この大臣は一条の摂政と申し上げました。九条殿の長男でいらっしゃいます。すばらしい家集をおつくりになって、「とよかげ」と名乗られました。大臣におなりになり栄えられて三年、たいそう若くして天禄三年十一月一日に亡くなられました。御年四十九。諡を謙徳公と申し上げました。たいそう若くして亡くなられたのは、九条殿のご遺言にそむかれたせいだと人は申しました。けれども、どうしてそうしないでいられましょう。ご葬送のことを、ひどく簡略にするようにと書き置かれていたのを、どうしてそんなにまでと、通常の作法でとり行われたということです。これはもっともなしわざですよ。ただお顔立ちも学才も、何事もあまりにすぐれていらっしゃったので、ご寿命だけが整わなかったのでしょう。折々の和歌などはすばらしいものでございますな。春日の使いとしてお下りになって、その帰りに女のもとにお送りになった歌、
「くればとくゆきて語らむあふことのとほちの里のすみうかりしも(日が暮れたらすぐに行って話そう。あなたに逢うことが遠い、十市の里の住みづらかったことも)」。
ご返歌、
「逢ふことはとほちの里にほどへしもよし野の山とおもふなりけむ(逢うことが遠い十市の里で時を過ごされたのも、吉野の山のように住みよいとお思いだったからでしょう)」。
助信の少将が宇佐の使いとして下られたとき、殿上で餞別に、色の変わった菊の花を題として別れの歌を詠まれた、
「里とほくうつろひぬとかきくの花をりて見るだにあかぬこゝろを(遠い里へ移ってしまうと聞く、色変わりした菊の花よ。折って見ているだけでも飽きない心なのに)」。
帝の御叔父、東宮の御祖父として摂政をなさったので、世の中はお心にかなわないことはなく、贅沢をことのほかお好みになって、大饗をなさるときに、寝殿の裏板の壁が少し黒かったので、急にお目にとめられて、何とか陸奥紙を一面にお貼らせになったのが、かえって白くきれいでございました。思いつくようなことでしょうかね。そのお屋敷は今の世尊寺ですよ。ご一族の氏寺として置かれているのを、こうした折には立ち寄って拝見しますと、まだその紙が貼られておりますので、昔に出会った心地がしてしみじみと拝見します。このようなご栄華をご覧になったままで、御年五十にもならずに亡くなられた惜しさは、父の大臣(師輔)にも劣らないと、世の人は惜しみ申し上げました。男女のお子がたくさんいらっしゃいました。女君のお一方は冷泉院の御代の女御で、花山院の御母、贈皇后宮におなりになりました(懐子)。
次の女君お二人は法住寺の大臣(為光)の北の方で、相次いで亡くなられました。九の君は冷泉院の皇子の弾正宮(為尊親王)と申し上げた方の北の方でいらっしゃいましたが、その宮が亡くなられた後、尼になってたいそう仏道に励んでいらっしゃるようです。また忠君の兵衛督の北の方でいらっしゃったのが、のちには六条の左大臣殿(重信)のお子の左大弁の北の方でいらっしゃったのは、四の君だったでしょうか。また花山院の御妹君のうち、一の宮は亡くなられました。女二の宮は円融院の御代の斎宮にお立ちになって、天延三年に退下され、貞元三年に円融院の御代に女御として入内なさいました。ほどなく内裏が焼けたので、「火の宮」と世の人もお名づけ申し上げました。さて一、二度参内なさって、ほどなく亡くなられました。この宮にご覧に入れようとして『三宝絵』はつくられたのです。男君たちは、代明親王の御娘の腹に、蔵人の前少将(挙賢)・後少将(義孝)といって、華やかでいらっしゃった君たちが、殿が亡くなられて三年ほどたった天延二年甲戌の年、疱瘡がはやったときにおかかりになって、前少将は朝に亡くなり、後少将は夕方に亡くなられたのですよ。
一日のうちに二人の子を失われた母北の方のお気持ちはどんなだったでしょう、たいそう悲しく承りました。後少将は義孝と申しました。お顔立ちがたいそうすばらしくいらっしゃって、長年ひたむきな道心者でいらっしゃいました。病が重くなるにつれ、生きられるとも思われなかったので、母上に申されたことには、「わたしが死にましても、あれこれ普通のようにはなさいますな。しばらく法華経を誦み申し上げたいという願いがございますので、必ず生き返ってまいります」とおっしゃって、方便品をお読みになりながら亡くなられました。その遺言を母北の方はお忘れになるはずもありませんでしたが、正気を失っていらっしゃったので、ほかの人がしてしまったのでしょうか、枕返しなど、普通のとおりのことをしてしまったので、生き返ることがおできにならなくなってしまいました。のちに母北の方の夢に現れて、
「しかばかり契りしものをわたり川かへるほどには忘るべしやは(あれほど約束したのに、三途の川を渡って帰ってくるわずかの間に、お忘れになってよいものでしょうか)」
とお詠みになりました。どんなお気持ちだったでしょう、悔しくお思いになったことでしょうね。さてその後しばらくして、賀縁阿闍梨と申す僧の夢に、この君たち二人がいらっしゃって、兄の前少将はひどく思い悩んでいる様子にお見えになり、この後少将はたいそう気持ちよさそうな様子でお見えになったので、阿闍梨が、「あなたはどうして気持ちよさそうにしていらっしゃるのです。母上はあなたのことを兄君よりずっと恋しがっていらっしゃるようですのに」と申し上げると、まったく納得できないという様子で、
「時雨とはちぐさの花ぞちりまがふなにふる里に袖ぬらすらむ(極楽では時雨といえば、色とりどりの花が散り乱れることなのに、どうして故郷の人々は涙で袖をぬらしているのでしょう)」
などと詠まれて、また口ずさまれた詩は、
「昔は契りき蓬萊宮の裏の月
今は遊ぶ極楽界の中の風(昔は宮中で月を眺めて親しく語り合ったが、今は極楽の世界で風に吹かれて遊んでいる)」
とおっしゃったそうです。(さてのちに小野宮の実資の大臣の夢に、美しい花の陰にいらっしゃったのを、生前にも親しくしていらっしゃった間柄なので、「どうしてこうして、どこにいらっしゃるのです」と珍しがり申し上げなさったところ、お答えにこの詩があったのです。)極楽に生まれ変わられたのでしょう。このように夢などでお示しにならなくても、この人の往生を疑い申し上げるべきではありません。世の常の君たちのように、内裏などでも自然と女房と親しくしたり、ちょっとした戯れごとさえおっしゃらなかったのに、どういう折だったのでしょうか、細殿にお立ち寄りになったので、いつになく珍しいことと思ってお話し申し上げていると、だんだん夜中にもなっただろうかと思うころに立ち去られるのを、どちらへ行かれるのかと知りたくて、人をつけて見させたところ、北の陣からお出になるあたりから法華経をたいそう尊くお誦みになり、大宮大路を上っていらっしゃって世尊寺にお着きになりました。
なおも見ていると、東の対の端にある紅梅がたいそう盛りに咲いている下にお立ちになって、「滅罪生善、往生極楽」という額づきを、西に向かって何度もなさいました。帰ってそのご様子を語りましたので、まことにしみじみと聞かない人はありませんでした。この翁もそのころ大宮大路のあたりに宿っておりましたので、そのお声に目を覚ましてたいそう尊く承りましたので、翁は出て拝見しましたところ、空は一面に霞んでいるのに月はたいそう明るくて、直衣のたいそう白いのに濃い色の指貫を、ほどよく裾をくくり上げて、何色だったでしょうか、色のある御衣どもが脇の開きからたくさんこぼれ出ていたお姿などよ。お顔の色は月の光に映えてたいそう白くお見えになり、鬢の毛の際がくっきりとしてすばらしくいらっしゃいました。そのままずっと見続けてお供に参り、額づかれるのを拝見しましたが、たいそう悲しくしみじみといたしました。
お供には童が一人いたようでした。また殿上の人々の遊覧がございましたとき、ほかの人は皆それぞれ思い思いに狩装束をすばらしくしていらっしゃったのに、この殿はたいそう遅れて待たれた末に、白い御衣どもに香染めの狩衣、薄紫の指貫という、華やかでない取り合わせで出ていらっしゃったのが、かえって趣向を凝らした人よりもすばらしくいらっしゃいました。いつものことなので法華経を口の中でつぶやいて、紫檀の数珠に水晶の飾りをつけたものを隠し持っていらっしゃいました。お心づかいなどの優雅でいらっしゃったことよ。だいたい一生精進を始められたこと自体、まずめったにないことですよ。なおなお同じことのようでございますが、すばらしいと拝見し聞いておいたことは申し上げたくて。この殿はお顔立ちがめったにないほどで、末の世にもこのような人はお出になりにくいだろうとまで拝見しました。雪がたいそう降った日、一条の左大臣殿(雅信)のもとに参られて、御前の梅の木に雪がひどく積もっているのを折って振られたところ、お体にはらはらとかかったのが、直衣の裏の花色が映って、かえってまだらになりましたのに引き立てられたお姿は、たいそうすばらしくいらっしゃいました。
兄君の少将もたいそう立派でいらっしゃいました。弟の殿がこうもあまりにきちんとしていらっしゃったのを非難して、少し荒々しく、よくない人でいらっしゃいました。その義孝少将が、桃園の源中納言保光卿の娘の腹にお生ませになった君ですよ、今の侍従大納言行成卿で、世の能書家と評判の方は。この殿のご子息のうち、ただ今の但馬守実経の君と尾張権守良経の君のお二人は泰清三位の娘の腹です。正妻の腹は少将行経の君、また女君は入道殿(道長)のお子で高松殿腹の権中納言殿(長家)の北の方でいらっしゃいました。その姫君は十五で亡くなられましたよ。また今の丹波守経頼の君の北の方でいらっしゃいます。また大姫君もいらっしゃるとか。この侍従大納言殿こそ、備後介といってまだ地下でいらっしゃったときに蔵人頭におなりになったそうです。まことに珍しいことですよ。そのころ源民部卿殿は(この民部卿は心がきちんとしていて朝廷によくお仕えしたので、閻魔王宮に生まれ変わったと夢に見えた人です)
蔵人頭でいらっしゃったのが、上達部におなりになったので、一条院が「この次にはまた誰がなるのがよいか」とお尋ねになると、「行成こそなるべき人でございます」と奏上なさいました。「地下の者ではどうであろうか」とおっしゃったので、「たいそうすぐれた者でございます。地下などとご遠慮なさいますな。将来も朝廷で何事にもお仕えするのにふさわしい者です。このような人をお見分けにならないのは世のためによくないことでございます。善悪をわきまえていらっしゃるからこそ、人も心を配ってお仕えするのです。この程度の人をおなしにならないのは、たいそう残念なことでございましょう」と申し上げなさったので、道理のこととはいいながら、おなりになったのですよ。だいたい昔は、前の蔵人頭の推挙によって後の頭がなることになっておりました。ですから殿上では、自分がなるはずだなどと、さだのぶの民部卿が中将でいらっしゃったころに思っていらっしゃいました。
この人は今夜(任命がある)と聞いて参内なさったところ、どこかで行成とはち合わせなさったのを「だれだ」とお尋ねになると、名乗られたので、思いがけなくお思いになって、「何のために参られたのか」と言うと、「頭にしていただいたので参ったのです」と答えたので、あきれて身動きもせずに立っていらっしゃいました。なるほど思いがけないのはもっともですよ。この源民部卿が、こうして推挙してくださったことをありがたく思って、従二位のときでしたか、行成は位で源民部卿を越えられましたが、決して上座にはお座りになりませんでした。あの殿がお出になる日は自分は病気と申し出て、また一緒にお出になる日は向かいの席などにお座りになりました。さて民部卿が正二位におなりになったときに、元のように下座におなりになったのです。だいたいこのご一族の蔵人頭争いでは、敵(かたき)を引き継いでいらっしゃるので、これもどうなることでしょうか。皆さまご存じのことですが、朝成の中納言と一条の摂政(伊尹)とは同じころの殿上人で、家柄こそ一条殿と同じではありませんが、学才も世の評判もたいそう高い人だったので、蔵人頭になるべき順番がきていたところに、またこの一条殿もまちがいなく当然なるべき人でいらっしゃったので、この朝成の君が申し上げなさったことには、「殿はおなりにならなくても、人は体裁が悪いとは思い申し上げますまい。
この先もお心のままです。わたしは今度はずれてしまったら、たいそうつらいことになりましょうから、譲ってくださいませんか」と申し上げなさったので、「わたしもそう思っていたところだ。それでは辞退しよう」とおっしゃったのを、たいそう嬉しく思われていたのに、どうお考えが変わったのでしょうか、そのまま何の相談もなく頭になってしまわれたので、こんなふうにだますとはと、たいそう腹立たしく思いが募っていくうちに、お二人の仲がよくないまま過ごされていると、朝成が一条殿にお仕えする人だったかに無礼なことをなさったのを、一条殿が、不本意だという程度には思っても、どうして何かにつけて自分などをこのように無礼に扱うのかとご立腹だと聞いて、悪気はなかったことを申し上げようと参上されたところ、そのような身分の人は自分より高い所に参ったときは、「こちらへ」と言われないかぎりは上にも上らず下に立っているものでしたが、これは六、七月のたいそう暑く耐えがたい頃で、来訪を告げさせて、今か今かと中門に立って待っているうちに西日もさしかかって、暑く耐えがたいなどというものではありません。
気分も悪くなりそうなので、さてはこの殿は自分をあぶり殺そうとお思いなのだ、むだに参ったものだと思うと、すっかり悪心が起こったなどという言葉では足りません。夜になるまでそうしているわけにもいかないので、笏を押さえて立ち上がったところ、ぽきりと折れてしまいました。どれほど激しく心を起こされたのでしょう。さて家に帰って、「この一族を末長く絶やしてやる。もし男の子も女の子もいても、まともにはさせまい。気の毒だと言う人がいれば、それをも恨もう」などと誓って亡くなられたので、代々の悪霊とおなりになったのです。ですからまして、この大納言殿(行成)は血筋が近くていらっしゃるので、たいそう恐ろしいことです。殿の夢に、紫宸殿の後ろの戸のところ、必ず人が参るときに立つ所ですよ、そこに人が立っているのをだれかと見ると、顔は戸の上に隠れていてよく見えません。妙に思って「だれだ、だれだ」と何度も尋ねると、「朝成でございます」と答えるので、夢の中でもたいそう恐ろしかったのですが、こらえて「どうしてそこに立っておられるのか」とお尋ねになると、「頭の弁(行成)が参られるのを待っているのです」と言うのを見て、目を覚まされて、「今日は公事のある日だから、早く参内するだろう。
困ったことだ」と言って、「夢に見えたことがあるので、今日は病気と申して、物忌を固くして、決して参内なさいますな。詳しくはそのうちに」と書いて、「急いでお届けせよ」と言いつけましたが、行成はたいそう早く参内してしまわれました。お守りが強くていらっしゃったのでしょうか、いつものようにではなく、北の陣から藤壺と後涼殿の間を通って殿上に参られたので、殿は「これはどうしたことか。手紙を差し上げたのをご覧にならなかったのか。こういう夢を見たのです。早くご退出なさい」と申し上げなさると、行成ははたと手を打って、どういうことかと詳しくお尋ねにもならず、ほかに一言もおっしゃらずにご退出なさいました。それからご祈祷などをなさって、しばらくは内裏にも参られませんでした。この物の怪の家は三条より北、西洞院よりは西にあります。今も一条殿のご一族が、ちょっとでも入らない所です。
この大納言殿(行成)は何事にも整っていらっしゃいましたが、和歌の方は少し劣っていらっしゃったのでしょうか。殿上で歌論議ということが始まって、その道の人々はどう黙っていられようかと、歌の学問以外のことはないほど熱中していましたのに、この大納言殿は何もおっしゃらなかったので、どういうことかと、だれそれ殿が「『難波津に咲くやこの花冬ごもり』とは、いかが」と申し上げなさると、しばらく何もおっしゃらずに、たいそう考えこむ様子をして、「存じません」とお答えになったので、人々は笑って興ざめしてしまいました。ちょっとした行き届かないことにも才覚が深くいらっしゃって、気のきいたものにしてしまわれるご性分で、帝(一条天皇)が幼くいらっしゃって、人々に「遊び道具を差し上げよ」とおっしゃったので、さまざまに金銀などを使って心を尽くし、何がよいかと工夫して持ち寄ったところ、この殿はこまつぶり(独楽)にむら濃の緒をつけて差し上げなさったので、「変わった物の様子だな。
これは何だ」とお尋ねになると、「これこれの物でございます」と申し上げます。「回してご覧なさいませ。面白いものです」などと申されたので、紫宸殿にお出になって回させなさると、たいそう広い殿の中を残らずくるくる回り歩くので、たいそう面白がられて、これだけをいつもご覧になって遊ばれたので、ほかの物はしまいこまれてしまいました。また殿上の人々が扇を差し上げたとき、ほかの人々は骨に蒔絵をしたり、あるいは金・銀・沈香・紫檀の骨に筋を入れ彫刻をし、何ともいえない紙に、人のあまり知らない歌や詩や、また六十余国の歌枕で名高い所々などを書いて差し上げましたが、例によってこの殿は、骨には漆を趣深く塗っただけで、黄色い唐紙の下絵がほのかに趣深いものに、表には楽府を端正に楷書で書き、裏には筆に心をこめて草書でみごとに書いて差し上げなさったので、帝はくり返しくり返しご覧になって御手箱にお入れになり、たいへんな宝とお思いになったので、ほかの扇はただご覧になって面白がるだけで終わってしまいました。
どれもこれも、帝のご感心にまさることがありましょうか。たいそう風雅な才のおありになる人です。この高陽院殿で競馬(くらべうま)があった日、鼓は讃岐の前司明理の君がお打ちになりました。一番はだれそれ、二番はかれそれなどと言いましたが、その名は覚えておりません。勝つはずの方の鼓をうまく打てずに負けにしてしまったので、その随身がそのまま馬に乗ったまま、内腹を立てて振り返るなり、「ああ災難だ。これくらいのことさえしくじりなさるとは。だから明理・行成と一対に言われていらっしゃったのに、行成殿は一の大納言としてたいそう重々しくお仕えしていらっしゃるのに、こちらは腐った讃岐の前司の古受領で、鼓を打ちそこなって突っ立っていらっしゃるのだ」と悪口を申し上げたのを、大納言殿(行成)がお聞きになって、「明理の乱行に、行成めの名を呼ぶべきではない。
ひどくつらいことだ」と言ってお笑いになったので、人々はたいそううまいことをおっしゃったと面白がり申し上げて、そのころの評判の言葉にいたしました。また一条の摂政殿のお子で、花山院の御代に帝の御叔父として義懐の中納言と申し上げた方は、少将たち(挙賢・義孝)と同じ腹ですよ。その御代にはたいそう華やかでいらっしゃいましたが、帝がご出家なさったので、すぐに自分も遅れ申すまいと花山寺まで尋ねて参って、中一日をおいて法師になられました。飯室という所でたいそう尊くお勤めをして亡くなられました。その中納言は学問はおありになりませんでしたが、気性はたいそう賢く、故実にも通じていらっしゃって、花山院の御代の政治はただこの殿と惟成の弁とで行われたので、たいそうすばらしかったのですよ。その帝を、世の人は「内劣りの外めでた」(内面は劣るが外見はご立派)と申しました。「冬の臨時の祭の日が暮れてしまうのはよくないことだ。
辰の時(午前八時ごろ)に人々は参れ」と宣旨をお下しになったのを、そうおっしゃっても巳か午の時(昼ごろ)になられるだろうなどと思っていらっしゃったところ、舞人の君たちが装束をいただきに参上なさると、帝はもうご装束をお召しになってお立ちになっていらっしゃいました。この入道殿(道長)も舞人でいらっしゃったので、このごろお話しになっているのを伝え聞いたのです。明るいうちに大路などを渡るのがよいのだろうかと思っていると、帝は馬をたいそう面白がられたので、舞人の馬を弘徽殿の北の馬道からお通しになって、朝餉の壺庭に引き下ろさせ、殿上人たちを乗せてご覧になるのでさえ人々はあきれていたのに、しまいにはご自分が乗ろうとまでなさるので、どうしようもなく伺候し合っていらっしゃったところ、そうなる運命だったのでしょうか、入道中納言(義懐)が出ていらっしゃったので、帝はお顔をたいそう赤くなさって、ばつが悪そうにお思いになっていました。
中納言もたいそうあきれて拝見なさいましたが、人々が見ている前でお止め申し上げるのもかえって見苦しいので、もてはやし面白がり申し上げる様子をしつつ、ご自分から下襲の裾をはさんでお乗りになりました。あれほど狭い壺庭で馬を乗り回し、みごとに跳ね上げなさったので、帝のご機嫌も直って、悪いことではなかったのだとお思いになって、たいそう面白がられましたが、中納言があきれもし、悲しくもお思いになっているご様子は、帝と同じ心でよくないことをはやし申し上げていらっしゃるようには見えませんでした。だれもがそうだと見知り申し上げる人もいたからこそ、こうして申し伝えているのですな。また自分で乗られるまでは行き過ぎだと言う人もいました。これに限らず、ひたすら表立ってひどくは見えず、ただご性分がよろしくないようにお見えになるので、たいへんなことでした。ですから源民部卿(俊賢)は「冷泉院の狂いよりは、花山院の狂いの方がどうしようもない」と申されたので、入道殿(道長)は「たいそう不都合なことを言われるな」とおっしゃりながら、たいそうお笑いになりました。
この義懐の中納言のご出家は、惟成の弁がお勧め申し上げたのだということです。たいそう思慮の行き届いた人で、「今さら他人として宮仕えなさるのは見苦しいでしょう」と申し上げたので、なるほどそうだといっそうお思いになって出家なさいましたが、もともと起こされた道心ではないので、どうなることかと人は思い申し上げましたが、身を引かれるようなお心のご性分だったので、怠ることなくお勤めをして亡くなられたのですよ。そのお子はただ今の飯室の僧都守禅の君、また絵阿闍梨の君、入道中将成房の君です。この三人は備中守為雅の娘の腹です。その中将の御娘は定経殿の奥方でいらっしゃるようです。一条殿のご一族はどういうわけか、ご寿命が短くていらっしゃるようです。花山院はご出家の本意がおありで、たいそうお勤めをなさり、修行なさらない所はありません。それで熊野の道の千里の浜という所でお体を悪くされたので、浜辺に石があるのを枕にしてお休みになっていると、ごく近くで海人が塩を焼く煙が立ちのぼる心細さを、ほんとうにどんなにしみじみとお思いになったことでしょうね。
「旅の空夜はのけぶりとのぼりなばあまのもしほ火たくかとやみむ(旅の空で、わたしが夜半の煙となって立ちのぼったなら、人は海人が藻塩を焼く火かと見るだろうか)」。
そうしているうちに修行の験力もたいそうおつきになって、根本中堂にお上りになった夜、験比べをしていたのを試してみようとお思いになって、心の中で念じていらっしゃったところ、護法がとりついた法師が、院のいらっしゃる屏風のそばに引き寄せられて、まったく身動きもしません。あまり長くなったので、もう許してやろうとお思いになった時に、法師がようやく離れて、とりつかせた僧たちのもとに跳ねていったのを、さては院の護法が引き取っていたのだと、人々はしみじみと拝見しました。それはそうしたことでございます。験力も身分によるものなので、どんなに立派な修行者でも、どうして肩を並べ申し上げられましょう。前世の戒の力に加え、国王の位をお捨てになった出家の功徳は限りないものでいらっしゃるのでしょう。行く末までそれほどになられたお心では、どうして怠けたりなさるでしょうか。それなのにたいそう妙なふるまいをなさるようになった、お心の過ちも、ただ物の怪のせいでございましたようです。
中でも冷泉院が南院にいらっしゃったとき、火事があった夜、お見舞いに参られたありさまこそ不思議でございました。御親の院(冷泉院)はお車で二条町尻の辻にお立ちになっていました。この院(花山院)は馬に乗って、頂に鏡を入れた笠を頭光(ずこう)のようにかぶられて、「どこにいらっしゃるか、どこにいらっしゃるか」とご自身で人ごとに尋ねられると、「そこそこに」とお聞きになって、いらっしゃる所の近くでお降りになりました。馬の鞭を腕にさし入れて、お車の前で袖を合わせて、たいそうそれらしくお座りになっていたのは、そんなことがございましょうかね。それにまた、冷泉院がお車の中から高らかに神楽歌をお歌いになったのは、さまざまに面白いことを見聞きするものだと思われましたが、明順殿の気配がたいそう勇ましかったことよ」とおっしゃったので、皆はこらえきれずにお笑いになりました。
さてまた花山院が、ある年の祭の帰りの行列をご覧になったご様子は、どなたも拝見なさったでしょうね。前の日に騒ぎを起こされた時のことですよ。そんなことがあった時は、今日はやはりお出かけなどなくてもよさそうなものなのに、たいへんな異様な者ども、高帽の頼勢をはじめとして、お車の後ろに群れをなして大勢参った様子は、言いようもありません。何よりもお数珠がたいそう面白かったのです。小さい柑子(こうじ)をふつうの玉として連ねさせ、達磨(親玉)には大柑子を使ったお数珠をたいそう長く、指貫とともに垂らしてお出ましになったのは、あんな見ものがございましたでしょうか。人々が紫野でお車に注目していたところ、検非違使が参って、昨日騒ぎを起こした童たちを捕らえるべしということになったではありませんか。このごろの権大納言殿(藤原公任か)、またそのころはお若くいらっしゃった時ですよ、人を走らせて、「こうこういうことがございます。
早くお帰りなさいませ」と申し上げなさったので、大勢お仕えしていた者どもが、蜘蛛の子を風が吹き散らすように逃げてしまったので、ただ車副いの者だけで車を進ませて、見物の車の後ろの方からお帰りになったのは、さすがにお気の毒でおそれ多く思われました。さて検非違使がついて、たいそうきびしく責められなさって、太上天皇の御名は長くおとしめられてしまいました。こういうわけで、民部卿殿のおっしゃった言葉はなるほどと思われます。それでもお詠みになった和歌はどれも人の口にのぼらないものはなく、優雅だと承っておりますな。
「こゝろみにほかの月をも見てしがな我が宿からのあはれなるかと(試しによその月も見てみたいものだ。月がしみじみと見えるのはわが家だからなのかどうかと)」
などは、あのようなご様子の方がお思いつきになったこととも思われず、心苦しいことでございます。さてまた冷泉院に筍を差し上げなさった折には、
「世の中にふるかひもなき竹の子はわがへむ年をたてまつるなり(世の中に生きている甲斐もない竹の子のようなわたしは、これから自分が経るはずの年を差し上げます)」。
ご返歌、
「年へぬるたけのよはひは返してもこの世をながくなさむとぞおもふ(年を経た竹のような齢はお返しして、あなたにこの世を長く生きてほしいと思う)」。
もったいなくもお詠みになったと御集にございますのが、しみじみとしております。本当にあのようなお心でも、祝ってさしあげようとお思いになったのが悲しいことよ。この花山院は風流者でさえいらっしゃいました。お屋敷をお造らせになったさまなどよ。寝殿・対・渡殿などを続けて造り、檜皮葺きをつなげることも、この院が始められたのです。昔は別々で、間に樋をかけておりました。内裏は今もそうなっておりますようです。車宿りには、板敷を奥は高く端は低くして、大きな妻戸をおつけになったわけは、お車の装備をそのまま置いておかれて、もし急な用事の折には、すぐに戸を押し開けば、からからと人の手が触れないうちに出せるようにという用意だと、面白くお思いになったことなのですよ。ご調度などの美しさは何ともいえませんでした。六の宮(昭登親王か)が危篤におなりになったときの御誦経の布施にされた御硯箱を拝見しました。
海賦(かいぶ)の模様に蓬萊山や手長・足長などを金で蒔かせなさったもので、これほどの箱の漆の具合や、蒔絵のありさま、配置の様子などがたいそうすばらしかったのです。また庭の木立をお造らせになったときは、「桜の花は優雅だが、枝ぶりがごつごつしていて、根元の様子なども憎らしい。梢だけを見るのが趣がある」と言って、中門の外にお植えになったのは、何よりもよくお思いつきになったものだと、人は感心申し上げました。また撫子の種を築地の上にお蒔かせになったので、思いがけず四方に色とりどりに、唐錦を引きかけたように咲いていたのなどをご覧になった方は、どんなにすばらしかったことでしょう。入道殿(道長)が競馬をなさった日に、院をお迎え申し上げなさいましたが、お渡りになる日のお支度は申すまでもなく、いいかげんなはずもありませんが、それにつけても本当にお車の様子こそ、また世に類がないほどでございました。
お沓に至るまで、ただ人の見物になるほどで、後にはそれを持ち歩いたと承りました。それにお絵をお描きになったさまに趣がありました。それは走る車の輪を薄墨でお塗りになって、大きさの程度などの目印には墨をぼかしておかれたもので、なるほどこう描くべきだったのです。あまりに速く走る車は、いつ輪の黒さがはっきり見えましょうか。また筍の皮を男の指先ごとにはめて、目を見開いて幼児をおどすと、顔を赤くしてひどくおびえている絵、また裕福な者と貧乏な者の家の中の様子などをお描きになったのが、どれもこれも、なるほどそうだったのだろうとばかり、驚くほどでございました。この中にもご覧になった方がいらっしゃるでしょう。