百十一 弘智法印

北越雪譜 原文
原文現代語訳

弘智法印は児玉氏下総国山桑村(やまくはむら)の人なり。高野山にありて蜜教(みつきやう)を学び、後(のち)生国に皈(かへ)り大浦の蓮花寺に住し、行脚(あんぎや)して越後に来り、三嶋郡野積村(のづみむら)(里言のぞみ)海雲山西生寺の東、岩坂といふ所に錫(しやく)をとゞめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日此庵に寂(じやく)せり。辞世(じせい)とて口碑(こうひ)につたふる哥に「岩坂の主(ぬし)を誰(たれ)ぞと人(ひと)問(とは)ば墨絵(すみゑ)に書(かき)し松風の音」遺言(ゐげん)なりとて死骸(なきから)を不埋(うづめず)、今天保九をさる事四百七十七年にいたりて枯骸(こがい)生(いけ)るが如し。是を越後廿四奇の一に数(かぞ)ふ。此事雑書(ざつしよ)に散見(さんけん)すれども図(づ)をのせたるものなし、ゆゑに図をこゝにいだす。此図は余(よ)先年下(しも)越後にあそびし時目撃(もくげき)したる所なり。見る所たゞ面部(ぶ)のみ、手足は見えず。寺法なりとて近く観(み)る事をゆるさず、閉眼(めをとぢ)皺(しわ)ありて眠(ねふ)りたるが如し。頭巾(づきん)法衣(ころも)はむかしのまゝにはあらざるなるべし。是、他国には聞ざる越後の一奇跡(きせき)なり。

百樹(もゝき)曰、唐土(もろこし)にも弘智(こうち)に似(に)たる事あり。唐の世の僧義存(ぎそん)没(ぼつ)してのち尸(しかばね)を函中(はこのなか)に置(おき)、毎月其徒(でし)これをいだし爪髪(つめかみ)の長(のび)たるを剪薙(はさみきるを)常(つね)とす。百余年を経(へ)ても廃(はい)せざりしが、後(のち)国(くに)のみだれたるに因(より)てこれを火葬(くわさう)せしとぞ。又宋人(そうひと)彭乗(はうじやう)が作(さく)墨客揮犀(ぼくかくきさい)に鄂州(がくしう)の僧(そう)无夢(むむ)も尸(しかばね)を不埋(うづめず)、爪髪(つめかみ)の長(のび)たる義存(ぎぞん)に同じかりしが、婦人の手に摸(なで)られしより爪髪のびざりしとぞ。事は五雑組(ござつそ)に記(しる)して枯骸(こがい)の確論(かくろん)あれども、釈氏(しやくし)を詰(なじ)るに似(に)たる説(せつ)なればこゝに贅(ぜい)せず。(○高僧伝に義存が㕝ありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。)

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