宝暦年中平賀鳩渓(源内)火浣布を創製し、火浣布考を著し、和漢の古書を引、本朝未曾有の奇工に誇れり。没してのち其術つたはらず、好事家の憾事とす。しかるに我国甞火浣布を作るの石を産す、その在る所は、○金城山○巻機山○苗場山○八海山その外にもあり。その石軟弱して爪をもつても犯すべきほどの軟なる石なり。いろは青く黒し、これをくだけば石綿を出す。此石を得て試みしに、石中に在る石綿といふものは、木綿わたを細く紬たるを二三分ほどにちぎりたるやうなるものなり。是を紡績するに秘術ありて火浣布を造るなり、其秘術を得ば小女子も火浣布を織るべし。
○さて我駅中に稲荷屋喜右エ門といふもの、石綿を紡績する事に千思万慮を費し、竟に自その術を得て火浣布を織いだせり。又其頃我が近村大沢村の医師黒田玄鶴も同じく火浣布を織る術を得たり。各々秘してその術を人に伝へざるに、おなじ時おなじ村つゞきにておなじ火浣布の奇工を得たるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき。此両人の説をきゝしに力をつくせば一丈以上なるをも織うべし、しかれども其機工容易ならずといへり。平賀源内は織こと五六尺に過ずと火浣布考にいへり。また玄鶴が源内にまさりたる事は、玄鶴は火浣布の外に火浣紙火浣墨の二種を造れり。火浣墨を以て火浣紙に物をかき、烈火にやけて火となりしをしづかにとりいだし、火気さむれば紙も字ももとのごとし。しかれども其実用をいへば、火浣布も火浣紙も火災の供には憑がたし、いかんとなれば、火に遇ば倶に火となり人ありて火中よりいださゞれば火と倶に砕けて形をうしなふ、たゞ灰とならざるのみなり。翫具には用うる所さま〴〵あるべし。源内死して奇術絶たりしに件の両人いでゝ火浣布の機術再世にいでしに、嗚呼可惜、此両人も術をつたへずして没したれば火浣布ふたゝび世に絶たり。かの源内は江戸の饒地に火浣布を織しゆゑ其聞え高く、この両人は越後の辟境に火浣布をおりしゆゑ其名低し、ゆゑにこゝにしるして好事家の一話に供す。