余六十一還暦の時年賀の書画を集む。吾国はさらなり、諸国の文人三都の名家妓女俳優来舶清人の一絶をも得たり。みな牧之に贈といふ㕝をしるしたるなり、人より人にもとめて千余幅におよべり、帖となして蔵す。ひとゝせ是を風入れするため舗につゞきたる坐しきの障子をひらき、年賀の帖を披き並べおきたる所へ友人来り、年賀の作意書画の評などかたりゐたるをりしも、順礼の夫婦軒下に(我が里言には廊下といふ)立けり。吾が家常に草鞋をつくらせおきてかゝる者に施すゆゑ、それをも銭をもあたへしに、此順礼の翁立さらでとりみだしたる年賀の帖を心あるさまに見いれたるが云やう、およばずながらわれらも順礼の腰をれを申さん、たんざく玉はれといふ。乞食のやうなるすがたには似気なきことばのおぼつかなしと思ひながら、短尺すゞりばこいだしければ、
三途川わたしは先へ百年も君がむかひをとゞめ申さん 五放舎
としるしたるふでのはこびも拙からず。年賀にはひとふしかはりたる趣向といひ、順礼に五放舎と戯れたる名もおもしろく、友人と倶におどろき感じ、宿を施行せん、ゆる〳〵ものがたりせんなど、友人もさま〴〵にすゝめたれど、杖をとゞめずして立さりけり。国は西国とばかりいへり、いかなるものにてやありけん。