第56話物語抄訳
賢木巻(野宮の別れ)
六条御息所は、娘が伊勢の斎宮に選ばれたのを機に、源氏との苦しい恋を断ち切ろうと、娘に付き添って伊勢へ下ることを決心された。斎宮となる姫君は、伊勢へ下る前に、嵯峨野の野宮で一年間、身を清めて過ごす。御息所もそこにいらっしゃった。
九月七日ごろ、伊勢への出発が今日明日に迫ったころ、源氏は、さすがにこのまま別れるのは心苦しくて、野宮をお訪ねになった。
はるかに広がる野辺を分け入っていかれると、たいそうしみじみとした趣がある。秋の花はみなしおれて、浅茅が原も枯れ枯れで、かすれた虫の音に、松風がものすごく吹き合わせて、何の曲とも聞き分けられないほどに、琴の音が途切れ途切れに聞こえてくるのが、たいそう優艶である。
黒木の鳥居が、さすがに神々しく見渡されて、小柴垣を外囲いにして、板葺きの家々があちこちに仮普請のようである。神官たちがあちこちで咳払いをして、何となく人の気配が少なくもの寂しい。
源氏は榊の枝を少し折って持っていらっしゃったのを、御簾の中に差し入れて、「変わらぬ心に導かれて、神の斎垣をも越えてまいりました」と申し上げる。御息所は「ここには目印の杉もありませんのに、どう間違えて榊を折っていらっしゃったのでしょう」と答えられる。
夜通し語り合ううちに、恨みも薄らぎ、御息所の心は揺らぐ。しかし夜明けとともに、二人は別れた。「暁の別れはいつも露けきを、これは世に知らぬ秋の空かな」。御息所は、娘とともに伊勢へ下っていかれた。
嵯峨野の野宮神社には、今も黒木の鳥居と小柴垣が残り、竹林の道の奥に静かにたたずんでいる。