百十八 蛾眉山下橋柱

北越雪譜 原文
原文現代語訳

文政八年乙酉十二月、苅羽郡(かりはこほり)(越後)椎谷(しひや)の漁人(ぎよじん)(椎谷は堀侯の御封内なり)ある日椎谷の海上に漁(すなどり)して一木の流れ漂(たゞよ)ふを見て薪にせばやとて拾(ひろ)ひ取て家にかへり、水を乾(かわか)さんとて庇(ひさし)に立寄おきしを、椎谷の好事家通りかゝり、是を見てたゞならぬ木とおもひ熟視(よく〳〵みる)に、蛾眉山下〓(がびさんかのはし)といふ五大字刻しありしをもつてかの国の物とおもひ、漁人(ぎよじん)には薪(たきゞ)を与(あた)へて乞(こ)ひうけけるとぞ。さて余(よ)が旧友(きういう)観励(くわんれい)上人は(椎谷ざい田沢村浄土宗祐光寺)強学(きやうがく)の聞(きこ)えあり、甞(かつ)て好事(かうず)の癖(へき)あるを以てかの橋柱(はしばしら)の文字を双鈎刊刻(さうこうかんこく)して同好(どうこう)におくり且橋柱(はしばしら)に題(だい)する吟詠(ぎんえい)をこひ、是も又梓(あづさ)にして世に布(しか)んとせられしが、故(ゆゑ)ありていまだ不果(はたさず)。かの橋柱は後(のち)に御領主(ごりやうしゆ)の御蔵(ごぞう)となりしとぞ。椎谷(しひや)は余(よ)が同国(どうこく)なれども幾里を隔(へだて)たれば其真物(しんぶつ)を不見(みず)、今に遺憾(ゐかん)とす。姑(しばらく)伝写(でんしや)の図(づ)を以てこゝに載(のせ)つ。(○百樹曰、牧之翁が此草稿にのせたる図を見るに少しくおもふ所有しゆゑ、其実説を詳究せし事左の如し。)

百樹(もゝき)曰、了阿(れうあ)上人が和哥の友相場氏は 椎谷侯(しひやこう)の殿人(とのびと)ときゝて、上人の紹介(せうかい)をもつて相場氏に対面して件(くだん)の橋柱(はしばしら)の事を尋(たづ)ねしに、余(よ)に謂(いはれ)しは、橋柱にはあらず標準(みちしるべ)なりとて、俗に書翰帒(しよかんぶくろ)といふ物に作りたるを出して其図(そのづ)を示さる。余が友の画人千春(ちはる)子が真物(しんぶつ)を傍(かたはら)におきて縮図(しゆくづ)なし、蛾眉山下〓(がびさんかのはし)といふ五字は相場氏みづから心を深(ふか)めてうつされしとぞ。(下に図するこれなり)彫(きざみ)たる人の頭(かしら)を左りに顧(むか)せ、その下(しも)に五字を彫(ほり)つけしは、是より左り蛾眉山下橋(がびさんかのはし)なりと人にをしゆる標準(みちしるべ)なりとかたられき。是にて義理(ぎり)渙然(くわんぜん)たり。今俗に指(ゆびさす)をゑがきてそのしたにをしゆる所を記(しる)したるを間(まゝ)みる事あり、和漢の俗情おなじ事なり。

○さて此標準(へうじゆん)を得(え)たる実事(じつじ)をきゝしに、北海はいづれの所も冬にいたれば常に北風烈(はげ)しく礒(いそ)へ物をうちよする、椎谷(しひや)はたきものにとぼしき所ゆゑ貧民(ひんみん)拾ひ取りて薪(たきゞ)となす事常なり。しかるに文政八酉の十二月、例(れい)の如く薪を拾ひに出しに、物ありて柱(はしら)のごとく浪に漂(たゞよ)ふをみれば人の頭(かしら)とみゆる物にて甚兇悪(きやうあく)なり。貧民等(ひんみんら)惧(おそ)れてたちさり、ものゝかげより見居たるに、此もの竟(つひ)に礒(いそ)にうちあげられしを見て人々立よりみたるに、文字はあれども読者(よむもの)なく、是は何ものならんとさま〴〵評(ひやう)し居(ゐ)たるをりしも、こゝに近(ちか)き西禅院(さいぜんゐん)の童僧(どうそう)通(とほ)りかゝり、唐詩選(たうしせん)にておぼえたる蛾眉山(がびさん)の文字を読(よみ)、これは唐土(から)の物なりときゝて貧民(ひんみん)拾(ひろ)ひて持かへり、さすがに唐土(から)の物ときゝて薪(たきゞ)にもせざりしに、此事閧伝(こうでん)して竟(つひ)に主君(しゆくん)の蔵(ざう)となりしと語(かた)られき。

縮図(しゆくづ)左のごとし。丈(たけ)一丈余、周(めぐり)二尺五寸余。木質弁名(きはなにともなづく)べからず。

○按(あんず)るに、蛾眉山は唐土の北に在(あ)る峻岳(じゆんがく)にて、富士にもくらぶべき高山なり。絶頂(ぜつてう)の峯(みね)双立(ならびたち)て八字をなすゆゑ、蛾眉山(がびさん)といふなり。此山の標準(みちしるべ)、日本(ひのもと)の北海へながれきたりたる其水路(すゐろ)を詳究(しやうきゆう)せんとて「唐土(もろこし)歴代(れきだい)州郡(しうぐん)沿革地図(えんかくちづ)」に拠(より)て清国(いまのから)の道程(みちのり)図中(づちゆう)を撿(けん)するに、蛾眉山は清朝(いまのから)の都(みやこ)を距(へだつ)こと日本道四百里許(ばかり)の北に在り、此山に遠からずして一条(ひとすぢ)の大河東に流(ながる)。蛾眉山の麓(ふもと)の河々皆此大河に入る。此大河瀘州(ろじう)を流れ三峡(けふ)のふもとを過(す)ぎ、江漢(こうかん)に至(いた)り荊州(けいじう)に入り、○洞庭湖(とうていこ)○赤壁(せきへき)○潯陽江(じんやうこう)○楊子江(やうしこう)の四大江(こう)に通(つう)じて江南(こうなん)を流湎(ながれめぐ)りて東海に入る。是水路(このすゐろ)日本道五百里ばかりなり。さて件(くだん)の標準(みちしるべ)洪水(こうずゐ)にてや水に入りけん、○洞庭(とうてい)○赤壁(せきへき)○潯陽(じんやう)○楊子(やうし)の海の如き四大江(だいこう)を蕩漾周流(たうやうしうりう)して朽沈(くちしづま)ず。滔々(たう〳〵)たる水路(すゐろ)五百余里(より)を流(なが)れて東海に入り、巨濤(こたう)に千倒(たう)し風波に万顛(てん)すれども断折(だんせつ)砕粉(さいふん)せず、直身(ちよくしん)挺然(ていぜん)として我国の洋中(おきなか)に漂(たゞよ)ひ、北海の地方に近(ちか)より、椎谷(しひや)の貧民(ひんみん)に拾(ひろは)れて始(はじめ)て水を辞(はな)れ、既(すで)に一燼(じん)の薪となるべきを、幸に字(じ)を識(しる)者に遇(あひ)ひて死灰(しくわい)をのがれ、韻客(ゐんかく)の為(ため)に題詠(だいえい)の美言(びげん)をうけたるのみならず、竟(つひ)には 椎谷侯(しひやこう)の愛(あい)を奉(ほう)じて身を宝庫(ほうこ)に安んじ、万古不朽(ばんこふきう)の洪福(こうふく)を保(たも)つ㕝奇妙不思議(ふしぎ)の天幸なれば、実(じつ)に稀世(きせい)の珍物(ちんぶつ)なり。

按ずるに、蛾蛾同韻(ががどうゐん)(五何反)なれば相通(あひつう)じて往々(わう〳〵)書見(しよけん)す。橋(きやう)を〓(きやう)に作る頗(すこぶ)る異体(ゐてい)なり。依(よつ)て明人(みんひと)黄元立(くわうげんりつ)が〔字考正誤(じかうせいご)、清人(せいひと)顧炎武(こえんぶ)が亭林遺書中(ていりんゐしよちゆう)に在(あ)る〔金石文字記あるひは〔碑文摘奇(ひぶんてきき)(藤花亭十種之一)あるひは楊霖竹菴(やうりんちくあん)が〔古今釈疑(しやくぎ)中の字体(じてい)の部(ぶ)など通巻(つうくわん)一遍(へん)捜索(さうさく)したれども〓(きやう)の字なし。蛾眉山(がびさん)のある蜀(しよく)の地(ち)は都を去(さ)る事遠(とほ)き僻境(へききやう)なり。推量(すゐりやう)するに、田舎(ゐなか)の標準(みちしるべ)なれば学者(がくしや)の書(かき)しにもあるべからず、俗子(ぞくし)の筆なるべし。されば我(わが)今の俗(ぞく)竹を〓と亻(にんべん)に誤(あやまる)の類(るゐ)か、猶(なほ)博識(はくしき)の説(せつ)を俟(ま)つ。

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