第176話説話抄訳・要確認
「むじな」(Mujina)
東京の赤坂の通りに、紀国坂という坂がある。紀伊の国の坂という意味だが、なぜそう呼ばれるのかは知らない。坂の片側には深く広い古い濠があり、高い緑の土手の上に庭園がある。もう片側には、宮邸の長い塀が続いている。街灯や人力車がなかったころ、このあたりは日が暮れると、まったく人通りの絶える寂しい場所であった。遅く帰る者は、日が沈んだあと、ひとりで紀国坂を登るくらいなら、何里も回り道をしたものである。それというのも、このあたりに、むじなが出たからである。
ある晩遅く、京橋の商人の老人が紀国坂を急いで登っていると、濠のそばに一人の女がうずくまり、ひどく泣いているのが見えた。身投げでもするのではないかと心配になり、老人は立ち止まって声をかけた。身なりのよい、良家の娘のようで、髪もきれいに結い上げている。
「お女中、そんなに泣きなさるな。何か困ったことがあるなら、話してごらんなさい。力になりましょう」。女は、長い袖で顔を隠したまま、泣き続けている。老人は、女の肩に軽く手を置いて、何度もやさしく言い聞かせた。「お女中、お女中、どうか聞いておくれ……」。
すると女は、ゆっくりと振り向き、袖を下ろして、手で顔をなでた。老人が見ると、その顔には目も鼻も口もなかった。老人は悲鳴を上げて逃げ出した。
真っ暗な坂道を、老人は後ろも見ずに走り続けた。はるか先に、提灯の明かりが見えた。道ばたに屋台を出している蕎麦屋であった。老人はその足もとに倒れ込み、「ああ、ああ」と言うばかりであった。
「どうしなすった。追いはぎにでもやられたかね」と蕎麦屋が尋ねた。「いや、そうではない。見たのだ……女を見たのだ、濠のそばで……その女が、わしに見せたのだ……ああ、何を見せたかは、とても言えぬ」。
「へえ、その女の見せたものは、こんなものでしたかい」。そう言って、蕎麦屋は自分の顔をつるりとなでた。その顔は、卵のようにのっぺりとしていた。と同時に、提灯の火がふっと消えた。
紀国坂は、今の港区元赤坂、赤坂見附から四ツ谷へ上る坂で、坂の名は紀州徳川家の屋敷があったことにちなむ。濠の側は今も弁慶濠が残っている。