百三 越後の人物

北越雪譜 原文
原文現代語訳

板額女(はんがくぢよ)は加治(かぢ)明神山の城主長(をさの)太郎祐森(すけもり)が室(しつ)、古志郡の産(さん)なり。又三歳の小児も知れる酒顛童子(しゆてんどうじ)は蒲原郡沙子塚(すなごつか)村の産(さん)、今猶屋敷跡(やしきあと)あり。始(はじめ)は雲上山(うんしやうざん)国上寺(こくじやうじ)の行法印(ぎやうほふいん)の弟子(でし)なり。玄翁(げんをう)和尚は伊夜彦山(いやひこさん)の麓(ふもと)箭矧(やはぎ)村の産(さん)なり。近世(ちかきよ)にいたりて徳僧(とくそう)高儒(かうじゆ)和哥書画の人なきにしもあらざれども、遠く四方に雷名(らいめい)せるはすくなし。(画人呉俊明のち江戸にいでしゆゑ名をなせり)近年相撲(すまふ)に越海(こしのうみ)・鷲ヶ浜(わしがはま)は新潟(にひがた)の産(さん)、九紋竜(くもんりゆう)は高田今町の産、関戸(せきのと)は次第浜(しだいはま)の産(さん)也。常人(たゞびと)にて力士(りきし)の聞(きこ)えありしは頸城(くびき)郡の中野善右エ門、立石村の長兵衛、蒲原郡三条の三五右エ門、是等(これら)無双(ぶさう)の大力にて人の知る所なり。又鎧潟(よろひがた)に近き横戸(よこと)村の長徳寺、谷根(たにね)村の行光寺も怪力(くわいりよく)のきこえたかし。此人々はいづれも独(ひとり)して鐘(つりがね)を軽(かろ)く掛(かけ)はづしするほどの力は有し人々なり。又孝子にはむかしは村上小次郎、新発田(しばた)の菊(きく)女、頸城(くびき)郡の僧(そう)知良、近くは三嶋郡村田村の百合(ゆり)女(百姓伊兵衛がむすめ)新発田(しばた)荒川(あらかは)村門左エ門(百姓丑之介がせがれ)塚原(つかはら)の豆腐売(とうふうり)春松(鎌介がせがれ)蒲原郡釈迦塚(しやかつか)村百姓新六、いづれも孝子(かうし)の名一国に高かりき。今存在(そんざい)するもありとかや。

百樹(もゝき)曰(いはく)、余(よ)越後にいたらば板額(はんがく)あるひは酒顛童子(しゆてんどうし)の旧跡(きうせき)をもたづね、新潟(にひがた)をも一覧なし、名の聞えたる神仏をもをがみたてまつり、寺泊(てらどまり)にのこる 順徳帝(じゆんとくてい)の鳳跡(おんあと)、義経(よしつね)、夢囱国師(むそうこくし)、法然(はうねん)上人、日蓮上人、為兼卿(ためかねきやう)、遊女初君(はつきみ)等(とう)の古跡(こせき)もたづねばやとおもひしに、越後に入りてのち気運(きうん)順(じゆん)を失(うしな)ひ、年(とし)稍(やゝ)倹(けん)して穀(こく)の価(ねだん)日々に躍(あがり)、人気(じんき)穏(おだやか)ならず。心(こゝろ)帰家(かへりたき)にありて風雅(ふうが)をうしなひ、古跡(こせき)をも空(むな)しく過(よぎ)り、惟(たゞ)平々(なみ〳〵)たる旅人(りよじん)となりて、きゝおよびたる文雅(ぶんが)の人をも剌問(たづね)ざりしは今に遺憾(ゐかん)なり。嗟乎(あゝ)年(とし)の倹(けん)せしをいかんせん。

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