弘智法印は児玉氏下総国山桑村の人なり。高野山にありて蜜教を学び、後生国に皈り大浦の蓮花寺に住し、行脚して越後に来り、三嶋郡野積村(里言のぞみ)海雲山西生寺の東、岩坂といふ所に錫をとゞめて草庵をむすびしに、貞治二年癸卯十月二日此庵に寂せり。辞世とて口碑につたふる哥に「岩坂の主を誰ぞと人問ば墨絵に書し松風の音」遺言なりとて死骸を不埋、今天保九をさる事四百七十七年にいたりて枯骸生るが如し。是を越後廿四奇の一に数ふ。此事雑書に散見すれども図をのせたるものなし、ゆゑに図をこゝにいだす。此図は余先年下越後にあそびし時目撃したる所なり。見る所たゞ面部のみ、手足は見えず。寺法なりとて近く観る事をゆるさず、閉眼皺ありて眠りたるが如し。頭巾法衣はむかしのまゝにはあらざるなるべし。是、他国には聞ざる越後の一奇跡なり。
百樹曰、唐土にも弘智に似たる事あり。唐の世の僧義存没してのち尸を函中に置、毎月其徒これをいだし爪髪の長たるを剪薙常とす。百余年を経ても廃せざりしが、後国のみだれたるに因てこれを火葬せしとぞ。又宋人彭乗が作墨客揮犀に鄂州の僧无夢も尸を不埋、爪髪の長たる義存に同じかりしが、婦人の手に摸られしより爪髪のびざりしとぞ。事は五雑組に記して枯骸の確論あれども、釈氏を詰るに似たる説なればこゝに贅せず。(○高僧伝に義存が㕝ありしかと覚しが、さのみはとて詳究せず。)