三十九 昔物語(二)

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

「勅なればいともかしこし鶯のやどはととはゞいかゞこたへむ(勅命ですからまことに恐れ多いことです〈梅は差し上げます〉。でも鶯が「わたしの宿は」と尋ねたら、どう答えたらよいのでしょう)」

とあったので、不思議にお思いになって「何者の家か」とお尋ねになったところ、貫之の主の御娘の住む所だったのです。「残念なことをしてしまったなあ」と言って、きまり悪がっていらっしゃいました。繁樹のこの世での恥はこれでございましたでしょうか。そのくせ思いどおりの木を持って参ったと言って、衣をいただいたのもつらいことになりました』と言ってにこにこと笑います。繁樹が『またたいそう心にしみて優雅に思いましたことは、この同じ御代のことです。承香殿の女御と申し上げるのは斎宮の女御(徽子女王)ですよ。帝が久しくお渡りにならなかった秋の夕暮れに、琴をたいそう見事にお弾きになったので、(帝が)急いでお渡りになって御そばにいらっしゃいましたが、(女御は)人がいるともお思いにならず、ひたすら弾き続けなさるのをお聞きになると、

「さらぬだにあやしき程の夕暮に荻吹くかぜのおとぞきこゆる(そうでなくてさえ心乱れる夕暮れに、荻を吹く風の音が聞こえることだ)」

と弾いていらっしゃったのは心にしみたことだったと、御集にございますのはすばらしゅうございます』と言うのは、あまりに恐れ多いことですな。ある人が『京の外へはお出になりましたか』と言うと、『遠国には参りません。和泉の国へは、貫之の主の任国に下りました。「ありどほしとは思ふべしやは」とお詠みになった旅のお供にもおりました。雨の降った様子などを(貫之が)話したのを、古い草子にあるのを見ると時がたった気がいたしますのに、昔に巡り会った心地がして面白うございました』。この侍もたいそう面白がって、繁樹の妻に『女の方こそもう少し細やかなことはお話しになれるでしょう』と言うと、『わたしは都の者でもございません。高貴な宮仕えなどもいたしておりません。若いころからこの翁に連れ添ってまいりましたので、はかばかしいことも拝見しておりませんのに』と答えるので、『どこの国の人ですか』と尋ねます。『陸奥の国の安積の沼におりました』と言います。

『どうして京に来たのですか』。『その方とははっきり存じ上げませんが、歌をお詠みになった北の方がいらっしゃった国守のご任期(が終わったとき)に上京いたしました』と言うので、中務の君(中務)のことだろうと聞くのも面白くなりました。『たいしたものですね。北の方を何と申し上げましたか。お詠みになった歌は覚えていますか』と言うと、『そちらには心も向かず、覚えておりません。ただ上京なさったときに、逢坂の関にいらっしゃってお詠みになった歌だけはところどころ覚えております。

「みやこにはまつらむものをあふ坂の関まできぬとつげややらまし(都では待っているだろうに、逢坂の関まで来たと知らせてやろうか)』」

などと、たいそうおぼつかなげに語る様子は、本当に夫とは比べものになりません。繁樹は『この者を人並みとお思いでしょうか。そういう方面のことは覚えているはずのものですが。世渡りの才覚だけはたいそうしっかりしておりますのを取り柄として、離れがたく思っているのです』と言うと、世継が『いやもう、この翁の妻一人こそたいそうよく物を覚えております。(わたしより)もう一回り(十二歳)年上でございますので、わたしが拝見していないほどのことなども、あれは知っているようです。染殿の后の宮(明子)の樋洗(ひすまし)でございました。母も長官の刀自としてお仕えしておりましたので、幼いころから参り通って、忠仁公(良房)をも拝見しておりました。子どものころの見た目が、それほど見苦しくもございませんでしたのでしょうか、高貴な公達もお目をかけられて、兼輔中納言や良峯衆樹の宰相のお手紙なども持っているようです。中納言のは陸奥紙に書かれ、宰相のは胡桃色の薄様でございますようです。

この宰相は五十まで特にこれということもなく、ほとんど朝廷に見捨てられたようにしていらっしゃいましたが、八幡に参詣なさったところ雨がひどく降りました。石清水の坂を登りあぐねながら参られたところ、御前の橘の木が少し枯れていたのに立ち寄って、

「千早振神のおまへのたちばなももろきもともに老いにけるかな(神の御前の橘も、もろき〈衆樹〉も、ともに老いてしまったことだ)」

とお詠みになったので、神がお聞きになってあわれまれ、橘も栄え、宰相も思いがけず頭(蔵人頭)になって宰相にまでおなりになったと承りました』と言うと、侍が『賀茂の御前でのこととか、遠い昔の物語に、わたしも聞いておりますが』と答えると、『そうでございましたでしょうか。年がたってまちがったことも申しているでしょう。宰相を拝見はしましたが、大人になってから尋ねて承ったのです』と言います。侍は『それはそのとおりです。五十六で宰相になって、左近中将を兼ねていらっしゃいました』。(世継は)『その折は何とも思いませんでしたが、このごろ思い出しますと、見苦しいことだったと思われます』。この侍が『どうしてそんな教養のある人を、取るに足りない若者のあなたが妻にしたのですか』と尋ねると、『それこそ、そのように風流を好んでおりました者の心にもかなわず、世継の家にやって来てからは、恥ずかしく思ってどれほどの喧嘩がございましたことか。けれどもそれほどまでに身を寄せ始めたからには、よそ見をさせたりいたしましょうか。

そうしているうちに居ついてしまいまして、翁にまた一晩もよそで過ごさせないのですよ』とほほえんでいる口元はたいそう滑稽です。この妻どもも世継も、しかるべき縁でございましたのでしょう、その妻は二百歳ほどになるそうです。『兼輔の中納言も衆樹の宰相も、今では跡も屍もいらっしゃいません。世継にも今どきの若い者どもはとても言い寄ってはまいりますまい。こんな長い命で生き合わせていなかったら、たいそう妙なことでしたでしょう』と言って気持ちよさそうに笑います。なるほどと聞こえて面白くもあり、聞くのも現実のこととは思えません。『ああ、今日連れてきておりましたら、女房の方々のお耳にもう少しとまることどもをお聞かせできましたでしょうに。わたしの頼りとする人としては兵衛内侍の親をしておりましたので、内侍のもとへは時々参っていたようです』と言うと、『それはだれですか』と言う人がいるので、『いやもう、あの有名な琵琶弾きですよ。

相撲の節会で玄上(げんじょう)の琵琶を賜って、御前で青海波をお弾きになったのはすばらしいものでしたなあ。博雅の三位などでさえたやすくは鳴らしなさらなかったのに、これは承明門まで聞こえましたので、左の楽屋に参って承ったのですよ。このように物事の映えて張り合いのあることも、天暦の御代まででした。冷泉院の御代になってからは、世の中が暗くふさがった心地がいたしました。世の衰えることもその御代からです。小野宮殿(実頼)も第一の人(関白)と申しても、(帝の)外戚ではない他人におなりになって、若く華やかな(帝の)叔父たちにお任せになっていらっしゃいました。また帝のことはまた申すまでもありません。しみじみといたしましたことは、村上(の帝)がお亡くなりになって翌年、小野宮に人々が参られて、たいして臨時客などというのでもありませんが、「嘉辰令月」などを朗誦なさるついでに、一条の左大臣殿(雅信)や六条殿(重信)などが拍子を取って「席田(むしろだ)」を歌い出しなさったところ、「ああ、先帝がいらっしゃったなら」と言って笏も置いて、主の殿をはじめとして忌み言葉もおはばかりにならず、袍の袖を濡らされたのでした。

もっともなことですよ。何事も聞き知り見分ける人がいるのは張り合いがあり、いないのはたいそう残念なことです。今日こうしたことどもを申すのも、あなたが聞き分けてくださるので、いっそうもう少し申し上げたいのです』と言うと、侍も照れくさそうにしていました。『藤原氏のことばかり申し上げておりますので、源氏のことも申し上げましょう。この一条殿や六条殿たちは、六条の一品式部卿の宮(敦実親王)のお子たちでいらっしゃいます。寛平(宇多)の御孫だとだけは申しながら、お人柄が教養深くいらっしゃって、どちらをも村上の帝が重用なさいましたが、もう少し六条殿をかわいがっていらっしゃいました。兄殿(雅信)はたいそうあまりにきちんとしすぎて、公事のほかのことはあまり交えず、くだけた所がいらっしゃらなかったのです。弟殿(重信)は内々のことには不器用でいらっしゃいましたが、若々しく愛嬌があって、親しみやすい点ではまさっていらっしゃったからだろうと人は申しました。

父の宮が出家なさって仁和寺にいらっしゃったので、六条殿は修理大夫でいらっしゃったころでしたから、仁和寺へ参られる行き帰りの道を、一度は東大宮から上られて一条から西の方へいらっしゃり、また一度は西大宮から下られて二条から東の方などへとお通りになりながら、内裏をご覧になって、壊れた所があれば修理させなさいました。たいそう気の利いたお心がけですなあ。また一条殿がおっしゃったことには、「親王の子どもの中で世の中の事情も知らず、頼るすべもなかったので、しかるべき公事の折には人より先に参り、事が終わっても一番最後に退出するなどして見習ったのだ」とおっしゃいました。八幡の放生会には御馬を奉納なさいましたが、使いなどにも浄衣をお与えになり、ご自身も身を清められたからでしょうか、御前近くの木に山鳩が必ず止まっていて、(馬を)引き出す折に飛び立ったので、甲斐があったと喜び面白がっていらっしゃいました。

お心がいっそうきちんとしていらっしゃる人が誠をお尽くしになったので、大菩薩がお受け申し上げなさったのでしょう。ある年の日照りのご祈祷のときにも(そうでした)。東三条院(詮子)が賀茂詣をなさったときには、この一条殿も参られました。大臣におなりになっていたので、そのような例はありませんでしたが、天下の大事だというので、ご出発の所にはいらっしゃらず、ご自分のお屋敷の前をお通りになったときに(行列に)加わってお供申し上げなさったのです。この方は一生、数珠をお取りになることはなくて、ただ毎日、南無八幡大菩薩、南無金峰山金剛蔵王、南無大般若波羅蜜多心経と、冬の御扇(の骨)を数取りにして百八遍ずつお唱え申し上げなさいました。それよりほかのお勤めはなさいませんでした。四条大宮の太后宮(遵子)にこれこれと申し上げる人がいたので、お聞きになって「親しみの持てないご本尊ですこと」とおっしゃいました。

この殿は新しく流行する歌を、普通とは違うように歌い返されましたので、一条院の御代の臨時の祭で御前の儀が終わって、上達部たちが見物にお出になったとき、外記(げき)の隅のあたりをお通りになるというので、わざとではなく口ずさみのようにお歌いになったのが、かえって優雅でございました。「とみくさの花手につみいれて宮へまゐらむ」のあたりを、いつものとは変わっているように承りましたので、遠かったせいで年寄りの聞き違いだろうと思っておりましたが、この按察大納言殿もそうおっしゃいました。(そのとき大納言は)殿上人でしたので遠くから聞いたのではありませんでした。「変わった節回しが珍しく様子が違って感じられたのは、あの殿のことだったからでしょうか。また聞きたいと思いましたが、それきりになってしまったのが今でも残念に思われる」とおっしゃっているそうです。この大臣殿たちの御弟の大納言(重光)も優雅でいらっしゃいました。

だいたい六条の宮のお子たちは皆すばらしくいらっしゃいました。法師のお子は広沢の僧正(寛朝)、勧修寺の僧正(雅慶)のお二人がいらっしゃいました。だいたいそのころには、それぞれの方面につけてすばらしい人々がいらっしゃったものですよ』と言うと、『このごろもそういう方はいらっしゃらないのですか』と侍が言うので、『この四人の大納言たちですよ、斉信・公任・行成・俊賢などと申し上げる君たちは、また言うまでもありません。さてまた多くの見物をいたしました中でも、花山院の御代の石清水の臨時の祭を円融院がご覧になったときほど面白いことはございませんでした。その折の蔵人頭には今の小野宮の右大臣殿(実資)がいらっしゃいました。御前の儀が終わるとすぐに、院は退屈していらっしゃるだろうとお思いになって参られたところ、しかるべき人も控えていらっしゃいませんでした。蔵人や判官代だけがいて、たいそう寂しげにしていらっしゃいます。

(頭中将が)こうして参られたのをたいそう折よいとお思いになっているご様子を、たいそうしみじみとお気の毒に拝見なさって、「見物をなさいませ」などとご意向を伺われると、「急にはどうしたものだろう」とおっしゃったので、「こうして実資がおりますし、また殿上に控える男どもだけで間に合いましょう」とお勧め申し上げなさいます。御厩の御馬どもを召して、控えていた者は皆前駆をつとめ、頭中将は束帯のままお供なさいます。(院のお住まいは)堀河院なので近くにお出になると、見物の車どもが二条大宮の辻に立ち固まって見ているところに、布衣や衣冠の前駆を連れた車が、ひどく人払いをして並々でない勢いで来るので、どなたほどの方だろうと怪しく思い合っていると、頭中将が下襲の裾を挟んで、移鞍を置いた馬に乗っていらっしゃるので、院がいらっしゃるのだとわかって、車どもも徒歩の人もあわてて立ち騒いで、たいそうざわつきました。

二条から少し北に寄って、冷泉院の築地のあたりにお車を止めました。前駆どもが馬を下りて居並んでいらっしゃるところに、内裏から見物に続いてお出になった上達部たちがご覧になると、大路がひどく騒がしいので、怪しく思って「何事か」とお尋ねになると、「院がいらっしゃるのです」と申したのを、まさかそんなことはあるまいとお思いになっていると、「頭中将殿もいらっしゃいます」と言うので、本当だったのだと思われて、お車から急いで下りて皆参られました。大臣お二人は左右の御車の胴を押さえて立っていらっしゃいました。東三条殿(兼家)と一条の左大臣殿(雅信)ですよ。そして納言以下は轅(ながえ)のこちらとあちらに居並ばれます。殿上人は御車の後ろの轅の方に控えられます。かえってきちんとした作法の儀式よりもすばらしゅうございましたなあ。舞人や陪従は皆馬に乗って通りますが、時中の源大納言がまだ大蔵卿と申し上げていた折で、勅使でいらっしゃいました。

御車の前近くに立ち止まって、「求子(もとめご)」を袖の振りだけでお舞いになり、ひざまずかれたまま片袖を顔に押し当てて控えていらっしゃったので、(院が)香染めの御扇を差し出されて「早く」と招かれましたので、少し涙を拭って立たれましたが、まったくあれほど優雅なことがまたございましょうか。本当にしみじみとした事の次第なので、人々もそれとなく、院も少し涙ぐんでいらっしゃったと後に承りました。(わたしは)神泉苑の北東の隅の垣の内で拝見したのです。また若うございましたころも、仏法に疎くて、世に評判の大法会でなければ参り合わせることもございませんでしたが、まして年が積もってからは動きにくうございましたけれども、参河入道殿(大江定基、寂照)の入宋の餞別の講師を清昭法橋がなさった日には参りました。あれほど道心のない者が初めて心を起こしたことはございませんでした。

まずは神分の心経と表白をおっしゃって鐘を打たれたところ、大勢集まっていた万人がどっと泣きました。それはもっともなことです。また清範律師が、犬のために法事をした人の講師に招かれて行くのを、清昭律師は同じ説法者なので、どうするのだろうと聞こうとして、頭を包んでだれともわからないようにして聴聞したところ、(清範が)「ただ今ごろ亡き霊は蓮台の上で『わん』と吠えていらっしゃることでしょう」とおっしゃったのを、「やはりそうだ。ほかの人がこう思いつけただろうか。やはりこのような才気のあることは、すぐれた御房だ」とほめられたそうです。本当に承って面白うございました。これはまた聴聞の衆どもがどっと笑って帰っていきました。ずいぶん軽々しい往生人ですなあ。まったくつまらないことでございますが、人の機転が利いて才気のあることが面白く、優雅に思われましたので(申したのです)。

法成寺の五大堂の供養は十二月ではございませんでしたか。ひどく寒かったころで、百僧でしたので、御堂の北の廂に題名僧の座が設けられました。そのためにその堂の廂は作り加えられたのです。特別な僧の食膳は用意なさらず、湯漬けだけをお与えになります。行事の二人に五十人ずつ分担させなさって、僧の座が設けられた御堂の南面に鼎を据えて湯を煮えたぎらせながら、ご飯を入れて、たいそう熱くして配って回ったのを、ぬるいだろうと僧たちが思ってざぶざぶと食べたところ、ひどく熱かったので(たいへんでした)。北風はたいそう冷たかったので、それほどではなく、たいそうよく召し上がった御房たちも、今になってそう言いました。後に「北向きの座でどれほど寒かっただろう」などと殿がお尋ねになったところ、「これこれでございましたので、すっかり温まって寒さも忘れました」と申されたので、行事たちをたいそうよいとお思いになりました。

ぬるくして出したからといって特別にお咎めなどがあるはずもありませんが、殿をはじめとして人にほめられ、後々までもそうだったと言われなさるのは、何もないよりは悪くない、よいことですよ。いやまた、故女院(詮子)の御賀で、この関白殿(頼通)が陵王を、春宮大夫殿(頼宗)が納蘇利(なそり)をお舞いになったすばらしさといったら。陵王はたいそう気高く上品にお舞いになって、禄を賜っても舞い捨てて、知らないふりでお入りになった美しさ、すばらしさに並ぶものはあるまいと拝見していると、納蘇利がたいそう見事に、またこうでなくてはと見えてお舞いになったところ、ご褒美をこちらはたいそうしっかりと肩におかけになって、もう一度何ともいえずお舞いになりました。今日はまたこうするべきことだったのだなあと見えました。陵王のお師匠は必ず禄は捨てなさるだろう、同じようになさっては見慣れたことになるだろうから、趣向を変えさせ申し上げなさったのでした。

(納蘇利の師匠の)心づかいがまさっていると言われました。女院が(その師匠に)叙爵をお与えになったのは、大夫殿をたいそうかわいがっていらっしゃったからだそうです。陵王のお師匠は(叙爵を)賜らず、たいそうつらいことでした。それで北の政所(倫子)は少しご機嫌を悪くなさいました。それで後にお与えになったようです。型どおりにお舞いになっても悪く言われるようなお年ごろでもいらっしゃらず、下手だと人が申すはずもございませんでしたのに、お二方とも、この世の人とはお見えにならず、天童などが舞い降りてきたようにお見えになりました。またこの大宮(彰子)の大原野への行啓はすばらしゅうございましたよ。雨が降ったのはたいそう残念でございました。舞人にはだれだれそれぞれの君達などを数えて、一の舞はこの関白殿の君(頼通)がお舞いになりました。試楽の日に搔練襲の下襲に黒の半臂をお召しになったのは珍しゅうございましたなあ。脇明けの衣を人がお召しになったのは、まだ見たことがございませんでしたので。行啓には入道殿のだれそれという御馬にお乗りになって、御随身四人と自分も褐衣(かちえ)の裾を上げていらっしゃったのは、きびきびしたものでしたなあ。

公忠が少し手綱を控えながら間を置き申し上げたのを(道長が)お止めになったので、やはり少し恐縮申し上げるほどでした。都の中ではうまい具合に雨も降らなかったのですよ。閑院の太政大臣殿(公季)が西の七条からお帰りになったのを、入道殿はたいそう恨み申されました。堀河の左大臣殿(顕光)は御社までお供なさって、引出物に御馬がありました。枇杷殿の宮(妍子)と中宮(威子)とは黄金造りのお車で、公達の中でも身分の高い者だけを選ばれた前駆をお連れになりました。お車の後ろには皇后宮の御乳母で維経の主の御母、中宮の御乳母で兼安・実任の主の御母が控えていました。殿のお子たちはまだ元服なさらない童で、皆お仕えになりました。ついでのないことでございますが、物の怪だと人が申したことどもで、たいしたこともなく済んだのは、先の一条院の御即位の日、大極殿の飾り付けをするというので人々が集まったところ、高御座の中に髪のついた何ものかの頭の血まみれのものを見つけたので、あきれてどうしたものかと行事の者が思い悩んで、これほどのことを隠すべきだろうかというので、大入道殿(兼家)に「このようなことがございます」とだれそれの主を通して申させたところ、たいそう眠たそうなご様子をなさって何もおっしゃらないので、もしやお聞きにならなかったのかと思って、またご意向を伺いましたが、うとうとされてやはりお返事がありません。

たいそう妙で、そこまで深くお眠りになっているとはお見えにならないのに、どうしてこうしていらっしゃるのだろうと思って御前に控えていると、はっと目を覚まされた様子で「飾り付けは終わったのか」とおっしゃるので、聞かなかったことにしておこうとお思いになったのだと心得て、立ち去りました。本当にこれほどのお祝いのことが、今日になって中止になるのも縁起の悪いことなので、そっと隠しておくべきだったことを、思慮もなく申したものだと、どうお思いになったことだろうと、後にその殿もたいそう悔しがられました。もっともなことですよ。それで何事がございましたか。よいことだったのです。また大宮がまだ幼くていらっしゃった時、北の政所がお連れになって春日に参詣させ申し上げなさったところ、御前のお供え物を並べ置いてあったのを、にわかにつむじ風が吹き転がして、東大寺の大仏殿の御前に落としたのです。春日の御前の物が源氏の氏寺に取られたのを、よくないことではないかと、その折世の人は申しましたが、長くご子孫がお継ぎになるのは吉相だったのだと思われますな。

夢も現実も、これはよいことだと人が申しても、たいしたこともなく終わることがございます。このように怪しげに見聞きすることも、こうしたよいことになるのですな。本当に世の中で、どれほどしみじみと、すばらしく、面白く、承ったり拝見したりして集めたことが数知れず積もっている翁どもだと、皆さまお思いでしょうか。身分の高い方々でも、また低い者でも、ごく近い御簾の内のことだけはおぼつかないことが残っておりましょう。それでも、それぞれの宮や殿方、その次々の人のあたりで、人が耳にするほどのことは、女房や童が申し伝えないことがございましょうか。ですからそれも思いがけず承らないわけでもございません。けれどもそれをどうしてお話し申し上げましょう。ただ世の中で、人がお耳をとめなさるはずの昔のことばかりをこうしてお話し申し上げるのでさえ、たいそう愚かしげに見ていらっしゃる人もいらっしゃるようです。今日はただ殿(侍)が珍しく面白そうにお思いになって、よく相づちを打ってくださるのにはやされ申して、これほどにも口を開き始めましたので、かえって言い残したことが多く、またまた申し上げるべきことは限りなくございますが、もし本当に終わりまでお聞きになりたいのでしたら、駄馬を一頭お貸しください。

這い乗って参りましょう。一方ではまたお宿に参って、殿のご学識のほども承りたいと思いますわけは、これまで長年、これほど受け答えをなさる方にお会いしたことがございませんのに、時々お加えになるお言葉だけを承りますと、(お年は)翁どもの孫の子くらいかとお見受けしますのに、このご存じのことどもは、思うに古い御日記などをご覧になっているのだろうと奥ゆかしく、身分の低い者にどうしてそれほどの学問がございましょう。ただ見聞きしたことを心に留めておいて、こうして利口ぶって申しているのです。本当に(学識のある)人にお会いしては、お咎めになることもございましょうと恥ずかしく思われますので、事の真偽も年寄りの学問として承って明らかにしたいものでございます』と言うと、繁樹も『まったくそのとおり、そのとおり。そういう折には必ずお知らせください。杖にすがってでも参ってお会いいたしましょう』とうなずき合います。

『ただしそこまでの分別のない若い人々は、作り話をする翁だなとお思いになる方もありましょう。わが心に覚えて一言でも嘘を加えておりましたら、この御寺の三宝や、今日の座の戒和尚にお招きになった仏・菩薩を証人といたしましょう。中でも若いころから十戒の中で不妄語戒を守っております身だからこそ、命も保っておりますので、今日この御寺でまさにそれを授けてくださるのです。講の庭に参って間違ったことを申すはずがありません。だいたい世の初めには人の寿命は八万歳です。それがしだいに減っていって百歳になる時に仏がお出ましになるのです。けれども生死の定めがないことを人にお示しになろうとして、なお二十年縮めて八十と申した年に入滅なさいました。その年から今年まで一千九百七十三年になりました。釈迦如来が入滅なさったのを限りとして八十で極まるはずですが、仏の寿命を定めがないとお見せになったのでしょうか、このごろも九十、百の人が自然と聞こえるようですが、この翁どもの寿命は、まれなことで、「甚深甚深、希有希有」とはこれを申すべきでしょう。

ずっと昔にはこれほどの人もおりました。神武天皇から始め申し上げて二十余代までの間の十代ほどは、百歳、百余歳まで保たれた帝もいらっしゃいましたが、末の世には際立った長命の翁どもですよ。ですから前世でも戒を受けて保っておりましたのだと思いますので、この世でも破らずに帰っていこうと思っております。今日この御堂に影向(ようごう)なさっているでしょう神々や冥界の方々もお聞きください』と言って、得意顔で扇を使いながら見交わしている様子はもっともで、何よりも公私ともにうらやましく思われました。『それにしても、繁樹の年を数えてくださいませ。何もないよりは、年を知らないのが残念ですので』と言うと、侍が『どれどれ』と言って、『十三で太政大臣(忠平)のもとに参ったとおっしゃるのですから、十ほどで、陽成院が退位なさった年にはいらっしゃったのでしょう。

これで推し量りますと、あの世継の主はもう十いくつか年下なのでしょうから、百七十を少し越えて、八十にも及ばれているでしょう』などと指を折って数えて、『これほどのご長寿は、人相見などに見てもらったことはありますか』と尋ねると、『たいした者にも見てもらいませんでした。ただ高麗人のもとに二人連れ立って参りましたところ、二人とも長命だと申しましたが、まさかこれほどまで生きようとは思いもかけないことでした。ほかのことを尋ねようと思っておりましたうちに、昭宣公(基経)の君達お三方がいらっしゃったので、申せなくなりました。その時ですよ、時平の大臣を「お顔立ちがすぐれ、心ばえも賢く、日本の柱石として用いるにはあまりあるほどでいらっしゃいます」と申しました。枇杷殿の仲平を「あまりにお心がきちんとして素直で、へつらい飾ることがなく、日本のような小国にはふさわしくない相でいらっしゃいます」と申します。貞信公(忠平)を「ああ、日本の柱石ですなあ。このように世を継ぎ家門を開くのはただこの殿です」と申したところ、(貞信公は)「わたしを兄弟の中で学才もなく心もひねくれているのに、こう言うのは恥ずかしいことだ」とおっしゃったのは。

けれどもその言葉に違わず家門を広げ栄華を開かれたので、やはりすばらしい(人相見だった)と思いまして、また参りましたところ、小野宮殿(実頼)がいらっしゃったので申せなくなりました。わざとみすぼらしい姿をなさって身分の低い者の中に遠く座っていらっしゃったのを、大勢の人の中から伸び上がって拝見して、指をさして何か申しましたので、何ごとだろうと思っておりましたが、後に承りますと「貴臣だ」と申したのでした。(小野宮殿は)まだたいそうお若くいらっしゃったころですよ。ひどくふざけた話でございますが、本当にこれは得をした翁どもでございます。どうして人がお許しくださらないことがありましょう。また身分の低い拙い者にもそんなことがあったのだとお聞きください。亭子院(宇多)が河尻にいらっしゃったときに、白女という遊女をお召しになってご覧になったりなさって、「はるか遠くに控えている気持ちを歌に詠め」と仰せがあったので、詠んで差し上げた歌、

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