板額女は加治の明神山の城主、長太郎祐森の妻で、古志郡の生まれである。また三歳の子どもでも知っている酒呑童子は蒲原郡砂子塚村の生まれで、今も屋敷跡がある。はじめは雲上山国上寺の行法印の弟子であった。玄翁和尚は弥彦山の麓の矢作村の生まれである。近世になって徳の高い僧や優れた儒者、和歌・書画の人がいないわけではないが、遠く四方に名をとどろかせた者は少ない(画人の呉俊明は後に江戸に出たので名をなした)。近年の相撲では、越海・鷲ヶ浜は新潟の生まれ、九紋竜は高田今町の生まれ、関戸は次第浜の生まれである。ふつうの人で力持ちとして聞こえたのは、頸城郡の中野善右衛門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右衛門で、これらは並ぶ者のない大力として人の知るところである。また鎧潟に近い横戸村の長徳寺、谷根村の行光寺も怪力で名高い。この人々はみな一人で鐘を軽々と掛けはずしするほどの力があった人々である。また孝行者には、昔は村上小次郎、新発田の菊女、頸城郡の僧知良、近ごろでは三島郡村田村の百合女(百姓伊兵衛の娘)、新発田荒川村の門左衛門(百姓丑之介の息子)、塚原の豆腐売りの春松(鎌介の息子)、蒲原郡釈迦塚村の百姓新六がいて、いずれも孝行者の名が一国に高かった。今も存命の者もいるという。
百樹が言う。私は越後に行ったら板額や酒呑童子の旧跡も訪ね、新潟も一見し、名の聞こえた神仏も拝み、寺泊に残る順徳帝の御旧跡や、義経、夢窓国師、法然上人、日蓮上人、京極為兼卿、遊女初君などの古跡も訪ねたいと思っていたが、越後に入ってから運が悪く、年がやや不作で穀物の値段が日ごとに跳ねあがり、人心が穏やかでなかった。心は家に帰ることにあって風雅を失い、古跡もむなしく素通りし、ただの平凡な旅人となって、聞き及んでいた文雅の人も訪ねなかったのは今も心残りである。ああ、年の不作をどうしようか。