四十 昔物語(三)

大鏡 現代語訳
原文現代語訳

「浜千鳥とびゆくかぎりありければ雲たつ山をあはとこそみれ(浜千鳥〈のようなわたし〉は飛んで行ける限りがありますので、雲の立つ山〈遠い御前〉を、ああ、あれだと眺めております)」。

たいそうお褒めになって、ご褒美をお与えになりました。

「命だに心にかなふものならばなにかわかれのかなしかるべき(命さえ心のままになるものならば、どうして別れが悲しいことがありましょう)」。

これはこの白女の歌です。また鳥飼の院にいらっしゃったとき、いつものように遊女たちが大勢参った中に、大江玉淵の娘がこの上なく顔立ちが美しかったので、ご感心になって上にお召し上げになり、「玉淵はたいそう才気があって、歌などもたいそう上手に詠んだ。この鳥飼という題を人々が詠むのに、同じ心でお詠み申し上げたなら、本当に玉淵の子だと思おう」とおっしゃいます。承ってすぐに、

「深緑かひある春にあふときはかすみならねどたちのぼりけり(深緑の、甲斐のある春〈鳥飼〉に会うときは、霞ではありませんが、〈御前に〉立ち上ってまいりました)」

などと、たいそうお褒めになって、帝(院)をはじめとしてご褒美をお与えになった』ことや、南院の七郎君に(この娘の)世話をするようにおっしゃったことなどを詳しく語ります。『延喜の御代に古今集が撰ばれた折、貫之は言うまでもなく、忠岑や躬恒などは御書所に召されて控えておりましたところ、桜の木で郭公が鳴くのをお聞きになって、四月二日でしたのでまだ忍び音のころで、たいそう面白がっていらっしゃいます。貫之を召し出して歌をお詠ませになりました。

「ことならはいかゞなきけむ郭公このよひばかりあやしきぞなき(いつもならどう鳴いたのだろうか、郭公よ。今宵ほど不思議〈にすばらしい〉ことはない)」。

それでさえ際立ったことだと思いましたのに、同じ御代に管弦のお遊びがあった夜、御前の御階のもとに躬恒を召して、「月を『弓張』というのはどういう心か。そのわけを詠め」と仰せがあったので、

「てる月を弓はりとしもいふことは山辺をさしていればなりけり(照る月を弓張というのは、山辺を目指して射る〈入る〉からなのです)」

と申し上げたのをたいそうお感じになって、大袿を賜って肩にかけるとすぐに、

「白雲のこのかたにしもおりゐるはあまつ風こそ吹きてきぬらし(白雲がちょうどこの肩に降りてきたのは、天つ風が吹いてきたのでしょう)」。

すばらしいものでしたなあ。それほどの身分の者を近くにお召し寄せになって勅禄を賜るべきことではありませんが、非難申し上げる人がいなかったのも、帝が重々しくいらっしゃり、また躬恒が和歌の道で認められていたからだと思いました。あの遊女たちが歌を詠んだのをお感じになったのは、そういうことでございます。院になられ、都を離れた所だからというのは、あまりにませた(ひねった)言い方です』。この侍が尋ねます。『円融院の紫野の子の日の遊びで、曾禰好忠はどうだったのですか』と言うと、『それはたいそう珍しいことでございました。あれほどの催しで身分の上下を選ばず和歌をお褒めになることは、本当に残念なことでございますが、隠れていて優れた歌を詠み出すことでさえたいそう無礼なことでございましょうに。特に座にずかずかと着いてしまったのは、あきれたことですよ。小野宮殿や閑院の大将殿(朝光)などでしたよ、「引っ立てよ、引っ立てよ」とお命じになったのは。

躬恒が特別の禄を賜ったのとは比べものにならない歌詠みですよ。歌がすばらしくても、折と事情を見てお詠み申し上げるべきです。悪くない歌詠みですが、ひどく劣ってしまったことですよ』と言います。侍がにこにこと笑って、『昔のすばらしいことどもがあったのは存じませんが、わたしが物心ついてから不思議だったことは、三条院の大嘗会の御禊の出車(いだしぐるま)を、大宮(彰子)と皇太后宮(妍子)から差し上げなさったことがありましたね。大宮の一の車の前の簾の縁に香炉を惜しげもなく掛けて、空薫物(そらだきもの)をたいていたので、二条の大路にずっと煙が満ちていた様子はすばらしく、今でもあれほどの見物はほかにありません』と言うと、世継が『そうそう、どれほどお心を入れて競い合っていらっしゃったことか。それなのに女房のお心の身の程知らずなことに、あれほどのことに簾を下ろして通られたとはね。

あきれたことでしたよ。前の席に乗るはずだと思っていらっしゃったのが、後ろに押し下げられなさったからだと承りました。本当に女房がつらいこととなさるのはわかりますが、主人のお思いになるところも構わず、男ならとてもそんなことはできますまい。だいたいその宮には気の強い人がいらっしゃるのでしょうか。一品の宮(禎子)の御裳着に、入道殿から、玉を貫き、岩を立て、水を流して、何ともいえず見事にご用意なさった裳と唐衣をまず差し上げなさって、「中でもとりわけお目をかけていらっしゃる人にお与えください」と申し上げなさったのを、まさか(自分に)と思っていらっしゃった女房が賜らなかったので、そのまま嘆きのあまり病気になって七日目にお亡くなりになったのは、そこまでお思いになったとは罪深く、ましてどれほど嫉妬の心が深くいらっしゃったのでしょう』などと言うのは、あきれたことで、どうしてこうも何もかも御簾の内のことまで聞いているのだろうと恐ろしく、こんな女や翁などが昔話をするのはたいそううるさく、聞くのもいやなものだと思われるのに、これはただ昔に立ち返って出会った心地がして、もっともっと言ってほしい、口を挟んで尋ねたいことも多く、気がもめていたところに、『講師がいらっしゃった』と立ち騒いで大声を上げたので、(話が)途切れてしまったのはたいそう残念でした。(講が)終わったら人をつけて家はどこかと見届けさせようと思っていたのも、例によって半ばほどのところで、何ということもなく騒ぎが起こって、座り込んでいた人も皆崩れ出るうちに紛れて、どちらともなく見失ってしまった残念さといったら。何よりもあの夢(の話)が聞きたくて住まいも尋ねさせようといたしましたが、一人一人さえ見つけられなくなってしまいましたよ。

そうそう、帝が母后のもとに行幸なさって、御輿を(建物に)寄せることは、深草の帝(仁明天皇)の御代からあったことだそうです。それより前は(帝が庭に)下りてお乗りになっていたのを、后の宮が「行幸のありさまを拝見したい。ただ(御輿を)寄せてお乗りなさい」と申し上げなさったので、その時そうなさってから、今は寄せてお乗りになるのだそうです。皇后宮の大夫殿が書き継がれた夢です。この数年聞くと、百日・千日の講を行わない家々はありません。老いた者も若い者も後の世の勤めばかりを思い申し上げているようなのに、一日の講も行わず、ただつくづくとむなしく起き伏しばかりしております罪深さに、ある所の千日の講を卯の時(早朝)に行うと聞いて参りましたところ、人々が場所もないほどで、車も徒歩の人もいたことでしょう。しばらく待っても講師が見えず、人々の言うのを聞くと、『今日の講は夕方になるだろう』などと言うので、帰るのも罪を得そうに思っていると、百歳ほどかと見える翁が座っているそばに、同じほどの年に見える法師が人の中を分けて来て、この翁に「たいそううまく見つけ申し上げて、むりにやって参りました。

そもそもあなたは、ある年の世継の菩提講で物語をなさったときに、むりに近寄って相づちを打っていらっしゃったとお見受けしたのは、老法師の見まちがいでしょうか』と言うと、男は『そうでございましたでしょうか』と言います。これは面白いことになったと思って、『その世継にはまたお会いになりましたか』と言うと、『後三条院がお生まれになったころに会いました』と言うので、『それでそれで、どんなことを申されましたか。その当時も、耳にも及ばないことを承ったと思いました。その後もさまざまに面白いことがありましたのをお聞きになったでしょう。本当に今の世のことも取り添えてお聞かせください。ああ、何歳におなりになりましたか』と言うと、「二の舞の翁(まねをする翁)でございましょう。それでも聞こうとお思いになるなら少し申し上げましょう。まずその年は万寿二年乙丑の年、今年は己亥の年と申しますか。八十三年になりました。

いやもう、何ほども見聞きしたことの面白みもございません。あの世継が申されたことも、耳にとまるようではございませんでした』と言うと、法師は『いやいや、それでも八十三年の功徳の林とは今日の講のことを申すべきでしょう。今も昔もそうでございました。二の舞の翁、物真似の翁よ。僧どもが申すことを正しい教えになぞらえて、だれもがお聞きください』と言うと、翁は「お聞きになるところもございますまいが、こうも熱心にお勧めになるので、今わの際に愚か者として笑われ申し上げることになりましょう。見聞きいたしましたのは、後一条院が長元九年四月十七日にお亡くなりになったことで、天下を保たれること二十一年。そのころはひどく悲しいことが多くございました。中宮(威子)はそのままお嘆きになって、同じ年の九月六日にお亡くなりになりました。上東門院(彰子)はお嘆きになりましたが、こちらにも先立たれなさって、一品の宮(章子内親王)や前の斎院(馨子内親王)を大切にお育て申し上げなさいました。

院のご葬送の夜ですよ、常陸の国の百姓とかいう者が、

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