百五 北高和尚

北越雪譜 原文
原文現代語訳

魚沼郡|雲洞村(うんどうむら)雲洞庵は越後国四大寺の一なり。四大寺とは滝谷の慈光寺(じくわうじ)、(村松にあり)村上の耕雲寺(かううんじ)、伊弥彦(やひこ)の指月寺(しげつじ)、雲洞村の雲洞庵なり。十三世通天和尚(つうてんわせう)は、 霜台君(さうたいくん)の(謙信(けんしん)の事)親藉(しんせき)にて、高徳(かうとく)の聞えは今も口碑(うはさ)にのこれり。 景勝君(かげかつくん)も此寺に物(もの)学(まな)び玉ひしとぞ。一国の大寺なれば古文書(こもんじよ)宝物等も多し、その中に火車落(くわしやおとし)の袈裟(けさ)といふあり、香染(かうそめ)の麻(あさ)と見ゆるに血(ち)の痕(あと)のこれり。是を火車落とて宝物とする由来(ゆらい)は、むかし天正の頃雲洞庵十世北高和尚といひしは学徳全備(がくとくぜんび)の尊者にておはせり。其頃此寺にちかき三郎丸村の農家(のうか)に死亡(しばう)のものありしに、時しも冬の雪ふりつゞき雪吹(ふゞき)もやまざりければ、三四日は晴(はれ)をまちて葬式(さうしき)をのばしけるに晴(はれ)ざりければ、強(しひ)ていとなみをなし、旦那寺(だんなでら)なれば北高和尚をむかへて棺(くわん)をいだし、親族(しんぞく)はさら也人々蓑笠(みのかさ)に雪をしのぎて送(おく)りゆく。その雪途(ゆきみち)もやゝ半にいたりし時猛風(まうふう)俄(にはか)におこり、黒雲(こくうん)空(そら)に布満(しきみち)て闇夜(あんや)のごとく、いづくともなく火の玉飛来り棺(くわん)の上に覆(おほひ)かゝりし。火の中に尾はふたまたなる稀有(けう)の大猫(ねこ)牙(きば)をならし鼻(はな)をふき棺(くわん)を目がけてとらんとす。人々これを見て棺を捨(すて)、こけつまろびつ逃(にげ)まどふ。北高和尚はすこしも惧(おそ)るゝいろなく口に咒文(じゆもん)を唱(となへ)大声(たいせい)一喝(いつかつ)し、鉄如意(てつによい)を挙(あげ)て飛つく大猫の頭(かしら)をうち玉ひしに、かしらや破(やぶ)れけん血ほどはしりて衣(ころも)をけがし、妖怪(えうくわい)は立地(たちどころ)に逃去(にげさ)りければ、風もやみ雪もはれて事なく葬式をいとなみけりと寺の旧記にのこれり。此時めしたるを火車おとしの法衣(ころも)とて今につたふ。

百樹(もゝき)曰(いはく)、余(よ)越遊して塩沢に在し時、牧之老人に伴(ともなは)れて雲洞庵にいたり、(塩沢より一里ばかり)庵主(あんしゆ)にも対話(たいわ)なし、かの火車おとしの袈裟(けさ)といふ物その外の宝物古文書(こもんじよ)の類(るゐ)をも一覧(らん)せり。いかにも大寺にて祈祷の二字を大書(たいしよ)したる竪額(たてがく)は 順徳院の震筆(しんひつ)なりとぞ。(佐渡へ遷幸のときの震筆なるべし)門前に直江(なほえ)山城守の制札(せいさつ)あり、放火(はうくわ)私伐(しばつ)を禁(きん)ずるの文なり。庭中(ていちゆう)池のほとりに智勇の良将宇佐美駿河守刃死(じんし)の古墳(こふん)在(あ)りしを、先年牧之老人施主(せしゆ)として新(あらた)に墓碑(ぼひ)を建(たて)たり。不朽(ふきう)の善行(ぜんぎやう)といふべし。(本文に火車といふは所謂(いはゆる)夜叉(やしや)なるべし、夜叉の怪は唐土の書にもあまた散見せり。)

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