二十六 左大臣師尹

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

この大臣は忠平公の五男で、小一条の大臣と申し上げるようです。母君は九条殿(師輔)と同じです。大臣の位に三年。康保四年十二月に左大臣に移られたのは、西宮殿(源高明)が筑紫へ下られた、その後任です。(安和二年三月に左大臣になられ、大将を兼ねられる。十月十四日に亡くなられる。御年五十。)その事件の騒動は、この小一条の大臣が言い出されたことだと、世の人は噂しました。そして年も越さずに亡くなられたのだなどと申したようです。それも本当でしょうか。御娘は村上天皇の御代の宣耀殿の女御で、ご容貌は愛らしく美しくいらっしゃいました。内裏へ参られるといってお車にお乗りになったとき、ご自身はお乗りになったのに、御髪の裾は母屋の柱のもとにまだあったそうです。一筋を陸奥紙の上に置いたところ、どうしても紙の白い所が見えなかったと申し伝えているようです。

目尻が少し下がっていらっしゃるのが、いっそうかわいらしくいらっしゃるのを、帝はたいそうご寵愛なさって、このようにおっしゃいました。

「生きての世死にての後の後の世も羽をかはせる鳥となりなむ(生きているこの世でも、死んだのちの来世でも、羽を並べて飛ぶ比翼の鳥となろう)」。

ご返歌に、女御は、

「秋になることの葉だにもかはらずばわれもかはせる枝となりなむ(秋になって木の葉の色が変わるように、あなたのお言葉が飽きて変わることさえなければ、わたしも枝を交わす連理の枝となりましょう)」。

女御が『古今集』をそらんじていらっしゃるとお聞きになって、帝は試しに本を隠して女御にはお見せにならず、「やまとうたは」とある序を始めとして、歌の上の句をおっしゃってはその下の句をお尋ねになったところ、言い間違えなさることは、言葉でも歌でもありませんでした。こうしたことなどを父の大臣がお聞きになって、正装して手を洗い清めなどして、あちこちで読経などをさせ、一心に祈っていらっしゃいました。帝が箏の琴をみごとにお弾きになるのも、熱心に女御にお教えになるなど、この上なくご寵愛を受けていらっしゃいましたが、冷泉院のご母后(安子)が亡くなられてから、かえってこのうえなくご寵愛が劣られたと噂されました。帝は「亡き后が、たいそう目ざわりで穏やかならぬものとお思いだったので、思い出すと気の毒で、悔やまれるのだ」とおっしゃったそうです。この女御を母として、八の宮(永平親王)という男の親王がお生まれになりました。ご容貌などはきれいでいらっしゃいましたが、お心はきわめつきの世の愚か者と聞いております。

世の中の賢い帝の例としては、中国では堯帝と舜帝と申します。この国では延喜・天暦と申すようです。延喜とは醍醐の先帝のこと、天暦と申すのは村上の先帝のことです。その帝のお子で、小一条大臣の孫でありながら、そのように愚かでいらっしゃったとは、まことに不思議なことですよ。その母女御の兄君で済時の左大将と申し上げた方は、長徳元年四月二十三日に亡くなられました。御年五十五。この大将は父の大臣よりも、ご気性が面倒でひねくれているという評判がまさって、あまりに体面ばかり気にする方でいらっしゃいました。妹君の女御殿に村上天皇が琴をお教えになっていた御前に控えていらっしゃって、聞き覚えなさるうちに、自然と自分もその道の名手だと人にも思われなさったのに、いいかげんには気持ちよく人に弾いてお聞かせになりません。しかるべき行事の折にも、無理にすすめられて、曲を一つほど合わせて弾くくらいのことしかなさいませんでした。

「あまりに愛想がない」と人にも言われなさいました。人が献上した贄(にえ)などというものは、お庭に取り置かせなさって、夜は贄殿に納め、昼はまたもとのように取り出して置かせるなどして、また人が別の物を献上して取り替えるまで置いておかれて、手をつけることはなさらないのは、あまりに上品ぶったことですな。人などが参ったときにも、こうしているのだとお見せになるためのようです。昔の人はそういうことをよいことにしていたので、そのままのやり方をなさっているのだそうです。このようにたいそう思慮深いとご自分では思っておられたわりには、つまらないことをなさったと人に言われなさったようです。甥の八の宮に大饗をおさせ申し上げなさって、宮は主人役でいらっしゃるので、人々が酔って遊ぼうなどとお思いになって、「しかるべき上達部たちが早く退出するようなら、『しばらく』などと、おもしろいようにお引き留めなさいませ」とよく教え申し上げなさいました。そのように人柄は妙に愚かでいらっしゃいましたが、尊い親王が大事になさることなので、人々が大勢参られたのも、古風なことですよ。

けれども朝廷の公事が重なっている日なので、人々が急いで退出なさると、宮は本当に教わったことがあったと思い出されて、大将の方を何度もご覧になるので、大将が目くばせ申し上げなさると、宮はお顔がたいそう赤くなって、すぐには言葉をお出しになれず、何もおっしゃれずに、にわかにおびえたように、ものものしく荒々しく、人々の袍の片袖が取れてしまうほどにつかみかかられたので、参っていた上達部は皆、末席の者まで顔を見合わせ、こらえきれなかったのでしょうか、顔色を変えながら、とりあえずそれぞれ口実をつけて急いで席を立ちました。この入道殿などは、若い殿上人でいらっしゃったころなので、末席でよくはご覧にならなかったそうです。ただ人々がほほえんで出て行かれたのを見た、と近ごろおもしろかったことの一つとしてお話しになるそうです。大将は、どうしてこんなことをおさせ申し上げ、またそのようにおっしゃいなどとお教え申し上げたのだろうと悔しくお思いになって、お顔の色も青くなっていらっしゃいました。

本当に、親王のことはもとからそういう人だとご存じ申し上げていたので、人々はこのことで親王を非難申し上げたりはしません。この大将殿のことを、こういうご気性だと知りながら、どうしてもしなければならないことでもないのに、こんな見苦しいありさまを大勢の人にお見せ申し上げなさったと非難申し上げました。たいそう思慮深い人と思われていらっしゃった方が、残念にも軽率なことをなさったものですよ。この殿の北の方には、枇杷の大納言延光の御娘がいらっしゃいます。女君がお二方、男君が三人いらっしゃいました。女君は三条院が東宮でいらっしゃった折の女御で、宣耀殿と申し上げて、たいそう時めいていらっしゃいました。男の宮が四方、女の宮がお二方。そしてこの女君は、三条院が東宮でいらっしゃったときに参られて宮たちがお生まれになったうちに、東宮が即位なさって、翌年の長和元年壬子四月二十七日に后にお立ちになり、皇后宮と申し上げます。小一条院のご母后です。またもうお一方の女君は、父の殿が亡くなられた後、ご自分の考えで、冷泉院の第四皇子の帥宮(敦道親王)と申し上げる方の北の方として二、三年ほどいらっしゃったうちに、宮が和泉式部にお心をお移しになったので、不本意なことで小一条へお帰りになった後、このごろ聞けば、思いもよらないほどひどいありさまでいらっしゃるそうです。

小一条の左大将殿の面目をお立てになったのは皇后宮でいらっしゃるのに、恥さらしで気の毒なのは、もうお一人の御娘のほうでしょう。この皇后宮を母とする第一皇子は敦明親王といって、式部卿の宮と申し上げていたところ、長和五年正月二十九日に三条院がご退位なさったので、今の帝が即位なさって、この式部卿の宮が東宮にお立ちになりました。御年二十三。ところが、道理にかなったことと皆が思い申し上げていたところ、院が亡くなられて二年ほどして、どうお思いになったのでしょうか、宮たちと申し上げていた頃、何事も気ままに遊びなれていらっしゃったので、東宮としての堅苦しいご様子がたいそうつらく、なんとかしてこうでなくていられたらとお思いになるようになって、皇后宮に「このように思っております」と申し上げなさったのですが、どうして母宮がなるほどそうだとお思いになるでしょう。まったくあきれた、とんでもないことだとばかりお諫め申し上げなさったので、東宮は思いあまって入道殿にお便りがあったので、入道殿が参られると、こまごまとお話しになって、「この位を去って、ただ気楽にしていようと思います」と申し上げなさったので、入道殿は「決して決して、承るわけにはまいりません。

それでは三条院のご子孫は絶えてしまえとお思い決めなさるのは、まことにあきれた悲しいことです。こんなお心がおつきになったのは、ほかのことではありますまい。亡き冷泉院の物の怪などがそう思わせ申し上げているのです。決してお思いなさいますな」と申し上げなさると、東宮は「それならただ、出家の本意もある。出家するまでのことだ」とおっしゃるので、入道殿が「それほどまでにお思いになるのならば、どうしようもありません。ともかくも申し上げましょう。帝に奏上しまして」と申し上げなさったときに、東宮のご機嫌はたいそうよくおなりになりました。そこで殿は内裏に参られて、大宮(彰子)にも帝にも申し上げなさったところ、どのようにお聞きになったことでしょうな。「一条院が『今度の東宮には式部卿の宮(敦康親王)をとお思いになるべきだが、しっかりした後見がいないので、今の帝を東宮にお立て申し上げるのだ』とおっしゃったので、これも同じことだ」とお考え定めになって、寛仁元年丁巳八月九日に、九歳で三の宮(敦良親王)が東宮にお立ちになり、同じ月の二十三日に、壺切という太刀を内裏から持って参ったのです。

今の帝が即位なさったときに、すぐに東宮にも参るべきだったのですが、そうなるはずの運命だったのでしょうか、何かと差しさわりがあって、この数年、内裏の納殿にあったのですよ。寛仁三年己未八月二十八日、御年十一でご元服なさいました。前の東宮を小一条院と申し上げます。今の東宮のご様子はこの上なくすばらしいものです。いずれはと思いながらも、今すぐこうなるとは思いもかけなかったことですよ。小一条院がご自分のお心から東宮をお退きになったことは、これが初めてです。世が始まってから、東宮の位を取り下げられなさったことは、七、八代ほどになるでしょうか。その中で、法師の東宮(早良親王)がいらっしゃったのは、亡くなられてのちに贈太上天皇と申し上げて、祭り据えられなさいました。朝廷もお心にかけて、崇道天皇として、官物の初穂を真っ先にお供えなさるようです。この院がこのようにお思い立ちになったのは、一つには殿下のご運が早くおありになるのに圧倒されなさったのでしょうか。

また多くは、元方民部卿の霊がしたことなのです」と言うと、例の侍が「それもそうに違いありません。この度のことは、ことのほか事情が変わっております。わたしはたいそう詳しく承っていることがございますよ」と言うので、世継は「そうでしょう。伝わったことは、さあさあ、うかがいたいものです。くせになっていることなので、物事はやはり聞きたいのです」と言います。侍は興ありげに思って、「事の次第は、三条院がいらっしゃったあいだはともかく、亡くなられた後は、世のふつうの東宮のご様子でもなく、殿上人などが参ってお遊びをなさることがあるでしょうか。お世話をして大切にお仕えする人などもなく、たいそう所在なく気の紛れることもなくお思いになるままに、気楽だったころのご様子ばかりが恋しく、ぼんやりするほどに思われなさいましたが、三条院がいらっしゃったあいだは、院の殿上人なども参り、お使いもしきりに参り通いなどしたので、人目も多くて何かと気がお紛れになったのに、院が亡くなられてからは、世の中がなんとなく恐ろしく、大路で行き違うのもどうかと面倒にばかり思って、ふるまいにくいので、東宮坊の役人などでさえ参上してお仕えすることも難しくなっていったので、まして下々の者の心はどうでしょう。

主殿寮の下役も朝の掃除をお仕えすることもないので、庭の草もますます茂って、たいそうおそれ多いお住まいでいらっしゃいます。まれに参り寄る人々は、世間で噂されていることとして、『三の宮がこうしていらっしゃるのを、殿も大宮も気の毒に思い申し上げていらっしゃるので、もし帝に男の宮がお生まれになったらどうなるだろう。そうならないうちに三の宮を東宮にお立て申し上げたい、とおっしゃっているそうです』『だから、いずれ無理に東宮の位を取られなさるのです』などとばかり申すのを、本当ではないのでしょうが、なるほど事の成り行きもそうなりそうだと思われたからでしょうか、お聞きになるお心持ちはますます落ち着かないようにお思いになって、むりやり取られるよりは、自分から退こうかとお思いになっていたところに、また高松殿の御匣殿(道長の娘寛子)を東宮に参らせなさって、殿が華やかにお世話申し上げなさるらしいと、例によって世の人々がさまざまに取り沙汰申すのを皇后宮がお聞きになって、たいそうお喜びになりましたが、東宮は、それはたいそうよいことだが、そうなったら、いよいよ自分の思うこと(退位)はできなくなるだろう、やはりこのままではいられないとお思いになって、母宮に、これこれと思っていますと申し上げなさると、母宮は「言うまでもありません。まったく、とんでもないことです。

御匣殿のことこそ、本当なら進んでお受けなさるべきです。決して決して、お考えになってはならないことです」と申し上げなさって、物の怪のしわざだと御祈祷などをさせなさいましたが、まったく思いとどまられないお心の中を、どうして世間の人も聞きつけたのでしょうか。そこで、御匣殿を参らせ申し上げてくださいと東宮が申し上げなさるらしい、などということが殿の方にも聞こえたので、本当にそのように東宮のお気持ちがゆらいでおっしゃるなら、どうしたものだろうかなどと殿はお思いになります。さて東宮はついにお思い立ちになりました。東宮は、退位した後で御匣殿のことも言い出したら、かえってそれは、どうしてかなわないことがあろうかと、よいほうにお思いになったのでしょう。浅はかなことですな。壺切などのことは、間違いのようです。亡き三条院がたびたび申し上げなさったけれども、殿はあれこれと言いのがれて差し上げなかったと聞いております。ですから亡き院も、それならばなくとも東宮に立てようと思っていらっしゃったのです。

しかるべき人とは自然なことを申し上げさせるもので、東宮は皇后宮にもこうとは申し上げなさらず、ただご自分のお心のままに殿にお便りを差し上げようとお思いになりましたが、親しくしかるべき人もいらっしゃらないので、中宮権大夫殿(藤原能信)のいらっしゃる四条坊門と西洞院とは東宮御所に近いのですよ。それだけを、ほかの人よりはとお思いつきになったのでしょうか。蔵人なにがしを使いにして『ちょっとおいでください』とあったのを、思いもかけないことなので、驚かれて『何のためにお召しになるのか』とお尋ねになると、『申し上げなさるべきことがございますのでしょう』と申すので、例の噂のことかとお思いになりましたが、ご退位なさることは、まさか決してあるまい、御匣殿のことだろうとお思いになります。『どちらにしても、わたし一人の心で決めてよいことではないので、驚きながらも参上すべきですが、父の大臣にご報告申し上げてから参りましょう』と申し上げなさって、まず殿のもとへ参られました。

『東宮からこれこれと仰せがありました』と申し上げなさると、殿も驚かれて、『何事だろう』とおっしゃりながら、大夫殿と同じようにお考えになりました。『本当に御匣殿のことをおっしゃるのなら、お断り申し上げるのも不都合だ。参られたなら、また今のように見苦しい状態でいさせ申し上げるわけにはいかない。それに、そうなれば世の人が言うように東宮が退位なさるお考えがあるはずもないだろう』とはお思いになりますが、『それほどわざわざお召しになるなら、どうして参らないでいられよう。何でもおっしゃることを聞くべきだ』と申し上げなさったので、大夫殿が参られるうちに日も暮れました。陣に左大臣殿(顕光)のお車や前駆の者たちがいるのを、なんとなく面倒にお思いになりましたが、帰られるわけにもいかないので、殿上の間に上がられて、『参上した旨を申し上げよ』と蔵人におっしゃると、左大臣が御前に控えていらっしゃるので、『ただ今は申し上げられません』と申し上げるあいだ、見まわしなさると、庭の草もたいそう深く、殿上の間の様子も東宮がいらっしゃる所とは見えず、あきれるほどおそれ多い様子です。

左大臣が退出されて、かくかくと申し上げると、東宮は朝餉の間にお出ましになって、お召しがあったので大夫殿は参られました。『もっと近くへ、こちらへ』とおっしゃって、『いらっしゃることもないのに、お呼びするのも気がひけるが、大臣に申し上げたいことがあるのに、伝えてくれる人がいないので、すぐ近くだから都合がよいと思ってお便りしたのです。その趣旨は、こうして東宮でいるのは本来望ましいことと思い、亡き院がお決めおきになったことにそむき申し上げるのも、あれこれ気がひけないわけではないが、こうしているのは、思い続けると罪深くも思われる。帝の行く末はたいそう遠く長くいらっしゃる。いつ帝位に就けるともわからず、はかない世の中で命もわからない。この位を退いて、思いのままに仏道修行もし、寺社参りもし、気楽にしていたいのだが、ただの前の東宮でいるのは見苦しいだろう。

院号を賜わって、年給などもあってそうしていたいのだが、どうしたものだろうかと、お伝え申し上げてください』とおっしゃったので、大夫殿はかしこまって退出なさいました。その夜は更けてしまったので、翌朝、殿のもとへ参られたところ、殿は内裏へ参られようとしてご装束をお召しのところなので、申し上げられません。だいたい、お供に参るはずの人々や、そうでない人も、お出かけになるならお目にかかろうと大勢参り集まって騒がしいので、お車にお乗りになろうとするときに申し上げようと思って、そのあいだ寝殿の隅の間の格子に寄りかかって座っていらっしゃると、源民部卿(源俊賢)が近寄っていらっしゃって、『どうしてこうしていらっしゃるのですか』と申し上げなさるので、この方には隠し申し上げるべきことでもないので、『これこれのことがあるのだが、人々が控えているようなので申し上げられないのです』とおっしゃると、民部卿もお顔色が変わって驚かれます。

『たいそう恐れ多いことのようですね。ただ早くお聞かせ申し上げなさい。内裏へ参られたら、いっそう人が多くて申し上げられなくなりましょう』とおっしゃるので、なるほどとお思いになって、殿のいらっしゃる方へ参られると、殿はそのことだろうとお察しになって、隅の間にお出ましになって、『東宮へ参ったか』とお尋ねになるので、昨夜のお話を詳しく申し上げなさると、言うまでもありません、どうしていいかげんにお思いになりましょうか。無理に退位させ申し上げることは気がひけるとお思いになっていたのに、このようなことが出てきたお喜びは、やはり尽きることがありません。まず、すばらしい大宮のご宿運だなあとお思いになります。民部卿殿にご相談なさると、『ただ早く早くなさるべきです。どうしてよい日などをお選びになることがありましょう。少しでも延びたら、東宮がお考え直しになって、やはりやめておこうとおっしゃったらどうなさいますか』と申し上げなさるので、もっともなこととお思いになって暦をご覧になると、今日も悪い日ではありませんでした。

そのうちに関白殿(頼通)も参られたので、『早く早く』とおすすめ申し上げなさいます。殿は『まず何はともあれ大宮に申し上げてから』と言って、大宮は内裏にいらっしゃる時なので参られて、かくかくとお聞かせ申し上げなさると、まして女のお心ではどんなにお思いになったことでしょう。それから東宮御所に参られました。このようにお話ししていることは、寛仁元年八月六日のことです。お子の殿方や、またいつもお供に参られる上達部・殿上人を引き連れていらっしゃったので、たいそう仰々しく、評判も格別でいらっしゃったのを、お待ち受けになった東宮のお気持ちは、覚悟のうえとはいっても、少しは落ち着かなくお思いになったことでしょう。事情を知らない人は、少しも参り寄る人さえいなかったのに、昨日二位中納言殿(能信)が参られたのでさえ不思議に思っていたのに、また今日、こんなに大勢で、賀茂詣などのように先払いの声も仰々しく響いて参られたのを、どういうことかとあきれていましたが、少しはましな身分の者は、御匣殿のことを申し上げなさるためだろうと思ったのは、もっともらしいことですな。

まったく思慮のない身分の者は、また自分の心にかかるままに、帝はどうしていらっしゃるのかなどと心配して騒ぎ合ったのは、あきれた不吉なことでした。母宮でさえご存じなかったのです。このように東宮のお部屋の方が騒がしいのを、どういうことかと不思議にお思いになって、事情をお尋ねになりましたが、いつも女房が参る道を東宮はふさいでしまっておられたのでした。東宮は、殿には長年お思いになっていたことなどを詳しく申し上げようと心強くお思いになっていましたが、本当にその時になると、どうなってしまうのだろうと、さすがにお心が騒がれました。向かい合ってお会いになると、いろいろと気おくれなさってしまったとか。ただ昨日と同じように、かえって言葉少なにおっしゃったときには、殿は『それにしても、どうしてこのようにお思い立ちになったのですか』などと申し上げなさったことでしょうな。東宮のご様子の痛々しさを一方では拝見なさって、少し涙をおぬぐいになって、『それでは今日はよい日です』と言って、院にしてさしあげなさって、そのまま院の事務をお始めになる日の諸事をお定め行いになりました。

判官代には東宮坊の役人や蔵人などがそのまま移り、変わるはずもありません。別当には中宮権大夫をお任じになったので、大夫は座ったまま拝礼申し上げなさり、事がすっかり定まったので、殿は退出なさいました。たいそうしみじみとしたことは、殿がまだ控えていらっしゃったとき、母宮の方から、どの道から尋ねて参ったのでしょうか、殿は『わたしがはっきり見ているのも知らないような様子で、たいそうみすぼらしい姿をした女房が、震えながら〈どうしてこのようになさったのですか〉と、声も変わって申していたのは、哀れでもあり、またおかしくもあった』とおっしゃったそうです。勅使がだれだったかは、はっきり聞いておりません。勅使への禄などは、急なことでどうなさったのでしょう」と言うと、世継は「殿こそがなさったのでしょう。それほどのことになって、ぐずぐずなさるはずがありましょうか。かがり火をたき、陣屋などを設けさせたときには、こらえきれずに忍び泣く人々がおりました。まして皇后宮や堀河の女御殿(顕光の娘延子)などは、あれほど思慮深くいらっしゃるお心で、どんなにお思いになったことかと思われました。

世の中の人は、堀河の女御殿が、

「雲居まで立ちのぼるべき煙かと見えし思ひのほかにもあるかな(宮中の雲の上まで立ちのぼる煙かと見えたのに、思いのほかのことであったよ)」

などという歌をお詠みになったなどと申しますが、まさかそんなことはと思われます。あれほどのことに、和歌の道などお思いつきにならないでしょうよ。お心の中では、後で自然とお思い出しになることもあったでしょうが、人が聞き伝えるほどのことはどうだったでしょう」と言うと、翁(繁樹)は「なるほど、それはそうでございますが、昔も今も、たいへんなことの折にはこうしたことがたいそう多く聞こえました」と言ってささやきます。「さて、どういうことでしょうか、東宮の御位から無理に退かせ申し上げなさってからは、また婿としてお迎え申し上げなさるあいだ、大切にお世話申し上げなさるご様子は、本当にお心もお慰みになるほどだと聞こえておりました。御膳を差し上げる折には、殿ご自身が台盤所にいらっしゃって、御台や盤などまでご自分の手でおふきになります。何でも召し上がってみて、お毒見をしてから差し上げなさったのでした。御曹司の入口まで持っていらっしゃって女房にお渡しになり、殿上に出す時にも付き添って、よいようにお教えになるなど、これこそが殿の本意なのだとしみじみといたしました。

このときに亡き式部卿の宮(敦康親王)のことがあったということも、うそです。どういうわけで、根も葉もないことを、昔のことならともかく、今いらっしゃる方のことを申すのは、とんでもないことですよ。さて、式部卿の宮と申すのは、亡き一条院の第一皇子でいらっしゃいます。その宮を長年帥の宮と申し上げていたのですが、小一条院が式部卿でいらっしゃったのが東宮にお立ちになったので、空いた所に帥の宮を移されて、式部卿の宮と申し上げたのですよ。(この方は高倉の宮の御祖父である。)その後、今度の東宮にも外れなさってお嘆きになっていたうちに、亡くなられた後、また小一条院のすぐ下の弟君の二の宮、敦儀親王を岩倉の式部卿と申し上げるようです。またその次の三の宮、敦平親王を中務の宮と申し上げます。次の四の宮を師明親王と申し上げます。幼いころから出家して、仁和寺の僧正の大切なお弟子でいらっしゃるようです。

この宮たちの妹の女宮がお二方いらっしゃって、お一方はそのまま三条院の御代の斎宮として伊勢へ下られましたが、都へお上りになって後、荒三位道雅と通じなさったので、三条院もご病気の折にたいそうあきれたことだとお嘆きになって、女宮は尼におなりになって亡くなられました。もうお一方の女宮はいらっしゃいます。(この方は大二条殿〈教通〉の北の方。)小一条の大将の姫君こそが、ただ今の皇后宮と申し上げた方ですよ。三条院の御代に后にお立て申し上げようとお思いになったのに、大納言の娘で后に立つ例がなかったので、御父の小一条の大将を贈太政大臣にしてから后にお立てになったのです。ですから皇后宮はたいそうめでたくいらっしゃるようです。兄弟のお一人は侍従入道、もうお一方は大蔵卿通任の君でいらっしゃるようです。また伊予の入道もその兄弟ですよ。もうお一方の女君こそが、たいそうひどく情けないありさまでいらっしゃるようです。

父の大将がお与えになった処分の領地が近江にあったのを、人に取られてしまったので、しかたなく、これほど落ちぶれてしまうと恥ずかしさもわからなくなってしまわれたのでしょうか、夜に徒歩で御堂(法成寺)に参られて、訴え申し上げなさったのですよ。殿は御堂の仏の御前で念誦していらっしゃったのですが、夜がたいそう更けてしまったので、脇息に寄りかかって少しまどろんでいらっしゃると、犬防ぎ(仏前の低い柵)のもとに人の気配がしたので、怪しいとお思いになったところ、女の気配で、ひそやかに『申し上げたいことがございます』と申すのを、聞き違いかとお思いになりましたが、何度もになったので、本当だったのだとお思いになって、たいそう不思議ではありましたが、『だれだ、あれは』とお尋ねになると、『これこれの者が申し上げたいことがございまして参ったのです』と申しなさったので、まったくあきれたことだとお思いになりましたが、荒々しくおっしゃるのもさすがに気の毒なので、『何事か』とお尋ねになると、『これはご存じのことでございましょう』と言って事情を詳しく申し上げなさったので、たいそう哀れにお思いになって、『言うまでもない、皆聞いていることだ。

まことに気の毒なことのようだ。今後そうしてはならないとすぐに言わせよう。このようにご自身でいらっしゃるのは、まったくあってはならないことだ。人を介して言わせなさればよい。早くお帰りなさい』とおっしゃったので、『そのようにかえすがえす存じておりましたが、取り次いでくれる人がまったくおりませんので、それでもきっと哀れとおっしゃってくださるだろうと思い決めて参りながらも、たいそう気がひけておりましたのに、このようにおっしゃっていただき、申し上げようもないほどうれしゅうございます』と言って、手をすり合わせて泣く気配に、殿は不吉にも哀れにもお思いになって、殿もお泣きになってしまいました。女君が出て行かれる途中、南大門に人々が座っている中を通られたので、なにがし殿という人が引き止められたのは、まったく無礼なことですな。後で殿もお聞きになって、たいそうご立腹なさって、その人はたいそう長く謹慎していらっしゃいました。

さて、訴えなさった領地は、今後長く争いがあってはならず、この人の領地とすべきだと命令が下されたので、もとよりもいっそうしっかりと領有していらっしゃいます。まことに結構なことです。これほどになってしまったら、恥も知らずにいるのがよいでしょう。賢く申し上げなさったものだ、まことによいことだと口々にほめ申し上げたのは、かえってどうかと思われました。大門でつかまえた人は、式部大夫政成の父です。あれほど優雅でいらっしゃった方(師尹)のご子孫に、少しはしっかりした人がいないのです。(甲斐前司師季の先祖、信濃の威儀師〈源算〉がいるけれども、法師なので。)

原文で読む →
← 前の章二十五 太政大臣頼忠