百十 火浣布

北越雪譜 原文
原文現代語訳

宝暦年中平賀鳩渓(きうけい)(源内)火浣布を創(はじめて)製(せい)し、火浣布考(くわくわんふかう)を著(あらは)し、和漢の古書を引、本朝未曾有(みそう)の奇工(きこう)に誇(ほこ)れり。没(ぼつ)してのち其術(そのじゆつ)つたはらず、好事家(かうづか)の憾事(かんじ)とす。しかるに我国甞(かつて)火浣布(くわくわんふ)を作(つく)るの石(いし)を産(さん)す、その在(あ)る所は、○金城(きんじやう)山○巻機(まきはた)山○苗場(なへば)山○八海山(はつかいさん)その外にもあり。その石軟弱(やはらかに)して爪(つめ)をもつても犯(おか)すべきほどの軟(やはら)なる石なり。いろは青く黒し、これをくだけば石綿(いしわた)を出(いだ)す。此石を得(え)て試(こゝろ)みしに、石中に在(あ)る石綿(いしわた)といふものは、木綿(もめん)わたを細(ほそ)く紬(つむぎ)たるを二三分ほどにちぎりたるやうなるものなり。是(これ)を紡績(はうせき)するに秘術(ひじゆつ)ありて火浣布を造(つく)るなり、其秘術を得(え)ば小女子も火浣布を織るべし。

○さて我(わが)駅中(えきちゆう)に稲荷屋喜右エ門といふもの、石綿を紡績(はうせき)する事に千思(せんし)万慮(りよ)を費(つひや)し、竟(つひ)に自(みづから)その術を得て火浣布を織いだせり。又其頃我が近村(きんそん)大沢村の医師黒田玄鶴(げんくわく)も同じく火浣布を織る術を得(え)たり。各々(おの〳〵)秘(ひ)してその術を人に伝へざるに、おなじ時おなじ村つゞきにておなじ火浣布の奇工(きこう)を得(え)たるも一奇事なり、是文政四五年の間の事なりき。此両人の説(せつ)をきゝしに力(ちから)をつくせば一丈以上なるをも織(おり)うべし、しかれども其機工(きこう)容易(ようい)ならずといへり。平賀源内は織こと五六尺に過(すぎ)ずと火浣布考(くわくわんふかう)にいへり。また玄鶴が源内にまさりたる事は、玄鶴は火浣布の外に火浣紙(くはくわんし)火浣墨(くはくわんぼく)の二種(しゆ)を造(つく)れり。火浣墨を以て火浣紙に物をかき、烈火(れつくわ)にやけて火となりしをしづかにとりいだし、火気(くわき)さむれば紙も字ももとのごとし。しかれども其実用をいへば、火浣布も火浣紙も火災(くわさい)の供(そなへ)には憑(たのみ)がたし、いかんとなれば、火に遇(あへ)ば倶(とも)に火となり人ありて火中よりいださゞれば火と倶(とも)に砕(くだ)けて形(かたち)をうしなふ、たゞ灰(はい)とならざるのみなり。翫具(ぐわんぐ)には用うる所さま〴〵あるべし。源内死して奇術絶(たえ)たりしに件(くだん)の両人いでゝ火浣布の機術(きじゆつ)再(ふたゝび)世にいでしに、嗚呼(あゝ)可惜(をしむべし)、此両人も術をつたへずして没(ぼつ)したれば火浣布ふたゝび世に絶(たえ)たり。かの源内は江戸の饒地(げうち)に火浣布を織(おり)しゆゑ其聞(きこ)え高く、この両人は越後の辟境(へききやう)に火浣布をおりしゆゑ其名低(ひく)し、ゆゑにこゝにしるして好事家の一話に供(きよう)す。

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