三十七 藤氏物語

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

一 内大臣鎌足の大臣は、藤原の姓を賜った年の十月十六日に亡くなられました。御年五十六。大臣の位にあること二十五年。この姓ができたのを聞いて、紀氏の人が「藤がからみついた木は枯れるものだ。今こそ紀氏は滅びてしまうだろう」とおっしゃったそうですが、本当にそのとおりになったようでございます。この鎌足の大臣がご病気になられたとき、昔はこの国に仏法が広まっておらず、僧などもたやすくはいなかったのでしょうか。聖徳太子がお伝えになったとはいえ――このごろでさえ、生まれた子どもも法華経を読むと申しますが、また読まない者もおりますよ――百済の国から渡ってきた尼に維摩経を供養させなさったところ、ご病気がすっかり治りましたので、その経をたいへん尊いものとなさったのがもとで、維摩会があるのです。

一 鎌足の大臣の次男、左大臣正一位不比等の大臣は、御年六十二、養老四年八月三日に亡くなられます。大臣の位にあること十三年。贈太政大臣になられました。元明天皇・元正天皇の御代の二代にわたって大臣でいらっしゃいました。

一 不比等の大臣の次男、房前の大臣は、参議であること二十年。大炊天皇(淳仁天皇)の御代、天平宝字四年庚子八月七日に贈太政大臣になられます。元正天皇・聖武天皇の二代、この間参議で、天平九年四月十七日に亡くなられました。

一 房前の大臣の四男、真楯大納言は、称徳天皇の御代、天平神護二年三月十六日に亡くなられました。御年五十二。贈太政大臣。公卿であること七年。(『年中行事』には十二日に亡くなられたとあります。)

一 真楯大納言の次男、右大臣従二位左近衛大将内麿の大臣は、御年五十七。公卿であること二十年、大臣の位にあること七年。贈従一位左大臣。桓武天皇・平城天皇の二代にお仕えになりました。

一 内麿の大臣の三男、冬嗣の大臣は右大臣までなられました。贈太政大臣。この殿から後のことはさまざまに明らかにしてきましたので、詳しくは申しますまい。

鎌足の御代から栄え広がりなさいましたが、ご子孫がしだいに亡くなられて、この冬嗣のころにはひどく心細くなっておられました。そのころは源氏ばかりがさまざまに大臣・公卿として大勢いらっしゃったのですが、この大臣が南円堂を建てて丈六の不空羂索観音をお据え申し上げなさいました。そしてすぐに福縁讃経一千巻を供養なさいました。今もその経が残っていて、藤原氏の人々はそれを取って守りとしていらっしゃいます。その仏と経の力でございましょう。また栄えて、帝の御後見が今も絶えません。ご子孫が(摂関を)なさるのはその供養の日からですよ。ほかの姓の上達部が大勢、その日のうちに亡くなられたので、本当だろうかと人々は申しているようです。(ある本には、源氏の大臣・公卿がその日のうちに十一人亡くなられたとあります。)

一 冬嗣の大臣の長男、長良中納言は、贈太政大臣までなられます。

一 長良の大臣の三男、基経の大臣は、太政大臣までなられます。

一 基経の大臣の四男、忠平の大臣は、太政大臣までなられます。

一 忠平の大臣の次男、師輔の大臣は、右大臣までなられます。

一 師輔右大臣の三男、兼家の大臣は、太政大臣までなられます。

一 兼家の大臣の五男、道長の大臣は、太政大臣までなられます。

一 道長の大臣の長男、ただ今の関白左大臣頼通の大臣が、この方でいらっしゃいます。この殿にお子がこれまでいらっしゃらなかったのはたいそうお気の毒でございましたが、この若君がお生まれになったのはまことにめでたいことです。母君のことは申さないものですが、この方はたいそう高貴でさえいらっしゃいます。故左兵衛督(源憲定)は人柄こそそれほど重んじられてはいらっしゃいませんでしたが、殿は貴い方でいらっしゃるうえに、またこのように世をにぎわす御孫がお生まれになったのは、亡き後にもたいそうよいことです。七夜のお祝いは入道殿がなさいましたが、そのとき贈られた歌、

「年をへてまちつる松のわか枝にうれしくあへる春のみどりご(何年も待っていた松の若枝のような、嬉しく巡り会えた春の嬰児よ)」。

帝・東宮を別にすれば、これこそ孫のご本家だということで、すぐに幼名を長君(おさぎみ)とおつけ申し上げなさいました。この四家の君たちは昔も今も大勢いらっしゃる中で、道が絶えずすぐれていらっしゃるのはこのとおりです。その鎌足の大臣がお生まれになったのは常陸の国なので、あちらの鹿島という所に氏の神をお祀り申し上げなさって、その御代から今に至るまで、新しい帝・后・大臣がお立ちになる折には幣帛の使いが必ず立ちます。帝が奈良にいらっしゃった時は、鹿島の神を大和国の三笠山にお移し申し上げて、春日明神とお名づけ申し上げ、今も藤原氏の氏神として、朝廷から男女の使いをお立てになり、后の宮やその氏の大臣・公卿が皆この明神にお仕え申し上げなさって、二月と十一月の上の申の日のお祭には、さまざまな使いが立って大騒ぎをします。帝がこの京にお移りになってからは、また近くにお移し申し上げて、大原野と申します。

二月の初卯の日、十一月の初子の日と定めて、年に二度のお祭があります。また同じく朝廷の使いが立ちます。藤原氏の殿方は皆この御神に幣帛と十列(とおつら)の馬を奉納なさいます。もっと近くにということで、またお移し申し上げて、吉田と申していらっしゃるようです。この吉田の明神は山蔭の中納言がお移し申し上げなさったのですよ。お祭の日を四月の後の子の日と十月の下の申の日とに定めて、「わが一族から帝や后の宮がお立ちになるならば、朝廷のお祭にしましょう」とお誓い申し上げていらっしゃったので、一条院の御代から朝廷のお祭になったのです。また鎌足の大臣の氏寺を大和国の多武峰にお造らせになって、そこにご遺骨を納められ、今も三昧(法華三昧)をお勤め申し上げていらっしゃいます。不比等の大臣は山階寺(興福寺)を建立させなさいました。それでその寺では藤原氏のために祈り申し上げるのですが、この寺ならびに多武峰・春日・大原野・吉田にいつもと違う怪異が起きると、寺の住僧や禰宜などが朝廷に奏上して、その時の藤原氏の長者殿が占わせなさり、お慎みになるべき年回りにあたる殿方のもとに、「御物忌」と書いて、一の所(摂関家)からお配らせになります。

だいたいあの寺から始まって、年に二、三度の法会が行われます。正月八日から十四日まで、八省院で奈良方の僧を講師として御斎会を行わせ、朝廷をはじめ藤原氏の殿方が皆お世話をなさいます。また三月七日から十三日まで薬師寺で最勝会を七日間、また山階寺で十月十日から維摩会を七日間、これらのたびに皆勅使が下向して衾(ふすま)を下賜します。藤原氏の殿方から五位の者まで(布施を)奉納なさいます。南都の法師はこの三会の講師をつとめると已講と名づけられ、その順序を作って律師や僧綱になります。ですからあの寺は威厳があって尊い所です。ひどい無理なことでも山階寺がかかわってくると、もう人は何とも言わず、「山階道理」と名づけて放っておきます。このように藤原氏のご様子は比類なくすばらしいのです。同じことのようですが、また続きを申し上げなくてはなりません。后の宮の御親で帝の御祖父となられた方々を明らかに申し上げようというのですから、ほかのことは申しますまい。

一 内大臣鎌足の大臣の御娘お二人は、すぐに二人とも天武天皇に差し上げなさいました。男女の皇子たちがいらっしゃいましたが、帝や東宮にはお立ちにならなかったようです。諱(いみな)はありません。

一 贈太政大臣不比等の大臣の御娘お二人のうち、お一方の御娘は文武天皇の御代の女御で、皇子がお生まれになりました。それを聖武天皇と申し上げます。御母を宮子の郎女(いらつめ)と申しました。もうお一方の御娘は、すぐに御甥の聖武天皇に差し上げて后にお立ちになります。これを光明皇后と申しました。このお腹に女皇子をお産み申し上げたのを、女帝にお立て申し上げなさったのです。高野の女帝と申し上げるのがこの方です。四十六代にあたられます。それが退位なさって、また帝お一人を隔てて、四十八代に再び位にお即きになったのです。(聖武の)母后を贈皇后と申し上げます。ですから不比等の大臣の御娘はお二人とも后でいらっしゃるようですが、(聖武の母は)贈皇后と申し上げたので、亡くなられた後に后の位におつきになったと見えます。そういうわけで不比等の大臣は光明皇后と贈皇后宮の御父、聖武天皇ならびに高野の女帝の御祖父でいらっしゃいます。

(ある本には、また高野の女帝の御母后は生きていらっしゃるうちに后にお立ちになって、その御名を光明皇后と申し上げるとあります。聖武の御母もご存命中に后となられたので、贈后とはお見えにならない、とあります。)

一 贈太政大臣冬嗣の大臣は、太皇太后順子の御父、文徳天皇の御祖父。

一 太政大臣良房の大臣は、皇太后宮明子の御父、清和天皇の御祖父。

一 贈太政大臣長良の大臣は、皇太后宮高子の御父、陽成院の御祖父。

一 贈太政大臣総継の大臣は、贈皇后宮沢子の御父、光孝天皇の御祖父。

一 内大臣高藤の大臣は、皇太后胤子の御父、醍醐天皇の御祖父。

一 太政大臣基経の大臣は、皇后宮穏子の御父、朱雀天皇ならびに村上帝二代の御祖父。

一 右大臣師輔の大臣は、皇后宮安子の御父、冷泉院ならびに円融院の御祖父。

一 太政大臣伊尹の大臣は、贈皇后宮懐子の御父、花山院の御祖父。

一 太政大臣兼家の大臣は、皇太后宮詮子ならびに贈后(超子)の御父、一条天皇ならびに三条天皇の御祖父。

一 太政大臣道長の大臣は、太皇太后宮彰子(上東門院)、皇太后宮妍子、中宮威子、尚侍嬉子(東宮の御息所)の御父、当代(後一条)ならびに東宮の御祖父でいらっしゃいます。これらの方々の中で、后三人を並べてお据えになって拝見なさることは、入道殿のほかには聞こえないようです。関白左大臣・内大臣・大納言二人・中納言の御親でいらっしゃいます。さあどうです、皆さまお聞き集めください。日本国に唯一無二でいらっしゃいます。まずはお造らせになった御堂などのありさまですが、鎌足の大臣の多武峰、不比等の大臣の山階寺、基経の大臣の極楽寺、忠平の大臣の法性寺、九条殿(師輔)の楞厳院、聖武天皇がお造りになった東大寺も、仏だけは大きくいらっしゃるようですが、やはりこの無量寿院(法成寺)には並ばれません。ましてほかの寺々は言うまでもありません。大安寺は兜率天の一院を天竺の祇園精舎に移して造ったものです。

天竺の祇園精舎を唐土の西明寺に写して造り、唐土の西明寺の一院を、この国の帝が大安寺に移させなさったのです。それでもただ今はこの無量寿院がまさっていらっしゃいます。南都の数多い寺々も、やはり匹敵するものはありません。恒徳公(為光)の法住寺はたいそう立派ですが、やはりこの無量寿院がすぐれていらっしゃいます。難波の天王寺など、聖徳太子が心を込めてお造りになりましたが、やはりこの無量寿院がまさっていらっしゃいます。奈良の七大寺・十五大寺などを見比べても、やはりこの無量寿院がたいそうすばらしく、極楽浄土がこの世に現れたと見えます。ですからこの無量寿院のことを思いますと、心に願っておられたこともございましたのでしょう。浄妙寺は、東三条殿(兼家)が大臣になられたお礼参りに木幡へ参られた折、お供に入道殿をお連れになってご覧になると、多くの先祖のご遺骨がいらっしゃるのに鐘の声もお聞きにならないのはたいそうつらいことだ、

わが身が思うようになったなら三昧堂を建てよう、と心の中でお思い立ちになったのだと承っております。昔もこうしたことは多くございましたが、その中で極楽寺と法性寺はすばらしゅうございますよ。お年などが大人になっていらっしゃってさえ思い立たれるのは並々でないと思われますのに――どの御代のこととは確かには聞いておりません。ただ深草の帝(仁明天皇)のころでしょうかと推し量られます――芹川への行幸をなさったときに、昭宣公(基経)が童殿上としてお仕えしていらっしゃいました。帝は琴をお弾きになりました。この琴を弾く人は、特別な爪を作って指に差し入れて弾くことになっておりました。さてそれをお持ちになっていたのを落とされて、たいへんなことにお思いになりましたが、また作らせなさるすべもなかったので、そうなるべき因縁でお思いつきになったのでしょう、年長の人々にもお命じにならず、幼くいらっしゃる君(基経)にかぎって「探して参れ」とおっしゃったので、お馬を引き返していらっしゃいましたが、どこを目当てにしてどうしてお探しになれましょう。

見つけて差し上げられなかったらたいへんだとお思いになったので、これを探し出せた所には一つの伽藍を建てようとお願いになって、お探しになったところ見つかった場所なのですよ、極楽寺は。幼いお心でどうしてお思いつきになったのでしょう。そうなるべき因縁で御爪も落ち、幼くいらっしゃる方にもお命じになったのでございましょう。さて高貴な身分におなりになって、御堂を建てにいらっしゃるお車に、貞信公(忠平)がたいそう幼くてお供していらっしゃいましたが、法性寺の前をお通りになるときに、父君に「こここそよいお堂の場所のようです。ここにお建てなさいませ」と申し上げなさったので、どう見てそう言うのだろうと思われて、身を乗り出してご覧になると、本当にたいそうよく見えたので、幼い目でどうしてこう見たのだろう、そうなるべき因縁なのだろうとお思いになって、「なるほどたいそうよい所のようだ。

おまえがお堂を建てなさい。わたしはこれこれのことがあったので、そこに建てるつもりだ」とおっしゃいました。そうして法性寺は建てられたのです。また九条殿の飯室のことなどはどうでしょう。横川の大僧正(尋禅)の御房にお上りになったお供には、繁樹も参っておりました。このようなことどもが聞こえておりますが、やはりこの入道殿は世にすぐれ抜け出ていらっしゃいます。天地に受け入れられていらっしゃるのは、この殿でいらっしゃいます。何事かをなさる折には、ひどい大風が吹き長雨が降っていても、まず二、三日前から空が晴れて地面が乾くようです。ですから、ある人は聖徳太子の生まれ変わりだと申します。ある人は弘法大師が仏法興隆のためにお生まれになったのだとも申すようです。本当に、翁どもの意地の悪い目にもただ人とはお見えにならないようです。やはり仏の化身でいらっしゃるのだと仰ぎ見申し上げております。ですからこの御代の楽しいことは限りがありません。

そのわけは、昔は殿方や宮方の馬飼い・牛飼いが、何の御霊会や祭の費用だといって銭・紙・米などをせびって騒ぎ、野山の草木までも刈り取らせたではありませんか。仕丁や御膳持ちが出てきて人の物を奪い取ることもなくなりました。また里の刀禰(とね)や村の役人が出てきて、火祭だの何だのと面倒に責め立てたことも、今は聞きません。これほど安穏で泰平な時に巡り会えようかと思うと、翁どもの卑しい住まいでも帯紐を解いて、門さえ閉めずに安らかに伸び伸びと寝ていられるので、年も若返り命も延びるのですよ。まずは北の方の賀茂の河原に作っている、野豆・ささげ・瓜・茄子というもの、ひところはまったくどうしようもなかったものですが、この数年はたいそう楽しみです。人が盗らないのはもちろんのこと、馬や牛さえ食べません。ですからただ放っておいてあるのですよ。こんなに楽しい弥勒の世に巡り会ったのですなあ』と言うようなので、もう一人の翁が『ただ今はこの御堂の人夫をしきりにお召しになることを、人は耐えがたそうに申しているようですが、それはお聞きになりませんか』と言うようなので、世継は「そうそう、そのことがあります。

二、三日おきにお召しになるのですよ。けれどもそれを務めるのは悪くありません。そのわけは、極楽浄土が新たに現れ出なさるためにお召しになるのだと思いますので、何とか力が続くなら参ってお仕えしたいものです。行く末にはこの御堂の草木になりたいものだとさえ思っております。ですから物の道理のわかった人は望んででも参るべきです。それで翁どもはまだ一度も欠かさずにお務めしております。さて参ってみると悪いことがありましょうか。飯や酒をたびたびくださり、持って参る果物までも恵んでくださり、いつもお仕えする者には衣装までもくださるようにさせていらっしゃいます。ですから参る下人もたいそう張り切って、進んで集まるようです』と言うと、『そうそう、それはもっともでございます。ただし翁が思いついておりますことは、たいそう頼もしいのです。翁はまだこの世におりますが、衣装が破れて困る目にも遭いませんし、また飯や酒に事欠く目にも遭いません。もしこれらがどうにもならなくなった時には、紙を三枚求めるつもりです。

そのわけは、入道殿下の御前に申文を差し上げようというのです。その文に書くべきことは、『翁は故太政大臣貞信公殿下の御代の小舎人童です。それが多くの年が積もって、どうにもならなくなっております。閣下はその君の末の家のお子でいらっしゃいますので、同じ君と頼み仰ぎ申し上げます。物を少しお恵みくださいませ』と申したなら、少々の物はくださらないことがあろうかと思うので、それがあるものとして倉に置いてあるかのように思っております』と言うと、世継は『それは本当にもっともなことです。家が貧しくなった折には御寺(法成寺)に申文を差し上げさせようと、卑しい女房と話し合っております』と同じ心で言い交わします。『それにしても嬉しく対面したことですな。長年の袋の口を開けて、ほころびを断ち切ったような気がします。ところで、この評判の無量寿院には何度参って拝み申し上げなさいましたか』と言うと、『わたしは大御堂の供養の年の法会の日は、人をひどく追い払うだろうと聞いたので、試楽ということを三日前になさったときに参りました』と言うと、世継は『わたしはたびたび参りました。

供養の日のありさまのすばらしさは言うまでもありませんよ。次の日、今日は御仏なども近くで拝み申し上げよう、品々が片づけられる前にと思って参りましたところ、宮たちが諸堂を拝みなさるのを拝見したことこそ、こういうことに巡り会うために今まで生きてきたのだと思われました。物心ついてから、そんなことはまだ見たことがありません。一台の御手車に四人がお乗りになったのですよ。前の方には大宮(彰子)と皇太后宮(妍子)が、御袖だけを少し出していらっしゃいましたが、枇杷殿の宮(妍子)の御髪が地面にたいそう長く引かれてお出になったのは、たいそう珍しいことでしたなあ。後ろの方には中宮(威子)と尚侍の殿(嬉子)がお乗りになって、ただお身体だけがお車にいらっしゃるようで、御衣どもは皆そのまま外に出て、それも地面まで引かれておりました。一品の宮(禎子)も中にお乗りになっていたのでしょうか、御衣どもはだれそれの主がお持ちになって、お車の後ろに控えていらっしゃいました。

単衣の御衣だけをお召しになっていらっしゃったようです。お車は公達がお引きになり、後ろには関白殿をはじめとして、殿方やそのほかの上達部・殿上人が直衣姿で歩いてお供なさいました。いやもう、すばらしいことでした。中宮権大夫殿(能信)だけは堅い物忌で参られませんでした。それでたいそう残念がっていらっしゃったそうです。中宮のご装束は権大夫殿がご用意なさいました。たいそう美しく見えました。供養の日、申し上げるべきことがあって、いらっしゃる所に参って、五人が居並んでいらっしゃったのを拝見したところ、『中宮の御衣が優美に見えたのは、わたしが用意したからだろうか』と大夫殿はおっしゃったそうです。こうして口ばかり利口ぶっておりますが、身分の低い者の悲しさは、どの御衣も時がたったので色合いをすっかり忘れてしまいましたよ。特にすばらしくご用意なさったからでしょうか、下は紅の薄物の御単衣襲でしたか、御袿はよく覚えておりません。

萩の織物の三重襲の御唐衣に秋の野を刺繍して、絵にも描いたような綾だと、目を見張って拝見しました。ほかの宮々のものも、殿方がご用意して差し上げなさったのだと人は申しました。大宮のものは二重織物を織り重ねてありました。皇太后宮のものはすべて唐装束で、尚侍の殿のものは殿がご用意なさいました。ほかの方々のものも絵を描いたりしてあるとお聞きになって、急に箔押しなどをなさったので、入道殿はご覧になって「よい咒師(じゅし)の装束だな」とお笑いになったそうです。殿はまず御堂の一つ一つを開けながらお待ち申し上げなさいます。南大門のあたりで拝見していてさえ思わずほほえまれましたが、御堂の渡殿の間から、一品の宮の弁の乳母、もう一人はそれも一品の宮の大輔の乳母、中将の乳母とか、三人だと承りました。(宮たちが)お車からお下りになって、膝行しながらお進みになるのを拝見なさったのですよ。

恐ろしさに震えましたが、今日ほどのことがまたあろうかと思って拝見すると、どうしてと申しながらも、どなたがどうと申し上げようもなく、それぞれにすばらしくいらっしゃいます。大宮の御髪は御衣の裾にあまるほどでした。中宮は御背丈に少しあまるほどでしょうか。御扇をたいそう近くかざして隠していらっしゃいます。皇太后宮は御衣の裾に一尺ほどあまっていらっしゃる御髪の裾が扇のようでした。尚侍の殿は御背丈に七、八寸あまっていらっしゃいました。皇太后宮は御扇を少しずらしてかざしていらっしゃいました。一品の宮は(入道殿が)「殿の御前、何を膝行なさいますか。お立ちなさい」と言って、長押をのぼり上がりなさる御手を取って、お助け申し上げなさいます。あまりのことに目も驚く思いがなさいました。人目につかないように引きふさいで取りつくろっていらっしゃるうちに、(入道殿に)見つけられてしまったではありませんか。

ああたいへん、宮仕えの運が尽きる日だったと、生きた心地もせずに三人とも控えていらっしゃると、「宮たちを拝見したか。どうでいらっしゃったか。この老法師の娘たちとしては、悪くはいらっしゃらないな。見くびるなよ」とほほえんで声をおかけになって、ひどくはふさがせもなさらずにいらっしゃったので、生き返った心地がして、嬉しいなどとは言いようもなく、互いに見ると、顔はたっぷり化粧していたのに草の葉の色のようで、また赤くなり、さまざまに汗みずくになって見交わしました。そうでない人でさえ、ふざけたのぞき見はたいそう不都合なこととするのに、(入道殿は)よほどすばらしくお思いになったので、お喜びに堪えきれず、また自慢にお思いになったのだろうと思うにつけても、(殿の)お心が劣って見えることだ」とおっしゃり合っていらっしゃったそうです。

こうしたことどもをご覧になるにつけては、たいそうこの世の栄華のお栄えばかりが思われて、染みつく心がますます起こって道心がつきそうもございませんが、河内の国のどこそこに住むだれそれという聖は、庵から出ることもなさらないのに、後世の責めを思えばということで上京して参りましたところ、関白殿が参られて雑人どもを大声で追い払うので、この方こそ第一の人でいらっしゃるのだろうと拝見していると、入道殿の御前にお座りになるので、やはり(入道殿が)まさっていらっしゃるのだと拝見しているうちに、また行幸があって乱声(らんじょう)を奏し、お待ち受け申し上げなさるさまや、御輿がお入りになるときなど、拝見していた殿たちがかしこまり申し上げなさるので、やはり国王こそ日本第一なのだと思っていると、(帝が)お下りになって阿弥陀堂の中尊の御前にひざまずいて拝み申し上げなさったので、やはりやはり仏こそこの上なくいらっしゃるのだと、この法会の庭でありがたく結縁申し上げて、道心がいっそう熟しました、と申されました。

(その聖は)そばに座っていらっしゃったのです。いやいや、本当に忘れておりました。世の中の人が申すには、「大宮が出家なさって、太上天皇の御位におなりになって、女院と申し上げることになる。この御寺に戒壇が立てられて御受戒があるはずなので、世の中の尼たちも参って受戒するはずだ」と言って喜んでいるそうです。この世継の女房どももこういうことを伝え聞いて申すには、「わたしもその折にせめて白髪の裾を切り捨てよう(尼になろう)と思います。どうして止めたりなさいましょう」と話しますので、「どうして止めたりしようか。ただしそうなった後には、若い妻を探して得るばかりだ」と言いますと、「わたしの姪にあたる女が一人います。それを今から話をつけておきましょう。まったく縁のない人では情けないことです。近くても遠くても、わが身にとっていいかげんな人を今さら引き寄せたりできましょうか」と話し合っております。

「そろそろ衣や袈裟などの用意に、よい絹を一、二疋求めているのです」などと言って、さすがにどうしたことか、もの悲しげな様子が出てくるのは、女房たちに背かれる(出家される)ことが心細いからだろうと見えました。さて今年こそは天変がしきりに起こり、世の不吉な噂などもよくなく聞こえるようです。尚侍の殿がこのようにご懐妊なさり、院の女御殿(寛子)がいつものご病気の中でも今年になってからは絶え間なくいらっしゃるなどと、恐ろしく承っております。いやもう、こうしたことを思い続けて申しますと、昔のことがただ今のように思われます』などと見交わして、繁樹が言うには、『いやもう、しみじみと、このようにさまざまなすばらしいことどもを、しみじみと数多く見聞きいたしましたが、やはりわが宝の君(忠平)に先立たれ申し上げた折ほど物悲しく思われる折はございません。八月十日すぎのことでございましたので、季節までもしみじみとして、時もあろうに(秋に)と思ったものですよ』と言って何度も鼻をかんで、言葉も続けられずにひどく悲しいと思っている様子は、本当にその折もこうだったのだろうと見えました。

『一日片時も生きて世に永らえる気もいたしませんでしたが、こうしてまでお仕えしておりますのは、いよいよ広がり栄えていらっしゃるのを拝見してお喜び申し上げようというためでございます。さてまた翌年の五月二十四日に冷泉院がお生まれになりました。それにつけても、いっそう残念な折の嬉しさで、(忠平公が)これほどの(ご誕生の)時までもいらっしゃらなかったことよ』と言うと、世継は『そうそう』と気持ちよさそうに思っている様子は並々ではありません。「朱雀院や村上などが続いてお生まれになったのは、またどうだったか」などと言うのは、あまりに恐れ多いことです。「また世継が思っていることがございます。不都合なことですが、明日をも知らない身でございますので、ただ申し上げてしまいましょう。この一品の宮(禎子)のご様子が知りたく思われますので、また命が惜しゅうございます。そのわけは、お生まれになろうとするときに、たいそうおそれ多い夢を見たのです。そう思われましたのは、故女院(詮子)やこの大宮(彰子)などがお宿りになろうとするときに見えた夢と、まったく同じような夢でございました。

それによってすべてが推し量られるご様子です。皇太后宮の宮(妍子)に何とかして申し上げたいと思っておりますが、その宮のあたりの人に会えないのが残念で、ここに大勢お集まりになっている中に、もしかしたらいらっしゃるかもしれないと思いまして、一方ではこうして申し上げているのです。行く末に、よく言ったものだと思い当たられることもございましょう』と言った折こそ、ここにいますと名乗り出たくなりました。

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