないしん)とするを狼者(おほかみもの)といひ、娵(よめ)を悍戻(いびる)を狼老婆(おほかみばゝ)といふ。巧(たくみ)に狼心(らうしん)をかくすとも識者(しきしや)の心眼(しんがん)は明鏡(めいきやう)なり。おほかみ〳〵惧(おそれ)ざらんや恥(はぢ)ざらんや。

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