百十七 美人

北越雪譜 原文
原文現代語訳

百樹曰、小千谷(をぢや)の因(ちなみ)にいふ、余(よ)小千谷の岩居(がんきよ)が家に旅宿せし時(天保七年八月)或日(あるひ)筆(ふで)を採(とる)に倦(うみ)、山水の秋景(しうけい)を観(み)ばやとて独(ひとり)歩(たち)いで、小千谷の前に流るゝ川に臨岡(のぞむをか)にのぼり、用意したる書(しよ)をかく。毛氈(まうせん)を老樹(らうじゆ)の下(もと)にしき烟(たばこ)くゆらせつゝ眺望(みわたせ)ば、引舟は浪に遡(さかのぼ)りてうごかざるが如く、下(くだ)る舟は流(ながれ)に順(したが)ふて飛(とぶ)に似(に)たり。行雁(かうがん)字をならべ帰樵(きせう)画をひらく。群木(ぐんぼく)は少(すこ)しく霜を染(そめ)て紅々(あかく)、連山(れんざん)は僅(わづか)に雪を載(のせ)て白々(しろし)。寒国(かんこく)の秋景(しうけい)江戸の眼を新(あらた)になし、おもはず一絶(いちぜつ)を得(え)などしてしばしながめゐたるをりしも、十六七の娘三人おの〳〵柴籠(しばかご)をせおひ山をのぼりてこゝにやすらひ、なにやらんものいひかはしてわらふをきく。余(よ)は山水に目を奪(うば)はれたるに「火をかしなされ」とて烟管(きせる)さしよせたる顔(かほ)を見れば、蓬髪(みだれがみ)素面(すがほ)にて天質(うまれつき)の艶色(えんしよく)花ともいふべく玉にも比(ひ)すべし。百結(つぎ〳〵)の鶉衣(つゞれ)此趙璧(てうへき)を羅(つゝ)む。余(よ)愕然(びつくり)し山水を棄(すて)て此娘を視るに一揖(おじぎ)して去(さ)り、樹(き)の下(もと)の草に坐(ざ)してあしをなげだし、きせるの火をうつしてむすめ三人ひとしく吹烟(たばこのむ)。双無塩(ふたりのあくぢよ)独(ひとり)の西施(せいし)と語(かた)るは蒹葭(けんが)玉樹(ぎよくじゆ)によるが如く、皓歯(しろきは)燦爛(ひか〳〵)としてわらふは白芙蓉(はくふよう)の水をいでゝ微風(びふう)に揺(うごく)がごとし。嗟乎(あゝ)惜(をしむ)べし、かゝる美人(びじん)も是(この)辺鄙(へんひ)に生(うま)れ、昏庸頑夫(こんようぐわんふ)の妻となり、巧妻(こうさい)常(つね)に拙夫(せつふ)に伴(ともなは)れて眠(ねふ)り、荊棘(けいきよく)と倶(とも)に腐(くさ)らん事憐(あはれむ)に堪(たえ)たり。若(もし)江戸にいださば朱門(しゆもん)に解語(かいご)の花を開(さかせ)、あるひは又青楼(せいろう)に揺泉樹(えうせんじゆ)の栄(さかえ)をなし、此隣国(りんごく)出羽に生(うま)れたる小野の小町が如く美人(びじん)の名をもなすべきに、此美人を此僻地(へきち)に出(いだ)すは天公(てんこう)事を解(げ)さゞるに似たりと独(ひとり)歎息(たんそく)しつゝ言(ものいは)んとししに、娘は去来(いざ)とてふたゝび柴籠をせおひうちつれて立さりけり。目送(みおくり)て顧(おもへらく)、越後には美人(びじん)多しと人の口実(くち)にいふもうべなり、是無他(ほかで)なし、水によるゆゑなり。されば織物(おりもの)の清白なる越後の白縮(しろちゞみ)に勝(まさ)れるはなし、ことさら此辺は白縮(しろちゞみ)を産(さん)する所なり、以て其水の至清(しせい)なるをしるべし。江河(こうが)潔清(けつせい)なれば女に佳麗(かれい)多しと謝肇淛(しやてうせつ)がいひしも理(ことはり)なりとおもひつゝ旅宿(りよしゆく)に帰(かへ)り、云々(しか〴〵)の事にて美人(びじん)を視(み)たりと岩居(がんきよ)に語りければ、岩居いふやう、渠(かれ)は人の知る美女なり、先生(せんせい)を他国の人と眼解(みてとり)欺(あざむき)てたばこの火を借(かり)たるならん、可憎々々(にくむべし〳〵)「否々(いや〳〵)にくむべからず、吾(われ)たばこの火を借(かし)て美人にえん(烟縁)をむすびし」と戯言(たはふれ)ければ、岩居手(て)を拍て大に笑ひ、先生誤(あやまて)り、かれは屠者(ゑた)の娘なりと聞(きゝ)て再(ふたゝ)び愕然(がくぜん)たり。糞壌(ふんじやう)妖花(えうくわ)を出すとはかゝる事にぞいひしなるべし。

○再(ふたゝび)按(あんずる)に、小野の小町は羽州(うしう)の郡司(ぐんじ)小野の良実(よしざね)の女(むすめ)なり、楊貴妃(やうきひ)は蜀州(しよくしう)の司戸(しこ)元玉が女(むすめ)なり、和漢倶(とも)に北国の田舎娘世に美人の名をつたふ。北方に佳人(かじん)ありといひしも、北は陰位(いんゐ)なれば女に美麗(びれい)を出すにやあらん。二代目の高尾は(万治)野州に生(うま)れ、初代の薄雲(うすぐも)は信州に産(さん)して、ともに北廓(ほくかく)に名をなせり。されば越後に件(くだん)の美人を見しも北国なればなるべし。

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