文政八年乙酉十二月、苅羽郡(越後)椎谷の漁人(椎谷は堀侯の御封内なり)ある日椎谷の海上に漁して一木の流れ漂ふを見て薪にせばやとて拾ひ取て家にかへり、水を乾さんとて庇に立寄おきしを、椎谷の好事家通りかゝり、是を見てたゞならぬ木とおもひ熟視に、蛾眉山下〓といふ五大字刻しありしをもつてかの国の物とおもひ、漁人には薪を与へて乞ひうけけるとぞ。さて余が旧友観励上人は(椎谷ざい田沢村浄土宗祐光寺)強学の聞えあり、甞て好事の癖あるを以てかの橋柱の文字を双鈎刊刻して同好におくり且橋柱に題する吟詠をこひ、是も又梓にして世に布んとせられしが、故ありていまだ不果。かの橋柱は後に御領主の御蔵となりしとぞ。椎谷は余が同国なれども幾里を隔たれば其真物を不見、今に遺憾とす。姑伝写の図を以てこゝに載つ。(○百樹曰、牧之翁が此草稿にのせたる図を見るに少しくおもふ所有しゆゑ、其実説を詳究せし事左の如し。)
百樹曰、了阿上人が和哥の友相場氏は 椎谷侯の殿人ときゝて、上人の紹介をもつて相場氏に対面して件の橋柱の事を尋ねしに、余に謂しは、橋柱にはあらず標準なりとて、俗に書翰帒といふ物に作りたるを出して其図を示さる。余が友の画人千春子が真物を傍におきて縮図なし、蛾眉山下〓といふ五字は相場氏みづから心を深めてうつされしとぞ。(下に図するこれなり)彫たる人の頭を左りに顧せ、その下に五字を彫つけしは、是より左り蛾眉山下橋なりと人にをしゆる標準なりとかたられき。是にて義理渙然たり。今俗に指をゑがきてそのしたにをしゆる所を記したるを間みる事あり、和漢の俗情おなじ事なり。
○さて此標準を得たる実事をきゝしに、北海はいづれの所も冬にいたれば常に北風烈しく礒へ物をうちよする、椎谷はたきものにとぼしき所ゆゑ貧民拾ひ取りて薪となす事常なり。しかるに文政八酉の十二月、例の如く薪を拾ひに出しに、物ありて柱のごとく浪に漂ふをみれば人の頭とみゆる物にて甚兇悪なり。貧民等惧れてたちさり、ものゝかげより見居たるに、此もの竟に礒にうちあげられしを見て人々立よりみたるに、文字はあれども読者なく、是は何ものならんとさま〴〵評し居たるをりしも、こゝに近き西禅院の童僧通りかゝり、唐詩選にておぼえたる蛾眉山の文字を読、これは唐土の物なりときゝて貧民拾ひて持かへり、さすがに唐土の物ときゝて薪にもせざりしに、此事閧伝して竟に主君の蔵となりしと語られき。
縮図左のごとし。丈一丈余、周二尺五寸余。木質弁名べからず。
○按るに、蛾眉山は唐土の北に在る峻岳にて、富士にもくらぶべき高山なり。絶頂の峯双立て八字をなすゆゑ、蛾眉山といふなり。此山の標準、日本の北海へながれきたりたる其水路を詳究せんとて「唐土歴代州郡沿革地図」に拠て清国の道程図中を撿するに、蛾眉山は清朝の都を距こと日本道四百里許の北に在り、此山に遠からずして一条の大河東に流。蛾眉山の麓の河々皆此大河に入る。此大河瀘州を流れ三峡のふもとを過ぎ、江漢に至り荊州に入り、○洞庭湖○赤壁○潯陽江○楊子江の四大江に通じて江南を流湎りて東海に入る。是水路日本道五百里ばかりなり。さて件の標準洪水にてや水に入りけん、○洞庭○赤壁○潯陽○楊子の海の如き四大江を蕩漾周流して朽沈ず。滔々たる水路五百余里を流れて東海に入り、巨濤に千倒し風波に万顛すれども断折砕粉せず、直身挺然として我国の洋中に漂ひ、北海の地方に近より、椎谷の貧民に拾れて始て水を辞れ、既に一燼の薪となるべきを、幸に字を識者に遇ひて死灰をのがれ、韻客の為に題詠の美言をうけたるのみならず、竟には 椎谷侯の愛を奉じて身を宝庫に安んじ、万古不朽の洪福を保つ㕝奇妙不思議の天幸なれば、実に稀世の珍物なり。
按ずるに、蛾蛾同韻(五何反)なれば相通じて往々書見す。橋を〓に作る頗る異体なり。依て明人黄元立が〔字考正誤、清人顧炎武が亭林遺書中に在る〔金石文字記あるひは〔碑文摘奇(藤花亭十種之一)あるひは楊霖竹菴が〔古今釈疑中の字体の部など通巻一遍捜索したれども〓の字なし。蛾眉山のある蜀の地は都を去る事遠き僻境なり。推量するに、田舎の標準なれば学者の書しにもあるべからず、俗子の筆なるべし。されば我今の俗竹を〓と亻に誤の類か、猶博識の説を俟つ。