魚沼郡雲洞村の雲洞庵は越後国四大寺の一つである。四大寺とは、滝谷の慈光寺(村松にある)、村上の耕雲寺、弥彦の指月寺、雲洞村の雲洞庵である。十三世の通天和尚は霜台君(謙信のこと)の親族で、高徳の評判は今も言い伝えに残っている。景勝君もこの寺で学ばれたという。一国の大寺なので古文書や宝物も多い。その中に「火車落としの袈裟」というものがあり、香染めの麻と見えるものに血の跡が残っている。これを火車落としといって宝物とする由来はこうである。昔、天正のころ、雲洞庵十世の北高和尚という方は学問と徳をそなえた尊い僧であられた。そのころ、この寺に近い三郎丸村の農家で死者があったが、ちょうど冬で雪が降り続き、吹雪もやまなかったので、三、四日は晴れるのを待って葬式を延ばしていたが、晴れなかったので無理に葬儀を行い、檀那寺なので北高和尚を迎えて棺を出し、親族はもちろん人々は蓑笠で雪をしのいで送っていった。その雪道もやや半ばに来たとき、猛烈な風がにわかに起こり、黒雲が空一面に広がって闇夜のようになり、どこからともなく火の玉が飛んできて棺の上に覆いかぶさった。火の中に、尾が二またに分かれた世にもまれな大猫が、牙を鳴らし鼻息を吹いて棺を目がけて奪おうとする。人々はこれを見て棺を捨て、転げまわって逃げまどう。北高和尚は少しも恐れる様子がなく、口に呪文を唱えて大声で一喝し、鉄の如意を振りあげて飛びつく大猫の頭を打たれると、頭が割れたのか血がほとばしって衣を汚し、妖怪はたちまち逃げ去ったので、風もやみ雪も晴れて、無事に葬式を営んだと寺の古い記録に残っている。このとき着ておられたのを「火車落としの法衣」として今に伝えている。
百樹が言う。私が越後に遊んで塩沢にいたとき、牧之老人に連れられて雲洞庵に行き(塩沢から一里ほど)、庵主とも話をし、あの火車落としの袈裟というものや、そのほかの宝物・古文書の類も一見した。いかにも大寺で、「祈祷」の二字を大書した縦長の額は順徳院の御筆だという(佐渡へお移りになるときの御筆だろう)。門前に直江山城守の制札があり、放火や勝手な伐採を禁じる文である。庭の池のほとりに、智勇の良将宇佐美駿河守が討ち死にした古い墓があったのを、先年牧之老人が施主となって新しく墓碑を建てた。不朽の善行と言うべきだ(本文に火車というのは、いわゆる夜叉のことだろう。夜叉の怪は中国の書にもたくさん散見する)。