まことにあきれるほど珍しいことを尽きることなく二人で語り合っていると、この侍が『たいそう興味深いことを承りますなあ。それにしても、物心ついた初めは何のことでしたか。それこそまず聞きたいものです。お話しください』と言うので、世継は『六、七歳のころから見聞きしたことはよく覚えておりますが、たいしたことでもないことは証拠がないので信じる人もございますまい。九つでございました時の大事件を申し上げましょう。小松の帝(光孝天皇)がまだ親王でいらっしゃった時の御所は、だれもが知っております。わたしの親がおりました所は、大炊御門よりは北、町尻よりは西でございました。それで宮のそばだったので、いつも参って遊んでおりましたが、たいそうひっそりとしていらっしゃいました。二月の三日は初午で、しかも甲午の最上の吉日なので、いつもより世の中こぞって稲荷詣でに大騒ぎをしておりましたから、父が参詣しましたお供についてまいりましたが、何と申しても幼いころで険しい坂を登りましたので、疲れてその日のうちに帰ることができませんでした。父がそのお社の禰宜の大夫の世話をしておりましたので、たいそう立派だった宿に立ち寄って一晩泊まり、翌日帰りましたところ、東洞院を上ってまいりますと、大炊御門から西の方へ人々がさっさっと走るので、怪しく思って見ますと、ちょうどわが家のあたりに、ひどく暗くなるほど人が立て込んで見えるので、いっそう驚いて、もしや火事かと思って上を見上げても煙も立っておりません。
それでは大きな追捕(捕り物)だろうかと、あれこれ正気もなくなるほどうろたえて行きますと、小野宮のあたりで上達部のお車や鞍を置いた馬ども、冠や袍などを着た人々などが見えましたので、わけがわからず怪しく思って、「何事か、何事か」と人ごとに尋ねますと、「式部卿の宮(時康親王)が帝の位にお即きになるというので、大殿(基経)をはじめとして皆が参られたのだ」と言って急いで行ったことなどが、物心ついてからのことでございます。また七つほどでしたか、元慶六年ごろでございましたでしょうか、式部卿の宮の侍従と申し上げた寛平の天皇(宇多天皇)は、いつも狩をお好みになっていて、十一月の二十日あまりのころでしたか、式部卿の宮のお屋敷から鷹狩にお出かけになったお供に走って参りました。賀茂の堤のどこそこという所で侍従殿が鷹をお使いになって、たいそう興に入っていらっしゃるうちに、にわかに霧が立って、あたり一面が真っ暗になって東西もわからず、日が暮れてしまったのかと思われて、藪の中に倒れ伏して震えうろたえておりますうちに、一時(いっとき)の半分ほどでございましたでしょうか、後に承りますと、賀茂の明神が現れなさって、侍従殿にお告げを申されていた間だったのです。
そのことは世に日記として書き残されておりますので、かえって申し上げますまい。ご存じでしょう。軽々しく申し上げるべきことでもございません。さてその後六年ほどたって賀茂の臨時の祭が始まったのでしょうか、(宇多天皇が)位にお即きになった年だと覚えております。その日が酉の日でございましたので、そのまま十一月の末の酉の日になっているのですよ。初めての東遊(あずまあそび)の歌は、敏行の中将(藤原敏行)が詠んだのですよ。
「ちはやぶる賀茂のやしろの姫小松よろづ代までもいろはかはらじ(賀茂の社の姫小松は、万代までもその色が変わることはあるまい)」。
古今集に入っております。皆さまご存じのことですが、見事に詠んだ方ですなあ。今も絶えず広まっております。ご子孫には、帝と申し上げてもこれほどの方がいらっしゃいましょうか。八幡の臨時の祭は朱雀院の御代からですよ。朱雀院がお生まれになって三年は、御殿の御格子もお上げせず、夜も昼も灯をともして御帳台の内でお育て申し上げなさいました。北野(菅原道真の怨霊)を恐れ申し上げなさったのでした。天暦の帝(村上天皇)はそれほどまでにお守り申し上げなさらなかったのに、(朱雀院は)たいへんな時期にお生まれになったのですよ。朱雀院がお生まれにならなかったら、藤原氏の栄えもとてもこうではなかったでしょう。さて位にお即きになって将門の乱が起こり、そのご祈願で(八幡の臨時の祭が始まった)と承りました。その東遊の歌は貫之の主ですよ、家集にも書いてあります。
「松もおひまたもこけむすいは清水ゆくすゑとほくつかへまつらむ(松も生え、また苔も生す岩清水のように、行く末遠くお仕え申し上げよう)』」
と言うと、また繁樹が『この翁もその方が申されたようにくどくどしいことは申しますまい。同じことのようですが、寛平・延喜などのご譲位のころのことなどは、たいそうはっきりと確かに覚えておりますよ。伊勢の君が弘徽殿の壁に書きつけなさった歌こそ、当時しみじみとしたことだと人は申しました。
「わかるれどあひも思はぬもゝしきを見ざらむことのなにか悲しき(お別れしても、こちらを思ってもくれない宮中を、もう見ないことがどうして悲しいでしょう)」。
法皇(宇多)のご返歌、
「身一つのあらぬばかりをおしなべてゆき帰りてもなどかみざらむ(わたしの身一つがいなくなるだけのことで、行き来してどうして見ないことがあろうか)』」
と言うと、そばにいる人が『法皇がお書きになったのを、延喜の帝(醍醐)が後にご覧になって、そばに書きつけなさったとも承りますが、どちらが本当なのでしょう。同じ帝と申し上げても、その御代に生まれ合わせました者は、卑しい民のかまどまで貴いものでございました。ひどく寒いころ、雪がたくさん降って冷え込んだ夜は、「諸国の民百姓はどんなに寒いだろう」と言って、御衣を夜の御殿から投げ出しなさったので、わたしどもまでもお恵みをいただいた身だと誇らしく思います。ですからその御代に拝見したことは、やはり後々までもすばらしいことだと思われますよ。皆さまお聞きください。この座で申すのははばかりのあることですが、一つには若うございましたころ、すばらしいと身にしみて思いました罪も今まで消えておりますまい。今日この伽藍で懺悔申し上げようというのです。六条式部卿の宮(敦実親王)と申し上げた方は、延喜の帝と同じ母のご兄弟でいらっしゃいます。
(延喜の帝が)野の行幸をなさったとき、この宮がお供なさるはずでしたが、京で遅参なさったので桂の里で追いつかれたところ、御輿を止めて先に立たせなさいましたが、だれそれといった犬飼いが、犬の前足を二本とも肩に引っかけて深い川の瀬を渡ったのには、行幸にお供していた人々が皆面白がらない人はなく、帝も面白そうにお思いになっているご様子に見えました。さて山の入り口にお入りになったころ、白鷹(しらぜう)という御鷹が鳥を捕らえたまま御輿の鳳凰の上に飛んで来て止まりました。しだいに日が山の端に沈みかけて光がたいそう差して、山の紅葉が錦を張ったようなところに、鷹の色はたいそう白く、雉は紺青のようで、羽を広げて止まっていたところは、本当に雪も少し散って、折も折とてすべてがそろって、あんなことがほかにございましたでしょうか。
身にしみるほど思いましたので、どれほど罪を得たことでしょう』と言って、爪弾きをぱちぱちとします。『だいたい延喜の帝はいつもほほえんでいらっしゃいました。そのわけは、「まじめくさった人には物が言いにくい。打ち解けた様子につけてこそ人は物を言いやすい。だから大小のことを聞くためなのだ」とおっしゃったそうです。それはもっともなことです。無愛想な顔には話しかけにくいものです。さて「わたしは何とかして七月や九月には死ぬまい。相撲の節会や九日の節会が中止になるのが残念だから」とおっしゃっていましたが、九月にお亡くなりになって、九日の節会はそれから中止になったのです。その日、左衛門の陣の前で御鷹どもが放たれたのは、しみじみとしたものでしたなあ。すぐには飛び去りませんでした。公忠の弁を、だいたいのことにつけても大切な者とお思いになっていた中でも、鷹のことではたいそう面白がっていらっしゃいました。
毎日政務を勤められて、馬をどこかに立てておかれて、仕事が終わるとすぐに中山(の狩場)へ行かれたものです。太政官の弁官の曹司の壁には、その殿の鷹の糞がまだついておりましょう。久世の鳥と交野の鳥の味を食べ分けられました。ある人たちは「でたらめをおっしゃるのだろう。お試し申し上げよう」と言って、こっそり二か所の鳥を料理して混ぜ、印をつけて差し上げたところ、少しも取り違えず、「これは久世の、これは交野のだ」と食べ分けられたそうです。こうしたことなので、「ひたすらの鷹飼いでございます者が殿上に控えておりますのは見苦しいことです」と延喜の帝に奏上する人がいらっしゃいましたが、「公事をおろそかにして狩ばかりしているのなら罪もあろう。一度も政務を欠かさず、公事をすべて勤めて、その後でどうしようと何の問題があろうか」とおっしゃったそうです。
いやまた、すばらしゅうございましたことは、やはり同じ帝の大井川への行幸に、富小路の御息所のお腹の皇子が七歳で舞をなさったことほどのことはございませんでした。だれ一人涙を流さない人はおりませんでした。あまりにお顔立ちが光るようでいらっしゃったので、山の神が愛でてお取りになってしまったのですよ。その御代にはたいそう面白いことが多くございましたよ。さて、すべてを申し尽くすことはできません。まず申し上げるべきことも、ただ思い出すままにとりとめもなく申しましょう。法皇(宇多)があちこちを修行して巡られて、宮滝をご覧になったときはすばらしゅうございました。その折に菅原の大臣がお詠みになった和歌、
「水ひきのしら糸はへておるはたはたびのころもにたちやかさねむ(滝の白糸を経糸に張って織る布は、旅の衣に裁って重ねようか)」。
大井への御幸もございましたよ。さて(ここは帝の)行幸もあってしかるべき所だと(法皇が)おっしゃいました。そのことを奏上しようというので、小一条の太政大臣(忠平)がですよ、
「をぐら山もみぢの色もこゝろあらば今ひとたびのみゆきまたなむ(小倉山の紅葉の色よ、心があるなら、もう一度の行幸を〈散らずに〉待っていてほしい)」。
ああ、優雅なものでございましたなあ。さて行幸で多くの題を賜って和歌をお詠み申し上げた中に、「猿、山の峡に叫ぶ」という題を、躬恒が、
「わびしらにましらな鳴きそ足曳の山のかひある今日にやはあらぬ(悲しげに猿よ鳴くな。山の峡〈かい〉の名のとおり、甲斐〈かい〉のある今日ではないか)」。
その日の序文は貫之の主がお書きしました。朱雀院は(性格が)優しくていらっしゃると言われていらっしゃいましたが、将門の乱などが起こって、恐れてお過ごしになっているうちに、そのまま位をお譲りになってしまったのですよ。そのころの事の次第はたいそう不思議でございました。(朱雀院が)母后(穏子)のもとに行幸なさったところ、(母后が)このようなご様子が思いどおりにすばらしく嬉しいことなどを申し上げなさって、「今は東宮(村上)がこうしていらっしゃるのを拝見したいものです」と申し上げなさったので、(朱雀院は)「待ち遠しく急いでお思いになっていることだったのだ」と思われて、ほどなくお譲り申し上げなさったところ、后の宮は「そう思って申し上げたのではなかったのに。ただ行く末のことを思っただけでしたのに」と言ってひどくお泣きになりました。さて退位なさった後、人々が嘆いているのをご覧になって、院から后の宮に申し上げなさった歌、譲位の日、
「日のひかりいでそふ今日のしぐるゝはいづれのかたの山辺なるらむ(日の光〈新帝〉が出て輝きを添える今日、時雨が降っているのはどちらの方の山辺なのでしょう)」。
后の宮のご返歌、
「しらくものおりゐるかたやしぐるらむおなじみ山のひかりながらに(白雲が下りている方〈退位した院〉が時雨れているのでしょう。同じ御山の光を受けていながら)」などと申し上げたと聞いております。院は数か月、綾綺殿にいらっしゃいました。後には少し後悔なさることがあって、位に返り即かれるご祈祷などをなさったというのは本当でしょうか。お心のたいそう優雅でいらっしゃった方で、ご病気が重くおなりになって、太皇太后宮(昌子内親王)が幼くていらっしゃるのをご覧になって、ひどく涙をお流しになって、
「くれ竹のわが世はことになりぬともねはたえせずぞなほなかるべき(わたしの世はすっかり変わってしまっても、声をあげて泣くことは絶えず、なお泣き続けることだろう)」。
まことに悲しくしみじみと承りました。村上の帝はまた申すまでもありません。親しみやすく優雅な点では延喜の帝にもまさっていらっしゃると人は申していたようです。「わたしを人はどう言っているか」と人にお尋ねになったところ、「寛大でいらっしゃると世間では申しております」と奏上したので、「それではほめているのだ。王が厳しくなったら世の人はどうして耐えられようか」とおっしゃったそうです。たいそう面白くしみじみとしましたことは、この天暦の御代に清涼殿の御前の梅の木が枯れたので、(代わりを)お探しになったとき、だれそれの主が蔵人でいらっしゃった時にそれを承って、「若い者どもには見分けられまい。おまえが探せ」とおっしゃったので、京中を歩き回りましたがございませんでした。西の京のどこそこにある家に、色濃く咲いている木で姿の美しいのがございましたのを掘り取ったところ、家の主人が「木にこれを結びつけて持って参れ」と言わせなさったので、何かわけがあるのだろうと思って持って参りましたところ、(帝が)「何だ」と言ってご覧になると、女の筆跡で書いてございましたのは、