三十九 昔物語(二)

大鏡 原文
原文現代語訳

「勅なればいともかしこし鶯のやどはととはゞいかゞこたへむ」

とありけるに、あやしく思し召されて「何ものゝ家ぞ」と尋ねさせ給ひければ、貫之のぬしのみむすめの住む所なりけり。「遺恨のわざをもしたりけるかな」とて、あまえおはしましける。繁樹、この生のそくかうはこれや侍りけむ。さるは思ふやうなる木もてまゐりたりとて、きぬかづけられたりしもからくなりにき』とてこまやかにわらふ。繁樹『又いとせちにやさしく思ひ給へしことは、このおなじ御時の事なり。承香殿の女御と申すは齋宮の女御よ。御門久しく渡らせ給はざりける秋のゆふぐれに、琴をいとめでたく彈き給ひければ、急ぎわたらせ給ひて御傍におはしましけれど、人やあるともおぼしたらで、せめて彈き給ふをきこしめせば、

「さらぬだにあやしき程の夕暮に荻吹くかぜのおとぞきこゆる」

とひきたりし程こそせちなりしかと御集に侍るこそいみじう候へといふはあまりかたじけなしやな』。ある人『城外やし給へる』といへば『遠國にはまからず。和泉の國にこそ貫之のぬしのみにんに下りて侍りしか。「ありどほしとは思ふべしやは」とよまれて侍りしたびのともにもさぶらひき。雨の降りしさまなど語りしこそ、ふる草子にあるを見れば程經たる心ちし侍るに、昔にあひたる心ちしてをかしかりしか』。この侍もいみじう興じて繁樹がめに、『女どもこそ今少しこまやかなる事どもは語られめ』といへば、『我は都人にも侍らず。たかき宮づかへなどもし侍らず。若くよりこの翁にそひ候ひにしかば、はかばかしき事をも見給はぬものをば』といらふれば、『いづれの國人ぞ』と問ふ。『陸奧の國あさかの沼にぞはべりし』といふ。

『いかで京にはこしぞ』。『その人とはえ知り奉らず。歌よみ給ひし北の方おはせし守の御任にぞのぼり侍りし』といふに、中務の君にこそと聞くもをかしくなりぬ。『いといたきことかな。北の方をたれとかきこえし。よみ侍りけむ歌はおぼゆや』といへば、『その方に心もえでおぼえ侍らず。たゞのぼり給ひしに、逢坂の關におはしてよみ給へりし歌ぞところどころおぼえ侍る。

「みやこにはまつらむものをあふ坂の關まできぬとつげややらまし』」

など、いとたどたどしげに語るさま、まことに男にたとしへなし。繁樹、『この人をばひとゝおぼすかとよ。さやうの方は覺ゆらむものぞ。世間たましひはしもいとかしこく侍るをとりどころにてえさり難くおぼえ侍るなり』といふに、世繼、『いでこのおきなの女一人こそいとかしこく物はおぼえ侍れ。今ひとめぐりがこのかみにて候へば、見給へぬほどの事などもあれは知りて侍るめり。染殿の后の宮のひすましに侍りけり。母もかんの刀自にて仕うまつりければ、をさなくより參りかよひて、忠仁公をも見奉りけり。わらはべかたちの程のいと物きたなうも候はざりけるにや。やんごとなき公達も御覽じいれて、兼輔中納言令峰衆樹の宰相の御文などもちてはべるめり。中納言はみちのくに紙に書かれ、宰相のはくるみ色の薄葉にてぞ侍るめる。

この宰相は五十までさせる事なくほとほとおほやけに捨てられたるやうにていますかりけるが、八幡に參らせ給ひたるに雨いみじうふる。石淸水の坂登り煩ひつゝ參り給へるに、お前の橘の木少し枯れたりけるに立ちよりて、

「千早振神のおまへのたちばなももろきもともに老いにけるかな」

とよみ給へば、神聞きあはれみさせ給うて、橘もさかえ、宰相も思ひかけず頭になりて宰相までなり給ふとこそ承りしか』といへば、さぶらひ、『賀茂の御まへにとかや、はるかの世の物がたりにわらはもし侍るは』といらふれば、『さもや侍りけむ。程經てひが言も申し侍るらむ。宰相をば見奉りしかど、人となりてこそ尋ね承れ』といふ。さぶらひ、『そはさなり、五十六にてぞ宰相になり、左近中將かけてこそいませしか。そのをりは何とも覺え侍らざりしかど、この頃思ひいで侍れば、見苦しかりけることかなと思ひ侍れ。この侍、『いかでさるいうそくをば物げなきわかうどにてはとりこめられしぞ』と問へば、『さればこそさやうにすきおき侍ひしものゝ心にもあらず、世繼が家にはまうできよりては、はちにしていかばかりのいさかひ侍りしかど、さばかりにこかけそめてあからめせさせ侍りなむや。

さる程にゐつき候ひては、翁をまた一夜もほかめせさせはべらぬをや』とほゝゑみたる口つきいとをこがまし。この女どもゝ世繼も、しかるべきとて侍りけるをそこの女二百ばかりになるとて侍り。『兼輔の中納言もろきの宰相も、今まであとかばねだにおはせず、世繼にも今やうの若きものども更にかたらはれ侍らじ。かゝる命ながらの生きあはざらましかば、いと怪しう侍らまし』とてこゝろよくわらふ。げにと聞えてをかしくもあり、聞くもうつゝの事とはおぼえず。『あはれ今日具して侍らましかば、女房たちの御耳に今少しとまる事どもは聞かせ給ひてまし。私のたのむ人にては、兵衞內侍の御おやをぞし侍りしかば、內侍のもとへは時々まかるめりき』といふに、『こはたれにか』といふ人のあれば、『いでこの高名の琵琶ひきよ。

すまひの節に玄上たまはりて、御前にて靑海波仕うまつられたりしはいみじかりしものかな。博雅三位などだにおぼろげにはえならし給はざりけるに、これは承明門まで聞え侍りしば、左の樂屋にまかりて承りしぞかし。かやうに物のはえかひがひしき事どもゝ、天曆の御時までなり。冷泉院の御代になりてこそ世にくれふたがりたるこゝちし侍りしか。世の哀ふることもその御時よりなり。小野宮殿も一の人と申せど、よそ人にならせ給ひて、若く華やかなる御をぢだちにうちまかせ奉らせ給ふ。又みかどはた申すべきにあらず。あはれに候ひける事、村上うせおはしまして、またの年小野宮に人々まゐり給ひて、いと臨時客などはなけれど、嘉辰令月などうち誦せさせ給ふついでに、一條左大臣殿、六條殿など柏子とりてむしろ田うちいでさせ給ひけるに「あはれ先帝のおはしまさましかば」とて御笏もうちおきつゝあるじ殿を始め奉りて事忌もせさせたまはず、うへの御衣どもの袖ぬれさせ給ひにけり。

さる事なりや。何事も聞き知り見わく人のあるはかひあり、なきはいと口惜しきわざなり。今日かゝる事ども申すもわどのゝ聞きわかせ給へば、いとゞ今少しも申さまほしきなり』といへば、さぶらひもあまえたりき。『藤氏の御事をのみ申し侍るに、源氏の御事も申し侍らむ。この一條殿六條殿たちは六條一品式部卿の御子どもにおはします。寬平の御孫なりとばかりは申しながら、人の御ありさまいうそくにおはしまして、いづれをも村上の御門時めかし申させ給ひしに今すこし六條殿をば愛し申させ給へりけり。兄殿はいとあまり麗しく、公事より外の事は多分にはませさせ給はで、ゆるぎたる所の坐しまさゞりしなり。おとゝ殿はみそか事には無才にぞおはしましゝかど、わからかにあいぎやうづき、なつかしき方はまさらせ給へりしかばなめりとぞ人申しゝ。

父の宮は出家せさせ給ひて仁和寺におはしましゝかば、六條殿修理のかみにて坐しましゝ程なれば、仁和寺へ參らせ給ふゆきかへりの道を、一度は東大宮より上らせ給ひて一條より西ざまにおはしまし、又一度は西大宮より下らせ給ひて二條より東ざまなどに過ぎさせたまひつゝ、內裏を御らんじて、やぶれたるところあれば修理せさせ給へり。いと手きゝたる御こゝろばへなりな。又一條殿の仰せられけるは、「親王たちのなかにて世の案內もしらず、たづきなかりしかば、さるべさ公事の折は人よりさきにまゐり、事はてゝも最末にまかりいでなどして、見ならひしなり」とぞのたまはせける。八幡放生會には御馬奉らせ給ひしを、御使などにも淨衣をたまはせ、御みづからもきよまはらせ給ひしかばにや、お前近き木に山鳩のかならずゐて、ひき出づるをりに飛びたちければ、かひありと喜び興ぜさせ給ひけり。

御心いとゞうるはしくおはします人の、信をいたさせ給ひしかば大菩薩のうけ申させ給へりけるにこそ、一とせのひでりの御いのりにこそは。東三條院の御賀茂詣せさせ給ひしには、この一條殿も參らせ給ひき。大臣にならせ給ひぬればさる例なけれども、天下の大事なりとて御出立の所にはおはしまさず、我が御殿の前わたらせ給ひし程に、ひきいでゝ具し申させ給ひしなり。この生に御珠數とらせ給ふ事はなくて、唯每日に南無八幡大菩薩、南無金峰山金剛藏王、南無大般若波羅密多心經とふゆの御扇をかずにとりて一百八遍づゝぞ念じ申させ給ひける。それよりほかの事勤めさせ給はず。四條大宮の太后宮にかくなど申す人のありければ、聞かせたまひて、「なつかしからぬ御本尊かな」とぞおほせられける。

この殿はあらたにおふるをば、なべてのやうに謠ひ返させ給ひければ、一條院の御時の臨時の祭に御まへのことはてゝ、上達部だちの物見にいで給ひしに、外記のすみの程過ぎさせ給ふとて、わざとはなくて口ずさみのやうに謠はせ給ひしが、なかなかいうに侍りし。とみくさの花手につみいれて、宮へまゐらむのほどを、例のには變りたるやうに承りしかば、とほきほどに、老のひが耳にこそはと思ひたまへりしを、この按察大納言殿もしかぞのたまはせける。殿上人にてありしかば遠くてよりも聞かざりき。「變りたるしやうのめづらしうさまかはりて覺えしは、あの殿の御事なりしかばにや、又も聞かまほしかりしかど、さもなくてやみにしこそ今に口をしくおぼゆれ」とこそのたまふなれ。この大臣殿たちの御おとゝの大納言優に坐しましき。

大かた六條宮の御子どもの皆めでたくおはしましゝなり。御法師子は廣澤の僧正、勸修寺の僧正二所こそはおはしましゝか。大かたそのほどにはかたがにつけつゝ、いみじき人々のおはしましゝものをや』といへば、『このころもさやうの人はおはしまさずやはある』とさぶらひのいへば、『この四人の大納言たちよ、齊信、公任、行成、俊賢など申す君たちはまたさらなり。さて又おほくのみものし侍りし中にも花山院の御時の石淸水の臨時祭、圓融院の御覽ぜしばかり興ある事候はざりき。そのをりの藏人のとうにては今の小野宮の右大臣殿ぞおはしましゝ。御前の事はてけるまゝに、院はつれづれにおはしますらむかしと思しめして參らせ給へりければ、さるべき人もさぶらひ給はざりけり。藏人判官代ばかりしていといとさうざうしげにておはします。

かく參らせ給へるをいと時宜善う思しめしたる御けしきをいとあはれに心苦しう見參らせさせ給ひて、「物御覽ぜよ」など御けしきたまはらせ給へば、「俄にはいかゞあるべからむ」とおほせられけるを、「かくて實資侍へば又殿上に侍ふをのこどもばかりにてあへるなむ」とそゝのかし申させ給ふ。御まやの御馬ども召して、さぶらひしかぎり御前つかうまつり、頭中將束帶ながら參りたまふ。堀川の院なれば程近くいでさせ給ふに、物見車ども二條大宮の辻に立ちかたまりて見るに、布衣衣冠なる御前したる車の、いみじう人はらひ、なべてならぬいきほひなるがくれば、誰ばかりならむと怪しく思ひあへるに、頭中將したがさねの尻はさみて、うつしおきたる馬に乘りておはするに院の坐しますなりけりと見て、車どもゝかち人も手惑し立ち騷ぎていと物騷がし。

二條よりはすこし北によりて、冷泉院のついぢづらに御車たてつ。御前どもおりてさぶらひなみ給ふほどに、內より見物につゞき出で給ふ上達部たちの見給ふに、大路のいみじくのゝしれば、怪しくて「何事ぞ」と問はせ給ふに、「院のおはしますなり」と申しけるを、世にあらじとおぼすに「頭中將殿もおはします」といふにぞ、まことなりけりとおぼえつゝ、御車より急ぎおりつゝ皆參り給ひし。大臣二人は左右の御車のどうおさへて立たせ給へり。東三條殿、一條左大臣殿よ。さて納言以下は轅のこなたかなたにゐなませ給ふ。殿上人は御車のしり轅のかたに侍ひたまふ。なかなかうるはしからむ事の作法よりもめでたく侍りしものかな。舞人陪從はみな乘りてわたるに、時中源大納言のいまだ大藏卿と申しゝをりぞつかひにておはせし。

御車の前近くたちとゞまりて、もとめこを袖のけしきばかり仕うまつり給ひてついゐたまひしまゝに、御片袖を顏におしあてゝ侍ひ給ひしかば、かうなる御扇さし出させ給ひて、「はやう」とかゝせ給ひしかば、少しおしのごひて立ち給ひしが、すべてさばかり優なる事又候ひなむや。げに哀なることざまなれば、人々も御けしきばかり院の御まへにもすこし淚ぐみおはしましけりとぞ後にうけたまはりし。神泉のうしとらのすみの垣の內にて見給へしなり。又若く侍りしをりも、佛法うとくて世のゝしる大法會ならぬにはまかりあふこともなかりしに、まして年積りては動きがたく候ひしかど、參河入道殿の入唐のうまのはなむけの講師、淸昭法橋のせられし日こそまかりたりしか。さばかり道心の無きものゝ始めて心起ることこそ候はざりしか。

まづは神分の心經表白のたまひて鐘うち給へりしに、そこばく集まりたりし萬人さとこそ泣きて侍りしか。其は道理の事なり。又淸範律師犬のために法事しける人の講師に請ぜられていくを、淸昭律師同定の說法者なれば、いかゞすると聞くに、かしらつゝみて誰ともなくて聽聞しければ、「只今や過去聖靈は蓮臺のうへにてほとほえ給ふらむ」とのたまひけるを、「さればこそ、こと人はかく思ひよりなましや。猶かやうの魂しひある事はすぐれたるみばうぞかし」とこそほめ給ひけれ。まことに承りしにをかしくこそ侍りしか。これは又聽聞の衆どもさゝと笑ひてまかり歸りにき。いと輕々になる徃生人なりやな。むげによしなし事に侍れど、人のかどかどしくたましひあることの興ありて、いうに覺え侍りしかばなり。

法成寺の五大堂の供養しはすには侍らずやな。極めて寒かりし頃、百僧なりしかば御堂の北の廂にこそは題名僧の座はせられたりしか。その料にその堂の庇はいれられたるなり。わざとの僧膳はせさせ給はで、ゆづけばかりたぶ。行事二人に五十人づゝ分たせ給ひて、僧座せられたる御堂の南おもてに鼎をたてゝ湯をたぎらかしつゝ、おものを入れて、いみじう熱くて參らせ渡したるを、ぬるくこそはあらめと僧たち思ひてざふざふと參りたるぞ、はしたなききはに暑かりければ、北風はいとつめたきにさばかりにはあらでいとよくまゐりたるみ房たちも今はさはしけり。後に「北むきの座にていかに寒かりけむ」など殿の問はせたまひければ「しかじか候ひしかば、こよなくあたゝまりて寒さも忘れはべりき」と申されければ、行事だちをいとよしと思しめしたりけり。

ぬるくてまゐりたりと別の勘當などあるべきにはあらねど、殿を始め奉りて人にほめられ、行く末にもさこそありけれといはれたうばむは、たゞなるよりは惡しからずよき事ぞかし。いで又故女院の御賀にこの關白殿陵王、春宮大夫殿なつ蘇利舞はせ給へりしめでたさをいかに、陵王はいと氣高くあてに舞はせ給ひて祿賜はらせ給ひてもまひすてゝ、知らぬさまにて入らせ給ひぬる美くしさめでたさにならぶ事あらじと見參らするに、なつそりのいとかしこく又かうこそはありけめと見えて舞はせ給ふに、御祿をこれはいとしたゝかに御肩にかけさせ給ひて、今一かへりえもいはず舞はせ給へりし。今日は又かゝるべかりける業かなとこそ見え侍りしか。御師の陵王は必ず御祿はすてさせ給ひてむぞ、同じ樣にせさせ給はむめなれたるべければ、さまかへさせ奉り給へるなりけり。

心ばせまさりたりとこそいはれ侍りしか。女院かうむり給はせしは大夫殿をいみじくかなしがり申させ給へばとぞ。陵王の御師は賜はらでいとからかりけり。それにこそ北の政所少しむつがらせ給ひけれ。さて後にこそ給はすめりしか。かたのやうに舞はせ給ふとも、あしかるべき御年の程にもおはしまさず、わろしと人申すべくも侍らざりしに、二所ながらこの世の人と見えさせ給はで、天童などのおりきたるとこそ見えさせ給ひしか。又この大宮の大原野の行啓はいみじく侍りし事ぞや。雨のふりしこそいと口をしう侍りしことよ。舞ひ人にたれたれそれぞれの君達など數へて一の舞はこの關白殿の君とこそはまはせ給ひしか。試樂の日搔練襲の下がさね、黑半臂奉りたりしはめづらしく侍りしものかな。わきあけに人のき給へりしは、まだ見侍らざりしば、行啓には入道殿のなにがしといひし御馬に奉りて、御隨身四人と我もらんもんにあげさせ給へりしはきやうきやうしかりしものかな。

公忠がすこしひかへつゝ所おき申しゝを制せさせ給ひしかば、猶少し恐れ申すまでこそありしか。かしこく京の程は雨も降らざりしぞかし。閑院の太政大臣殿の西の七條より歸らせ給ひしこそ入道殿いみじう恨み申させ給ひけれ。堀川左大臣殿は御社まで仕うまつらせ給ひて御ひきいで物御馬ありき。枇杷殿の宮中宮とはこがねづくりの御車にて、まうち君たちのやんごとなき限えらせ給へる御まへ具し申させ給へりき。御車のしりには皇后宮の御めのと維經のぬしの御母、中宮の御めのと兼安實任ぬしの御母こそ侍ひけれ。殿の君達まだ男にならせ給はぬわらはにて皆仕うまつらせ給へりき。ついでなきことに侍れど、物のけと人の申しゝ事どものさせる事なくてやみにしはさきの一條院の御即位の日、大極殿の御裝束すとて人々あつまりたるに、たかみくらの內に髮つきたるものゝかしらのちうちつきたるを見つけたりける、あさましくいかゞすべきと行事思ひあつかひて、かばかりの事を隱すべきかはとて、大入道殿に「かゝる事なむ候ふ」となにがしのぬしして申させけるをいとねぶたげなる御けしきにもてなさせ給ひて物も仰せられねば、もし聞しめさぬにやとて、又御けしきたまはれど、うちねぶらせ給ひて猶御いらへなし。

いとあやしく、さまで御殿籠り入りたるとは見えさせ給はぬに、いかなればかくておはしますぞと思ひて御前に侍ふにうち驚かせたまふさまにて「御裝束ははてぬなりや」と仰せらるゝに、聞かせ給はぬやうにてあらむと思しめしけるにこそと心えて、たちたうびける。げにかばかりのいはひの御こと、又今日になりてとまらむもいまいましきに、やをら引き隱してあるべかりける事を、心もなく申すものかなと、いかにおぼしめし候ふらむと後にぞその殿もいみじく悔しがり給ひける。さる事なりかしな。さればなでふの事か坐します。よき事にこそありけれ。又大宮のいまだをさなくおはしましける時、北の政所具し奉らせ給ひて春日にまゐらせ奉りけるに、おまへのものどもの參らせすゑたりけるを、俄につじ風の吹きまろびて、東大寺大佛殿の御まへにおとしたりけるを春日の御まへなるものゝ源氏の氏寺にとられたるを、よからぬ事にやとこれをもてそのをり世ひと申しゝかど、永く御末つがせたまふは吉相にこそはありけれとぞ覺え侍るな。

夢も現もこれはよきことゝ人申せど、させることなくてやむこと侍り。かやうにあやしだちて見給へ聞ゆる事もかくよき事も候ふな。まことに世の中にいくそばく哀にもめでたくも興ありて、うけたまはり見給へ集めたることの數しらず積りて侍るが翁どもとか人々思しめす。やんごとなくも又下りても、ま近くみす簾垂の內ばかりやおぼつかなさ殘りて侍らむ。それなりともおのおの宮殿ばら次々の人のあたりに、人のうち聞くばかりの事は女房わらはべ申し傳へぬやうやは侍る。さればそれも不意に承らずしも候はず。されどそれをば何とかは語り申さむずる。唯世にとりて人の御耳とゞめさせ給ひぬべかりし昔の事ばかりをかくかたり申すだに、いとをこがましげに御覽じおこする人もおはすめり。今日は唯殿のめづらしう興ありげにおぼして、あとをよううたせ給ふにはやされ奉りて、かばかりも口あけそめて侍ればなかなかのこりおほく、又々申すべき事はごもなく侍るを、若しまことに聞しめしはてまほしくば駄一疋をたまはせよ。

はひのりて參り侍らむ。かつは又やどりに參りて殿の御才學のほども承らまほしう思ひ給ふるやうは、いまだ年ごろかばかりもさしらひし給ふ人に對面たまはらぬに、時々くはへさせ給ふ御ことばのみ奉るは、翁らがやしは子のほどにこそはと覺えさせ給ふに、このしろしめしなる事どもは、思ふにふるき御日記などを御覽ずるならむかしとこゝろにくゝ、下﨟はさばかりのざえはいかでか侍らむ。唯見聞き給へし事を心に思ひおきて、かくさかしがり申すにこそあれ。まことに人にあひ奉りては、思し咎め給ふことも侍らむとはづかしうおはしませば、事はおいの學問にも承りあかさまほしうこそ侍れ』といへば繁樹も『たゞかうなりかうなり。さらむをりは必ず吿げ給ふべきなり。杖にかゝりても參りあひ申し侍らむ』とうなづきあはす。

『たゞしさまでのわきまへをばせぬ若き人々は、そら物語する翁かなとおぼすもあらむ。我が心におぼえて一言も空しき事加へて侍らば、この御寺の三寶今日の座の戒わしやうに請ぜられ給ふ佛菩薩を證とし奉らむ。中にも若うより十戒の中に妄語をば保ちて侍る身なればこそ命もたもちて候へば、今日この御寺のむねとそれを授け給ふ。講の庭にしも參りてあやまち申すべきならず。大かた世のはじめは人の壽は八萬歲なり。それがやうやう滅しもていきて百歲になる時に佛いでおはしますなり。されど生死の定なきよしを人にしめし給ふとて猶二十年つゞめて八十と申しゝ年入滅せさせ給ひにき。その年より今年まで一千九百七十三年になり侍りぬる。釋迦如來滅したまふを期にて八十に究むべけれども、佛の命を不定なりと見せさせ給ふにや、この頃も九十百の人おのづから聞え侍るめれどこの翁どもの命はまれなる事甚深甚深希有希有なりとはこれを申すべきなり。

いとむかしはかばかりの人侍り。神武天皇をはじめ奉りて二十餘代までの間に十代ばかりがほどは百歲百餘歲までは持ち給へる御門もおはしましたれど、末代にはけやけき命もちて侍る翁どもなりかし。かゝれば前生にも戒をうけたもちて候ひけると思ひ給ふれば、この生にも破らでまかりかへらむとおもう給ふるなり。今日この御堂に影向し給ふらむ神明冥道たちも聞しめせ』とうちいひて、したりがほに扇うちつかひつゝ見かはしたるけしきことわりに、何事よりもおほやけわたくしうらやましくこそ侍りしか。『さてもさても繁樹が年かぞへさせたまへ。たゞなるよりは年を知り侍らぬが口惜しきに』といへば、侍『いでいで』とて、『十三にておほき大殿にまゐりきとたのまへば、十ばかりにて陽成院おりさせ給ふ年はいますかりけるにこそ。

これにて推し思ふに、あの世繼の主は今十餘年がおとゝにこそあめれば百七十には少し餘り、八十にも及ばれにたるべし』など手を折りかぞへて『いとかばかりのみとしどもは相人などに相ぜられやせし』と問へば『させる人にも見え侍らざりき。唯こまうどのもとに二人つれて罷りたりしかば、二人長命と申しゝかど、いとかばかりまで侍ふべしとは思ひかけ候ふべきことか。異ごと問はむと思う給へし程に、昭宣公の君達三人おはしましにしかばえ申さずなりにき。其ぞかし、時平のおとゞをば「御かたちすぐれ、心だましひかしこく、日本のかためと用ゐむに餘らせ給へり」と申す。枇杷殿仲平をば「あまり御心うるはしくすなほにて謟ひかざりたる事なくて、日本の小國にはおはせぬ相なり」と申す。貞信兵をば、「あはれ日本のかためやな。かく世をつぎ門を開く事唯この殿」と申したれば「我をあるが中にざえなく心てんごくなりと、かくいふはづかしきこと」と仰せらけるは。

されどその儀にたがはずかどをひろげ榮花をひらかせ給へば、なほいみじかりと思ひ侍りて、又まかりたりしに、小野宮どのおはしましゝかばえ申さずなりにき。ことさらに怪しき姿をつくりて下﨟のなかに遠く居させ給へりしを、多かりし人のなかより延びあがり見奉りて、およびをさして物を申しゝかば何事ならむと思ひ給へしを、後にうけたまはりしかば、貴臣よと申しけるなり。あるはいと若くおはします程なりかしな。いみじきあざれ事どもに侍れど、誠にこれは德入りたる翁どもに候ふ。などか人のゆるさせ給はざらむ。又拙き下﨟のさる事もありけるはときこしめせ。亭子院の河尻におはしましゝに、しろ女といふあそびもの召して御覽じなどせさせ給ひて「遙に遠く侍ふよし歌に仕うまつれ」と仰事ありければ、よみて奉りし、

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