一 內大臣鎌足大臣、藤原の姓賜はり給ひての年の十月十六日うせさせ給ひぬ。御年五十六。大臣の位にて廿五年。この姓の出でくるを聞きて紀の氏の人のいひける、「藤かゝりぬる木は枯れぬるものなり。今ぞ紀氏はうせなんずる」とぞの給ひてけるに、まことにこそしか侍るめれ。この鎌足のおとゞの病づき給へるに、むかしこの國に佛法ひろまらず、僧などはたやすく侍らずやありけむ。聖德太子の傳へ給ふといへども、この頃だに生れたるちごも法花經を讀むと申せども、また讀まぬも侍るぞかし。百濟の國より渡りたりける尼して維摩經供養したまへりけるに、御心ち一度にをこたり侍りければ、その經をいみじきものにし給ひけるまゝに維摩會は侍るなり。
一 鎌足の大臣の次郞、左大臣正一位不比等大臣、御年六十二、養老四年八月三日うせたまふ。大臣の位にて十三年。贈太政大臣にならせ給へり。元明天皇、元正天皇の御時二代大臣にておはしましき。
一 不比等大臣の次郞、房前大臣、宰相にて二十年。大炊天皇の御時、天平寶字四年庚子八月七日贈太政大臣になり給ふ。元正天皇、聖武天皇二代、この間宰相にて、天平九年四月十七日にうせ給ひにき。
一 房前のおとゞの四男、眞楯大納言、稱德天皇の御時、天平神護二年三月十六日にうせ給ひぬ。御年五十二。贈太政大臣。公卿にて七年。(年中行事、十二日うせ給ふとあり。)
一 眞楯大納言の御二郞、右大臣從二位左近衞大將內麿の大臣、御年五十七。公卿にて二十年、大臣の位にて七年。贈從一位左大臣。桓武天皇、平城天皇二代にあひ給へり。
一 內麿大臣の御三郞、冬嗣大臣は、右大臣までなり給へり。贈太政大臣。この殿よりつぎさまざまあかしたればこまかに申さじ。
鎌足の御代よりさかえひろごり給へり。御末々やうやううせ給ひて、この冬嗣のほどはむげに心ぼそくなり給へり。その程は源氏のみこそさまざま大臣公卿に多くおはせしに、このおとゞ南圓堂をたてゝ丈六のふくえんすゑ奉り給ふ。さてやがて福緣讃經一千卷供養し給へり。今にその經ありつゝ、藤氏の人々とりてまもりにしあひ給へり。その佛經の力にこそ侍るめれ。またさかえて御門の御後見今にたえず。すゑずゑせさせ給ふめるはその供養の日ぞかし。こと姓の上達部あまた、日のうちにうせ給ひにければ、誠にや人々申すめり。(或本に、源氏の內の大臣公卿日のうちに十一人うせ給ひにけりとあり。)
一 冬嗣大臣の御太郞、長良中納言は、贈太政大臣までなり給ふ。
一 長良大臣の御三郞、基經のおとゞは、太政大臣までなりたまふ。
一 基經大臣の御四郞、忠平のおとゞは、太政大臣までなたまりふ。
一 忠平大臣の御次郞、師輔大臣は、右大臣までなりたまふ。
一 師輔右大臣の御三郞、兼家大臣は、太政大臣までなり給ふ。
一 兼家大臣の御五郞、道長大臣は、太政大臣までなりたまふ。
一 道長大臣の御太郞、只今の關白左大臣賴通のおとゞ、これにおはします。この殿の御子の今までおはしまさゞりつるこそいとふびんに侍りつるを、この若君の生れさせ給へるいとかしこき事なり。母は申さぬことなれど、これはいとやんごとなくさへおはするこそ、故左兵衞督は人がらこそいとゞも思はれ給はざりしかども、殿あて人におはするに、又かく世をひゞかす御孫のいでおはしたる、なきあとにもいとよし。七夜の事は入道殿せさせ給へるにつかはしたる歌、
「年をへてまちつる松のわか枝にうれしくあへる春のみどりご」。
御門東宮をはなち奉りてはこれぞうまごの御さととてやがて御わらはなををさ君とつけ奉らせ給ふ。この四家の君たち、昔も今もあまたおはします中に、みちたえずすぐれ給へるはかくなり。その鎌足のおとゞ生れ給へるは常陸の國なれば、かしこの鹿島といふ所に氏の御神をすましめ奉り給ひて、その御世より今にいたるまで、あたらしき御門、后、大臣立ち給ふ折はみてぐら使必ずたつ。御門奈良におはしましゝ時は、鹿島祭とて大和國三笠山にふり奉りて、春日明神となづけ奉りて、今に藤氏の御氏神にて、おほやけ男女つかひたてさせ給ひ、后の宮その氏の大臣公卿皆この明神に仕うまつり給ひて二月十一月上の申日御祭にてなむさまざまの使立ちのゝしる。御門この京にうつらしめ給ひては、又近くふり奉りて大原野と申す。
きさらぎの初卯の日、霜月初子の日と定めて年に二度のまつりあり。又同じくおほやけの使たつ。藤氏の殿ばら皆この御神にみでくら十列奉り給ふ。なほも近くとて、又ふり奉りて吉田と申しておはしますめり。この吉田の明神は山陰の中納言のふりたて奉り給へるぞかし。御祭の日四月、後の子日と十月下の申日とを定めて我が御ぞうに御門后の宮たち給ふものならば、おほやけまつりになさむと誓ひ奉りて坐しましければ、一條院の御時よりおほやけまつりにはなりたるなり。又鎌足大臣の御氏寺、大和國多武峯に造らしめ給ひて、そこに御骨ををさめたまひて、今に三昧行ひ奉りたまふ。不比等大臣は山階寺を建立せしめ給へり。それによりかの寺には藤氏をいのり申すに、このみ寺ならびに多武峯、春日、大原野、吉田に例にたがひ怪して事出できぬれは、御寺の住僧禰宜等など、おほやけに奏し申して、その時藤原氏長者殿占なはしめ給ふに、御つゝしみあるべきは、年の當り給ふ殿ばらたちのもとに御物忌とかきて一の所よりくばらしめ給ふ。
大方かの寺よりはじまりて年に二三度會をおこなはる。正月八日より十四日まで八省にて奈良がたの僧を講師として御齋會行はしめ、おほやけより始め、藤氏の殿ばら皆かぐし給ふ。又三月七日よりはじめて十三日まで藥師寺にて最勝會七日、又山階寺にて十月十日より維摩會七日、皆これらの度に勅使下向してふすまつかはす。藤氏の殿ばらより五位まで奉り給ふ。南京法師は三會講師しつれば已講となづけてその次第をつくりて律師僧綱になる。かゝればかの御寺、いかめしくやんごとなき所なり。いみじき非道の事も山階寺にかゝりぬれば、又ともかくも人ものいはず、山しな道理とつけておきつ。かゝれば藤氏の御ありさまたぐひなくめでたし。おなじ事のやうなれど又つゞきを申すべきなり。后の宮の御おや、御門のおほぢとなり給へるたぐひをこそはあかし申さめとてこそ、さうをば申すべからず。
一 內大臣鎌足のおとゞの御女二所、やがて皆天武天皇に奉り給へり。をとこ女みこたちおはしけれど、御門東宮立たせ給はざめり。いみななし。
一 贈太政大臣不比等のおとゞの御女二所、一人の御女は文武天皇の時の女御。み子生れ給へり。其を聖武天皇と申す。御母をば宮子のいらつめと申しき。今一人の御女はやがて御甥の聖武天皇に奉りて后に立たせたまふ。これを光明皇后と申しき。この御腹に女御子をうみ奉り給へるを、女帝に立て奉り給へるなり。高野の女帝と申すこれなり。四十六代にあたり給ふ。それおり給へるに、又御門ひとりを隔てゝ又四十八代にかへりゐ給へるなり。母后を贈皇后と申す。しかれば不比等の大臣の御女二人ながら后におはしますめれど、高野女帝の御母后は贈皇后と申したるに、おはしまさぬよに后にゐ給へると見えたり。かるがゆゑに不比等大臣は光明皇后、又贈皇后宮の御父、聖武天皇ならびに高野女帝の御おほぢにおはします。
(或る本、又高野女帝の御母后生き給へる世に后に立ち給ひて其の御名を光明皇后と申すとなり。聖武の御母も坐しましゝ世に后となりて、贈后と見え給はず。)
一 贈太政大臣冬嗣のおとゞは、太皇太后順子の御父、文德天皇の皇祖父。
一 太政大臣良房のおとゞは、皇太后宮明子の御父、淸和天皇の御おほぢ。
一 贈太政大臣長良のおとゞは、皇太后宮高子の御父、陽成院の御祖父。
一 贈太政大臣總繼のおとゞは、贈皇后宮澤子の御父、光孝天皇の御おほぢ。
一 內大臣高藤のおとゞは、皇太后后胤子の御父、醍醐天皇の御祖父。
一 太政大臣基經のおとゞは、皇后宮穩子の御父、朱雀天皇幷に村上帝二代の御祖父。
一 右大臣師輔のおとゞは、皇后宮安子の御父、冷泉院幷に圓融院の御祖父。
一 太政大臣伊尹のおとゞは、贈皇后宮懷子の御父、花山院の御祖父。
一 太政大臣兼家のおとゞは、皇太后宮詮子幷に贈后の御父、一條天皇幷に三條天皇の祖父。
一 太政大臣道長のおとゞは太皇太后宮彰子上東門院、皇太后宮姸子、中宮威子、尙侍嬉子、春宮の御息所の御父、當代幷に春宮の御祖父に坐します。こゝらの御中に后三人並びすゑて見奉らせ給ふことは、入道殿より外に聞えさせ給はざめり。關白左大臣、內大臣、大納言二人、中納言の御親にておはします。さりや聞し召しあつめよ。日本國には唯一無二おはします。まづは造らしめ給へる御堂などのありさま、鎌足のおとゞの多武峰、不比等大臣の山階寺、基經のおとゞ極樂寺、忠平のおとゞの法性寺、九條殿の楞嚴院、あめのみかどの造り給へる東大寺も、佛ばかりこそはおほきにおはしますめれど、猶この無量壽院にはならび給はず。まして餘の寺々はいふべきにあらず。大安寺は都率天の一院を天竺の祗園精舍にうつしつくれり。
天竺の祗園精舍もろこしの西明寺に寫して造り、もろこし西明寺の一院をこの國の御門は大安寺にうつさしめ給へるなり。しかあれども唯今はこの無量壽院まさり給へり。南京のそこばく多かる寺ども猶あたり給ふなし。恆德公の法住寺いと猛なれど、猶この無量壽院すぐれ給へり。難波の天王寺など聖德太子御心に入れて造り給へれど、なほこの無量壽院まさり給へり。ならは七大寺十五大寺などを見くらぶるに、なほこの無量壽院いとめでたく、極樂淨土この世に顯れにけると見えたり。故にこの無量壽院を思ふに、おぼし願ずることも侍りけむ。淨妙寺は東三條殿、大臣になり給ひての御慶に木幡にまゐらせ給へり。御供に入道殿具し奉らせ給ひて御覽ずるに、多くの先祖の御骨おはするに、鐘の聲聞き給はぬいとうきことなり。
我が身おもふさまになりたらば三昧堂建てむと御心のうちに思しめしくはだてたりけるとこそはうけたまはれ。昔もかゝる事多く侍りけるなかに、極樂寺法性寺ぞいみじく侍るや。御年などもおとなびさせ給へるだにも、思しめしよるらむ程なべてならず覺え侍るに、いづれの御時とはたしかにえ聞き侍らず。唯深草の御程にやなとぞ思ひやられ侍り。芹川のみゆきせしめ給ひけるに、昭宣公童殿上にて仕うまつらせ給へりける。御門琴をあそばしける。この琴ひく人はべつのつめをつくりておよびにさし入れてぞ彈くことにて侍りし。さてもたせ給ひけるを落しおはしまして、大事におぼしめしけれど又造らせ給ふべきやうもなかりければ、さるべきにぞ思しめしよりけむ、おとなしき人々にも仰せられで、をさなくおはします君にしも、「もとめて參れ」と仰せられければ、御馬をうちかへしておはしましけれど、いづこをはかりともいかでかは尋ねさせ給はむ。
見出でゝ參らせざらむことのいみじう思しめされければ、これ求め出でたらむ所には一伽藍を建てむと願じおぼして、もとめさせ給ひけるにいできにたる所ぞかし、極樂寺は。をさなき御心にいかでか思しめしよらせ給ひけむ。さるべきに御爪もおち、をさなくおはします人にも仰せられけるにこそははべりけめ。さてやんごとなくならせ給ひて、御堂建てさせにおはします御車に貞信公はいとちひさくて具し奉り給へりけるに、法性寺の前わたり給ふとて、てゝごに、「こゝこそよき堂どころなめれ。こゝに建てさせ給へかし」ときこえさせ給ひけるに、いかに見てかくいふらむとおぼえて、さし出でゝ御覽ずれば、まことにいとよく見えければ、をさなきめにいかでかく見つらむ、さるべきにこそあらめと思しめして、「げにいとよき所なめり。
ましが堂をたてよ。われはしかじかの事のありしかば、そこに建てむずるぞ」と申させ給ひける。さて法性寺は建てさせ給ひしなり。また九條殿の飯室の事などはいかにぞ。橫川の大僧正御房にのぼらせ給ひし御供には繁樹もまゐりて侍りき。かうやうのことどもきこえ給ふれど、猶この入道殿世にすぐれ拔けいでさせ給へり。天地にうけられさせ給へるはこの殿こそおはしませ。何事も行はせ給ふをりに、いみじき大風吹きなが雨降れども、まづ二三日かねて空晴れ土かわくめり。かゝれば、或は聖德太子の生れ給へると申す。或は弘法大師の佛法興隆のために生れ給ふとも申すめり。げにそれは翁らがさがなめにもたゞ人とは見えさせ給はざめり。猶權者にこそおはしますめれとなむあふぎ見奉る。かゝればこの御世のたのしき事かぎりなし。
そのゆゑは、むかしは殿ばら宮はらの馬かひ牛かひ、何の御靈會祭のれうとて、錢紙米などこひのゝしりて野山の草木をだにやはからせし。仕丁おものもちいできて人のものとり奪ふこと絕えにけり。又さとのとね村の行事出できて、火祭やなにやとわづらはしくせめし事今は聞えず。かばかり安穩泰平なる時にはあひなむやと思ふは、翁らが卑しきやどりも帶紐をときて、門をだにさゝで、安らかにのび臥したれば年もわかく命も延びたるぞかし。まづは北のかた賀茂河原につくりたる、のゝまめ、さゝげ、うり、なすびといふもの、この中ごろは更に術なかりし者をや。この年ごろはいとこそたのしけれ。人のとらぬをばさる者にて馬牛だにぞはまぬ。されば唯まかせ捨てつゝ置きたるぞかし。かくたのしき彌勒の世にこそあひて侍れや』といふめれば、今ひとりの翁、『唯今はこの御堂の夫をしきりに召すことこそ人は堪へがたげに申すめれど、それはさは聞き給はぬか』といふめれば、世繼「しかしか、そのことぞある。
二三日まぜにめすぞかし。されどそれ奉るにあしからず。故は極樂淨土のあらたに顯れ出で給ふべきためにめすなりと思ひ侍れば、いかで力堪へば參りて仕うまつらむ。行く末にこの御堂の草木となりにしがなとこそ思ひ侍れ。さればものゝ心しりたる人は望みても參るべきなり。されば翁らまだあらしか一度かゝず奉り侍るなり。さて參りたればあしきことやはある。いひさけしげくたび、もてまゐるくだものをさへ惠みたび、常に仕うまつるものは衣裳をさへこそはたまひ行はしめ給へ。されば參る下人もいみじういそがしがりて、進み集ふめる』といへば、『しかそれさる事に侍り。但し翁が思ひえて侍るやうは、いとたのもしきなり。翁いまだ世に侍るに、衣裳やれむづかしきめ見侍らず、又いひ酒にともしきめ侍らず、もしこの事どもすぢなからむ時は、紙三枚をぞもとむべき。
故は入道殿下のお前に申文を奉るべきなり。その文につくるべきやうは、翁、故太政大臣貞信公の殿下の御時の小舍人童なり。それおほくの年つもりて、すぢなくなりにて侍り。閣下の君すゑの家の子におはしませば、おなじ君とたのみ仰ぎ奉る。物少し惠みたまはらむと申さむには、少々の物はたばじやはと思へば、それあるものにて倉におきたるが如くなむ思ひ侍る』といへば、世繼、『それはげにさる事なり。家貧しくならむをりはみ寺に申文奉らしめむとなむ、卑しきわらはべとうちかたらひ侍る』とおなじ心にいひかはす。『さてもさても嬉しく對面したるかな。年ごろの袋の口あけほころびをたち侍りぬることゝ、さてもこののゝしる無量壽院には、いくたび參りて拜み奉り給ひつ』といへば『おのれは大御堂供養の年の會の日は人いみじうはらふべかなりと聞きしかば、試樂といふ事三日かねてせしめ給ひしになむ參りて侍りし』といへば、世繼、『おのれはたびたび參り侍りぬ。
供養の日のありさまのめでたさはさらにもあらずや。又の日、今日は御佛など近くて拜み奉らむ、ものどもとりおかれぬ先にと思ひて、參りて侍りしに、宮たちの諸堂拜み奉らせ給ひし見申し侍りしこそ、かゝる事にあはむとて今まで生きたるなりけりと覺え侍りしか。物覺えて後、さる事をこそまだ見侍らね。御てぐるまに四所奉りしぞかし。口に大宮、皇太后宮、御袖ばかりをいさゝかさし出でさせ給ひて侍りしに、枇杷殿の宮の御ぐしの土にいと長くひかれさせ給ひていでさせ給へりしは、いと珍らかなりし事かな。しりの方には中宮、かんの殿奉りて、唯御身ばかり御車におはしますやうにて、御ぞども皆ながらいでゝ、それも土までこそ引かれ侍りしか。一品の宮も中に奉りたりけるにや、御ぞどもはなにがしのぬしのもち給ひて御車のしりにぞさふらはれし。
ひとへの御ぞばかりを奉りておはしますなめり。御車はまうち君達ひかれて、しりには關白殿をはじめ奉り、殿ばらさらぬ上達部殿上人、おほん直衣にて步みつかせ給へりし。いであないみじや。中宮權大夫殿のみぞ堅固の物忌にてまゐらせ給はざりし。さていみじく口をしがらせ給ひける。中宮の御裝束は權大夫殿せさせ給へりし。いと淸らにてこそ見え侍りしか。供養の日啓すべき事ありて、おはします所に參りて、いつところ居並ばせ給へりしを見奉りしかば「中宮の御ぞの優に見えしは我がしたればにや」とこそ大夫殿おほせられけれ。かく口ばかりさかしうたち侍れど、下﨟のつたなき事は、いづれの御ぞもほどへぬれば色どものふつと忘れ侍りにけるよ。殊にめでたくせさせ給へりければにや、下はくれなゐうす物の御ひとへがさねにや、御うはぎよくも覺え候はず。
萩の織物の三重がさねの御唐衣に秋の野を縫ひものし、繪にも書かれたる綾とぞ目もおどろきて見給へし。こと宮々のも殿ばらの調じて奉らせ給へりけるとぞ人申しゝ。大宮は二重織物おり重ねられて侍りし。皇太后は總じてから裝束、かんの殿のは殿よりこそはせさせ給へりしか。こと御方々のもゑかきなどせられたりと聞かせ給ひて、俄にはくおしなどせられたりければ、入道殿御らんじて、「よき咒師の裝束かな」とわらひ申させ給ひけり。殿はまづ御堂御堂あけつゝ待ち申させたまふ。南大門のほどにて見申すだにゑましくおぼえ侍りしに御堂渡殿のはざまより、一品の宮の辨の乳母、今一人はそれも一品の宮の大夫、輔の乳母、中將の乳母とかや、三人とぞ承りし。御くるまよりおりさせ給ひてゐざりつゝかけ給ひつるを見奉り給へるぞかし。
おそろしさにわなゝかれしかど、今日さばかりの事はありなむやとおもひて見まゐらするに、などてかはとて申しながら、いづれ聞えさすべくもなくとりどりにめでたくおはしまさふ。大宮の御ぐし御ぞの裾にあまらせ給へりし。中宮は御たけに少し餘らせ給ふにや。御扇をいと近くさしかくしておはします。皇太后宮は御ぞのすそに一尺ばかり餘らせ給へる御裾扇のやうにぞ。かんの殿、御たけに七八寸あまらせ給へり。皇太后宮は御扇少しのけてさしかくさせ給へりける。一品宮は「殿の御前なにかゐさうせ給ふ。立たせ給へ」とて長押のせり昇らせ給ふ御手をとらへつゝ、たすけ申させたまふ。あまりあまりなる事は目もおどろく心ちなむし給ひける。あらはならず引きふたぎなどつくろはせ給ひける程に、御覽じつけられたるものかは。
あないみじ、宮づかへに宿世のつくる日なりけりと、生けるこゝちもせで三人ながらさぶらひ給ひける程に、「宮だち見奉りつるか。いかゞおはしましつる。このおい法師のむすめだちには、けしうはあらずぞおはしますな。なあなづられそよ」とうちゑみて仰せられかけて痛うもふたがせ給はで坐しましたりしなむ、いき出でたる心ちして嬉しなどはいふべきやうもなく、かたみに見れば顏はそこらけさうじたりつれども、草の葉の色のやうにて又、赤くなりさまざまのやうに汗水になりて見かはしたり。さらぬ人だにあざれたるもののぞきは、いとびなきことにするを、せめてめでたう思しめされければ、御悅に堪へでまたわれと思し召しつるにこそと思ひなすも、心おとりなむする」とのたまひいまさうじける。
かうやうの事どもを見給ふまゝには、いとしもこの世の榮花の御さかえのみ覺えてそみつく心のいとゞますますにおこりつゝ道心つくべうも侍らぬに、河內の國そこそこに住むなにがしひじりは庵より出づることもせられねど後世のせめを思へばとてのぼり參らせたりけるに、關白殿の參らせ給ひて、雜人どもをはらひのゝしるに、これこそは一の人におはしますめれと見奉るに、入道殿の御前にゐさせ給へば、猶まさらせ給ふなりけりと見奉るほどに、また行幸なりてらんじやうし、まちうけ奉らせ給ふさま、み輿のいらせ給ふ程など見奉りつる殿達のかしこまり申させ給へば、猶國王こそ日本第一の事なりけれと思ふに、おりおはしまして阿彌陀堂の中尊の御まへについゐさせ給ひて拜み申させ給ひしに、猶々佛こそかみなくはおはしましけれと、この會の庭にはかしこう結緣し申して、道心なむいとゞ熟し侍りぬるとこそ申され侍りしか。
傍にゐられたりしなり。やゝまことに忘れ侍りにけり。世の中の人の申すやう「大宮入道せしめ給ひて、太上天皇の御位とならせ給ひて女院となむ申すべき。この御寺に戒壇たてられて御受戒あるべきなれば、世の中の尼ども參りてうくべきなり」とてよろこびをこそなすなれ。この世繼がおんなどもゝかゝる事を傳へ聞きて申すやう、おのれもその折にだにしらがのすそそぎ捨てむとなむ。何か制する」とかたらひ侍れば、「何せむにか制せむ。たゞしさらむ後には、若からむめのわらはべもとめて、えさすばかりぞ」となむいひ侍れば「我がめひなる女ひとりあり。それを今よりいひかたらはむ。いとさしはなれたらむも情なき事なり。近くも遠くも身のためにおろかならむ人を、今さらによすべきかは」となむかたらひ侍る。
「やうやう衣袈裟などのまうけに、よききぬ一二疋もとめ侍るなり」などいひて、さすがにいかにぞや、ものあはれげなる氣色のいでくるは、女どもに背かれむことの心ぼそきにやとぞ見え侍りし。さて今年こそは天變しきりにし、世の妖言などよからず聞え侍るめれ。かんの殿のかく懷姙せしめ給ひ、院の女御殿の常の御惱の中にも今年となりてはひまなくおはしますなりなどこそおそろしう承はれ。いでやかうやうの事うち思ひ續け申せば、昔の事こそ唯今のやうにおぼえ侍れ』など見かはして、繁樹がいふやう『いであはれ、かくさまざまにめでたき事ども、哀にもそこら多く見聞き侍れど、猶我がたからの君に後れ奉りたりし折のやうに物の悲しく思ひ給へらるゝをりこそ侍らね。八月十日あまりの事に候ひしかば、折さへこそ哀に、時しもあれと思ひ侍りしものかな』とて鼻度々かみて、えもいひやらずいみじと思ひたるさま、まことにその折もかくこそはと見えたれ。
『一日片時生きて、世にめぐらふべきこゝちもし侍らざりしかど、かくまでさぶらふはいよいよひろごりさかえおはしますを見奉り悅び申さむとに侍り。さてまたの年の五月廿四日こそは冷泉院は誕生せしめ給へりしか。それにつけて、いとゞこそ口をしきをりのうれしさ、かばかりもおはしまさゞりしかな』といへば、世繼『しかしかと快く思へるさまおろかならず。朱雀院、村上などのうち續き生れおはしましゝは、又いかになどいふほどあまりにおそろしうぞ。又世繼が思ふことこそ侍れ。便なき事なれど、あすともしぬ身にはべれば唯申してむ。この一品宮の御ありさまのゆかしく覺えさせ給ふにこそ、又命をしう侍れ。その故は、生れおはしまさむとて、いとかしこき夢想見給ひしなり。さおぼえ侍りし事は、故女院この大宮など孕まれさせ給はむとてみえし、唯同じさまなる夢に侍りしなり。
それにて萬推し量られさせ給ふ御ありさまなり。皇太后宮の宮にいかで啓せしめむと思ひ侍れど、その宮のへんの人にこそえあひ侍らぬが口をしさに、こゝら集り給へるなかに、もしおはしましやすらむと思ひ給へて、かつはかくは申し侍るぞ、行く末にもよくいひけるものかなとおぼしあはする事も侍りなむ』といひしをりこそ、こゝにありとてさしいでまほしかりしか。