遠野物語 全文

柳田國男(語り手 佐々木喜善) 1910年 序と119話・原文つき

原文:青空文庫『遠野物語』(底本:岩波文庫『遠野物語・山の人生』1976年)。現代語訳は原文からの訳。小見出しは訳者による。「*」は柳田国男の注、「※」は訳者の補足。

話の一覧
  1. 序
  2. 一遠野という土地
  3. 二三人の女神
  4. 三黒髪の山女
  5. 四笹原を歩く女
  6. 五笛吹峠
  7. 六さらわれた長者の娘
  8. 七五葉山の岩屋
  9. 八サムトの婆
  10. 九「面白いぞー」
  11. 一〇遠い叫び声
  12. 一一母殺し
  13. 一二乙爺
  14. 一三峠の甘酒売り
  15. 一四オクナイサマとオシラサマ
  16. 一五田植えを手伝う小僧
  17. 一六コンセサマ
  18. 一七ザシキワラシ
  19. 一八孫左衛門の家を去る娘たち
  20. 一九毒きのこ
  21. 二〇蛇塚
  22. 二一狐を飼いならした学者
  23. 二二炭取りが回る
  24. 二三門口の後ろ姿
  25. 二四大同という家
  26. 二五片方だけの門松
  27. 二六田圃の家の彫刻師
  28. 二七黄金の出る石臼
  29. 二八焼け石を食べた坊主
  30. 二九鶏頭山の三人の大男
  31. 三〇地竹の中の大男
  32. 三一さらわれる子どもたち
  33. 三二白い鹿と千晩ヶ岳
  34. 三三白望の山の不思議
  35. 三四小屋をのぞく女
  36. 三五宙を走る女
  37. 三六二ツ石山の狼
  38. 三七二、三百頭の狼
  39. 三八狼のまね
  40. 三九食われた鹿
  41. 四〇草に隠れる狼
  42. 四一狼の大移動
  43. 四二鉄と雌狼
  44. 四三熊と取っ組み合った熊
  45. 四四小屋をのぞく猿
  46. 四五猿の経立
  47. 四六鹿笛に寄ってきた猿
  48. 四七「六角牛の猿が来るぞ」
  49. 四八仙人峠の猿
  50. 四九仙人堂の落書き
  51. 五〇カッコ花
  52. 五一オット鳥
  53. 五二馬追鳥
  54. 五三カッコウとホトトギス
  55. 五四淵の底の機織り
  56. 五五河童の子
  57. 五六赤い子
  58. 五七河童の足跡
  59. 五八馬に引きずられた河童
  60. 五九赤い顔の河童
  61. 六〇銃に詰められた土
  62. 六一白い鹿と黄金の弾
  63. 六二赤い衣の大坊主
  64. 六三マヨイガ
  65. 六四二度目のマヨイガ
  66. 六五安倍ヶ城の錠の音
  67. 六六早池峰と安倍氏
  68. 六七貞任の陣屋跡
  69. 六八安倍家と八幡太郎
  70. 六九オシラサマのはじまり
  71. 七〇オクナイサマのいる家
  72. 七一秘密の念仏
  73. 七二子どもと遊ぶカクラサマ
  74. 七三カクラサマの像
  75. 七四カクラサマという名
  76. 七五長者屋敷の女
  77. 七六五つ葉のうつぎ
  78. 七七雨だれ石を枕にした男
  79. 七八雪合羽の人
  80. 七九雲壁にはりつく男
  81. 八〇遠野の家のつくり
  82. 八一青ざめた顔
  83. 八二手の上に重なる顔
  84. 八三開けてはならない葛籠
  85. 八四海辺の西洋人
  86. 八五白い肌の兄弟
  87. 八六胴突きに来た病人
  88. 八七こぼされたお茶
  89. 八八常堅寺を訪ねた老人
  90. 八九愛宕山の山の神
  91. 九〇天狗森の大男
  92. 九一鳥御前
  93. 九二「小国さ行く」
  94. 九三「お前の子はもう死んでいるぞ」
  95. 九四狐と相撲
  96. 九五空に昇る石
  97. 九六「火事だ、火事だ」
  98. 九七けしの花の野
  99. 九八道ばたの石
  100. 九九霧の中の妻
  101. 一〇〇妻に化けた狐
  102. 一〇一起き上がる死人
  103. 一〇二小正月の夜
  104. 一〇三雪女
  105. 一〇四胡桃の月占い
  106. 一〇五世中見
  107. 一〇六山田の蜃気楼
  108. 一〇七山の神にもらった木の葉
  109. 一〇八心を読む占い師
  110. 一〇九雨風祭
  111. 一一〇火を食べるゴンゲサマ
  112. 一一一ダンノハナと蓮台野
  113. 一一二蝦夷屋敷と土器
  114. 一一三ジョウヅカ森
  115. 一一四ダンノハナの青石
  116. 一一五昔々
  117. 一一六ヤマハハと娘
  118. 一一七おりこひめこ
  119. 一一八紅皿欠皿
  120. 一一九獅子踊りの歌

この書を、外国にいる人々にささげる。

序

地図の話「遠野の町」へ
原文
 この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。この書のごときは陳勝呉広のみ。  昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町場三ヶ所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀少なること北海道石狩の平野よりも甚だし。或いは新道なるが故に民居の来たり就ける者少なきか。遠野の城下はすなわち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独り郊外の村々を巡りたり。その馬は黔き海草をもって作りたる厚総を掛けたり。虻多きためなり。猿ヶ石の渓谷は土肥えてよく拓けたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。高処より展望すれば早稲まさに熟し晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。稲の色合いは種類によりてさまざまなり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきはすなわち一家に属する田にしていわゆる名処の同じきなるべし。小字よりさらに小さき区域の地名は持主にあらざればこれを知らず。古き売買譲与の証文には常に見ゆる所なり。附馬牛の谷へ越ゆれば早池峯の山は淡く霞み山の形は菅笠のごとくまた片仮名のへの字に似たり。この谷は稲熟することさらに遅く満目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鶏かと思いしが溝の草に隠れて見えざればすなわち野鳥なることを知れり。天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被り童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋しく女は笑い児は走れどもなお旅愁をいかんともする能わざりき。盂蘭盆に新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽の徒多く岡の上に灯火見え伏鉦の音聞えたり。道ちがえの叢の中には雨風祭の藁人形あり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥してありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。  思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもって他人に強いんとするは無作法の仕業なりという人あらん。されどあえて答う。かかる話を聞きかかる処を見てきてのちこれを人に語りたがらざる者果してありや。そのような沈黙にしてかつ慎み深き人は少なくも自分の友人の中にはあることなし。いわんやわが九百年前の先輩『今昔物語』のごときはその当時にありてすでに今は昔の話なりしに反しこれはこれ目前の出来事なり。たとえ敬虔の意と誠実の態度とにおいてはあえて彼を凌ぐことを得という能わざらんも人の耳を経ること多からず人の口と筆とを倩いたること甚だ僅なりし点においては彼の淡泊無邪気なる大納言殿かえって来たり聴くに値せり。近代の御伽百物語の徒に至りてはその志やすでに陋かつ決してその談の妄誕にあらざることを誓いえず。窃にもってこれと隣を比するを恥とせり。要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもってするも立派なる存在理由ありと信ず。ただ鏡石子は年わずかに二十四五自分もこれに十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生まれながら問題の大小をも弁えず、その力を用いるところ当を失えりという人あらば如何。明神の山の木兎のごとくあまりにその耳を尖らしあまりにその眼を丸くし過ぎたりと責むる人あらば如何。はて是非もなし。この責任のみは自分が負わねばならぬなり。 おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも 柳田国男

ここに書いた話は、すべて遠野の人、佐々木鏡石君から聞いたものだ。去年、明治四十二年の二月ごろから、彼はときどき夜に訪ねてきて、こうした話をしてくれた。私はそれを書き留めた。

鏡石君は話し上手ではないが、誠実な人である。私もまた、一字一句足したり削ったりせず、感じたままを書いた。

遠野郷には、こうした話がまだ何百もあるだろう。もっと聞きたいと、私は心から願っている。遠野よりさらに山深い村々には、山の神や山人の伝説が、また数えきれないほどあるはずだ。どうかそれを語って、平地に住む人々を震え上がらせてほしい。この本などは、その先駆けにすぎない。

去年の八月の末、私は遠野郷を訪ねた。

花巻から十里あまりの道のりで、途中に町は三つしかない。あとはただ青い山と野原が続く。人家の少なさは、北海道の石狩平野よりもひどいほどだ。新しく開かれた道なので、まだ住みつく人が少ないのかもしれない。それに比べると、遠野の城下はにぎやかな町で、花街まである。

宿の主人に馬を借りて、ひとりで近くの村々を回った。馬は、黒い海草で編んだ厚い房飾りをつけていた。虻が多いからだ。

猿ヶ石川の谷は土が肥えていて、よく開けている。道ばたの石塔の多さは、ほかの土地とは比べものにならない。高いところから見渡すと、早稲はちょうど実り、晩稲は花盛りで、田の水はすっかり落とされて川へ流れていた。稲の色は品種ごとに違う。三枚、四枚、五枚と同じ色の田が続いていれば、それは一軒の家の田で、田の呼び名も同じなのだろう。こうした小さな地名は、持ち主でなければ知らない。古い土地の証文にだけ、いつも出てくる名前である。

附馬牛の谷へ越えると、早池峰山が淡くかすんで見えた。菅笠のような形で、片仮名の「へ」の字にも似ている。この谷は稲の実りがさらに遅く、見渡すかぎり一面の青だった。

細いあぜ道を行くと、名も知らない鳥がひなを連れて横切っていった。ひなは黒に白い羽が混じっている。はじめは小さなニワトリかと思ったが、溝の草に隠れて見えなくなったので、野の鳥だとわかった。

天神の山では祭りがあり、獅子踊りをしていた。そこだけ土ぼこりが軽く舞い、赤いものがちらちらと動いて、村じゅうの緑に映えていた。獅子踊りとは鹿の舞である。鹿の角をつけた面をかぶり、五、六人の子どもが剣を抜いていっしょに舞う。笛の音は高く、歌声は低いので、すぐそばにいても聞き取りにくい。

日が傾き、風が吹いてきた。酔って人を呼ぶ声もさびしい。女たちは笑い、子どもたちは走り回っている。それでも、旅の愁いはどうにもならなかった。

お盆に新しい仏が出た家では、紅白の旗を高く掲げて魂を招く。峠の上で馬を止め、東西を見渡すと、その旗が十数か所に見えた。やがてこの土地を去っていく村人も、ふらりと立ち寄った旅人も、そしてあの悠然とした霊山も、ゆっくりと訪れた夕暮れが、すべてを包みこんでいった。

遠野郷には八つの観音堂があり、どれも一本の木から彫った観音さまだ。この日はお礼参りの人が多く、丘の上に灯が見え、鉦の音が聞こえた。道の分かれ目の草むらには、雨風祭の藁人形が、疲れた人のようにあおむけに寝ていた。

これが、私が遠野郷で受けた印象である。

こういう本は、少なくともいまの流行ではない。いくら印刷が手軽になったとはいえ、こんな本を出して自分の狭い趣味を人に押しつけるのは無作法だ、と言う人もいるだろう。

だが、あえて言いたい。こんな話を聞き、こんな土地を見てきて、人に話したくならない人がいるだろうか。そこまで無口で慎み深い人は、少なくとも私の友人にはいない。

九百年前の大先輩『今昔物語』は、当時すでに「今は昔」の話だった。けれどもこの本の話は、いま目の前で起きていることだ。敬虔さや誠実さで、あの本にまさるとは言わない。しかし、多くの人の口を経ず、人の筆にもほとんど触れていないという点では、あの無邪気な大納言殿(『今昔物語』の編者とされる源隆国)こそ、ここへ聞きに来る値打ちがあるだろう。近ごろの怪談本などは、志が卑しいうえに、作り話でないとも言いきれない。それと並べられるのは、ひそかに恥ずかしい。

つまり、この本は「いまの事実」を書いたものだ。それだけで、十分に世に出す理由があると私は信じている。

ただ、鏡石君はまだ二十四、五歳、私もその十歳上にすぎない。仕事の山積みのこの時代に、物事の軽重もわきまえず、力の使いどころを間違えている――そう責められたらどうしよう。明神の山のミミズクのように、耳をとがらせ、目を丸くしすぎている、と言われたらどうしよう。いや、しかたがない。その責めだけは、私が負うほかない。

年寄りじみて、飛びもせず鳴きもしない
遠くの森のふくろうは、笑っているだろうか

柳田国男

一遠野という土地

原文
遠野郷は今の陸中上閉伊郡の西の半分、山々にて取り囲まれたる平地なり。新町村にては、遠野、土淵、附馬牛、松崎、青笹、上郷、小友、綾織、鱒沢、宮守、達曾部の一町十ヶ村に分かつ。近代或いは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠野保とも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなわち一郷の町場にして、南部家一万石の城下なり。城を横田城ともいう。この地へ行くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上川を渡り、その川の支流猿ヶ石川の渓を伝いて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝えいう、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落をなせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落合うもの甚だ多く、俗に七内八崎ありと称す。内は沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。 ○遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖という語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。

遠野郷は、いまの岩手県上閉伊郡の西半分にあたる、山に囲まれた盆地である。町村でいえば、遠野町と、土淵・附馬牛・松崎・青笹・上郷・小友・綾織・鱒沢・宮守・達曾部の十か村に分かれる。江戸時代には西閉伊郡、中世には遠野保とも呼ばれた。

中心の遠野町は郡役所のある町で、南部家一万石の城下町だ。城は横田城ともいう。

行くには、花巻駅で汽車を降りて北上川を渡り、支流の猿ヶ石川の谷を東へ十三里さかのぼる。山奥には珍しい、にぎやかな町である。

言い伝えでは、遠野郷は大昔、一面の湖だった。その水が猿ヶ石川となって流れ出たあとに、村里ができたのだという。だから猿ヶ石川に注ぐ谷川はとても多く、「七内八崎(ななないやさき)」があるといわれる。「内(ない)」は沢や谷のことで、東北の地名によく見られる。

*遠野の「トー」は、アイヌ語で湖を意味する言葉から来たのだろう。「ナイ」もアイヌ語である。

二三人の女神

地図の話「早池峰山」へ
原文
遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七七十里とて、七つの渓谷おのおの七十里の奥より売買の貨物を聚め、その市の日は馬千匹、人千人の賑わしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯という、北の方附馬牛の奥にあり。東の方には六角牛山立てり。石神という山は附馬牛と達曾部との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ないてこの高原に来たり、今の来内村の伊豆権現の社あるところに宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与うべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃にこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、ついに最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神おのおの三の山に住し今もこれを領したもう故に、遠野の女どもはその妬を畏れて今もこの山には遊ばずといえり。 ○この一里は小道すなわち坂東道なり、一里が五丁または六丁なり。 ○タッソベもアイヌ語なるべし。岩手郡玉山村にも同じ大字あり。 ○上郷村大字来内、ライナイもアイヌ語にてライは死のことナイは沢なり、水の静かなるよりの名か。

遠野の町は、南と北から来る川が合わさるところにある。昔は「七七十里(しちしちじゅうり)」といって、七つの谷の七十里奥から荷が集まり、市の日には馬千頭、人千人でにぎわった。

まわりの山々でいちばん高く美しいのが早池峰山で、北の附馬牛の奥にある。東には六角牛山がそびえる。石神山は附馬牛と達曾部のあいだにあり、前の二つよりは低い。

大昔、ひとりの女神が三人の娘を連れて、この高原にやって来た。

いまの来内村、伊豆権現の社のあたりに泊まった夜、母の神は言った。

「今夜いちばんよい夢を見た娘に、いちばんよい山をあげましょう」

夜ふけ、天から不思議な花が降ってきて、長女の胸の上にとまった。ところが末の娘が目を覚まし、そっとその花を取って、自分の胸にのせてしまった。

こうして末娘はいちばん美しい早池峰を、姉たちは六角牛と石神を手に入れた。三人の女神は、いまもそれぞれの山に住んで、山を治めている。

だから遠野の女たちは、女神にねたまれるのを恐れて、いまでもこれらの山には遊びに行かないという。

*ここでいう「里」は、一里が五、六町(六百メートルほど)の小さな里である。

*達曾部(タッソベ)もアイヌ語だろう。

*来内(ライナイ)もアイヌ語で、ライは死、ナイは沢。水が静かなことからついた名か。

三黒髪の山女

原文
山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりしころ猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りていたり。顔の色きわめて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに馳けつけて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。のちの験にせばやと思いてその髪をいささか切り取り、これを綰ねて懐に入れ、やがて家路に向いしに、道の程にて耐えがたく睡眠を催しければ、しばらく物蔭に立寄りてまどろみたり。その間夢と現との境のようなる時に、これも丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡は覚めたり。山男なるべしといえり。 ○土淵村大字栃内。

山の奥には山人が住んでいる。

栃内村和野の佐々木嘉兵衛という老人は、七十を過ぎていまも元気だ。若いころ、猟で山奥に入ると、はるか向こうの岩の上に美しい女がいて、長い黒髪をくしけずっていた。顔は透けるように白い。

嘉兵衛は度胸のある男だったので、すぐに銃を向けて撃った。女は倒れた。

駆け寄ってみると、背の高い女で、ほどいた黒髪は背丈よりも長い。証拠にしようと、髪を少し切り取って輪に束ね、懐に入れて帰り道についた。

途中、急にたまらなく眠くなった。物陰でうとうとしていると、夢ともうつつともつかないうちに、背の高い男が近づいてきて、懐に手を入れ、あの黒髪を取り返して去っていった。

はっと目が覚めた。あれは山男だったのだろう、という。

四笹原を歩く女

原文
山口村の吉兵衛という家の主人、根子立という山に入り、笹を苅りて束となし担ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心づきて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児を負いたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。きわめてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結いつけたる紐は藤の蔓にて、着たる衣類は世の常の縞物なれど、裾のあたりぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉などを添えて綴りたり。足は地に着くとも覚えず。事もなげに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方へか行き過ぎたり。この人はその折の怖ろしさより煩い始めて、久しく病みてありしが、近きころ亡せたり。 ○土淵村大字山口、吉兵衛は代々の通称なればこの主人もまた吉兵衛ならん。

山口村の吉兵衛という家の主人が、根子立という山で笹を刈っていた。束を背負って立ち上がろうとしたとき、笹原の上を風が渡っていくのに気づいた。

見ると、奥の林から、幼い子を背負った若い女が、笹の上を歩いてくる。たいそうあでやかな女で、やはり長い黒髪を垂らしていた。子どもを背負う紐は藤のつる。着物はふつうの縞物だが、裾はぼろぼろで、いろいろな木の葉を当てて綴ってあった。足は地についていないように見えた。

女は何事もないように近づいてきて、吉兵衛のすぐ前を通り過ぎ、どこかへ行ってしまった。

吉兵衛はそのときの恐ろしさで寝こみ、長く患ったすえ、最近亡くなった。

*吉兵衛は代々受け継ぐ名なので、この主人も吉兵衛だろう。

五笛吹峠

原文
遠野郷より海岸の田ノ浜、吉利吉里などへ越ゆるには、昔より笛吹峠という山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢うより、誰もみな怖ろしがりて次第に往来も稀になりしかば、ついに別の路を境木峠という方に開き、和山を馬次場として今は此方ばかりを越ゆるようになれり。二里以上の迂路なり。 ○山口は六角牛に登る山口なれば村の名となれるなり。

遠野から海辺の田ノ浜や吉利吉里へ抜けるには、昔から笛吹峠という山道があった。山口村から六角牛山の方へ入る近道である。

ところが近ごろ、この峠を越えると、必ず山男や山女に出会うようになった。みんな怖がって通らなくなり、とうとう境木峠の方に新しい道を開いた。いまは和山を馬の乗り継ぎ場にして、こちらを使っている。二里以上の回り道である。

*山口は六角牛山への登り口なので、それが村の名になった。

六さらわれた長者の娘

原文
遠野郷にては豪農のことを今でも長者という。青笹村大字糠前の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某という猟師、或る日山に入りて一人の女に遭う。怖ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何おじではないか、ぶつなという。驚きてよく見れば彼の長者がまな娘なり。何故にこんな処にはおるぞと問えば、或る物に取られて今はその妻となれり。子もあまた生みたれど、すべて夫が食い尽して一人此のごとくあり。おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。人にも言うな。御身も危うければ疾く帰れというままに、その在所をも問い明らめずして遁げ還れりという。 ○糠の前は糠の森の前にある村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森・糠塚多くあり。

遠野では、大きな農家をいまでも長者と呼ぶ。

青笹村糠前の長者の娘が、ある日ふっと姿を消し、何年もたった。

同じ村の猟師が山に入ると、ひとりの女に出会った。恐ろしくなって撃とうとすると、女が言った。

「なんとかおじさんでしょう。撃たないで」

よく見ると、あの長者の娘だった。

「どうしてこんなところに」

「ある者にさらわれて、いまはその妻です。子どももたくさん産んだけれど、みんな夫が食べてしまって、このとおりひとりきり。私はここで一生を終えるでしょう。誰にも言わないで。あなたも危ないから、早くお帰りなさい」

猟師は、娘がどこにいるのかも確かめずに、逃げ帰ったという。

*糠前は、糠森の前にある村。糠森は各地にある糠塚と同じもので、遠野にも多い。

七五葉山の岩屋

原文
上郷村の民家の娘、栗を拾いに山に入りたるまま帰り来たらず。家の者は死したるならんと思い、女のしたる枕を形代として葬式を執行い、さて二三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五葉山の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽いかかりて岩窟のようになれるところにて、図らずこの女に逢いたり。互いに打ち驚き、いかにしてかかる山にはおるかと問えば、女の曰く、山に入りて恐ろしき人にさらわれ、こんなところに来たるなり。遁げて帰らんと思えど些の隙もなしとのことなり。その人はいかなる人かと問うに、自分には並の人間と見ゆれど、ただ丈きわめて高く眼の色少し凄しと思わる。子供も幾人か生みたれど、我に似ざれば我子にはあらずといいて食うにや殺すにや、みないずれへか持ち去りてしまうなりという。まことに我々と同じ人間かと押し返して問えば、衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがえり。一市間に一度か二度、同じようなる人四五人集まりきて、何事か話をなし、やがて何方へか出て行くなり。食物など外より持ち来たるを見れば町へも出ることならん。かく言ううちにも今にそこへ帰って来るかも知れずという故、猟師も怖ろしくなりて帰りたりといえり。二十年ばかりも以前のことかと思わる。 ○一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間はすなわち五日のことなり。

上郷村の農家の娘が、栗拾いに山へ入ったまま帰らなかった。家族は死んだものとあきらめ、娘の枕を身代わりに葬式を出した。

二、三年たったころ、同じ村の猟師が五葉山の中腹で、大岩が覆いかぶさった岩屋のようなところに来ると、思いがけずその娘に出会った。

「どうしてこんな山の中に」

「山で恐ろしい人にさらわれて、ここへ連れてこられたの。逃げようと思っても、少しの隙もない」

「どんな人だ」

「私にはふつうの人に見えるけれど、背がとても高くて、目つきが少し怖い。子どもも何人か産んだけれど、自分に似ていないから自分の子じゃないと言って、食べるのか殺すのか、みんなどこかへ持っていってしまう」

「本当に、俺たちと同じ人間なのか」

「着ている物もふつう。ただ目の色が少し違う。五日に一度か二度、同じような人が四、五人集まってきて、何か話して、またどこかへ出ていく。食べ物を外から持ってくるから、町にも出ているんでしょう」

そして娘は言った。

「こうして話しているあいだにも、帰ってくるかもしれない」

猟師も怖くなって、急いで帰ってきた。二十年ほど前のことらしい。

*原文の「一市間(ひといちあい)」は、市の日から次の市の日までのこと。遠野の市は月六回なので、五日にあたる。

八サムトの婆

地図の話「松崎村・登戸」へ
原文
黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸というところの民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或る日親類知音の人々その家に集まりてありしところへ、きわめて老いさらぼいてその女帰り来たれり。いかにして帰って来たかと問えば人々に逢いたかりし故帰りしなり。さらばまた行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、きょうはサムトの婆が帰って来そうな日なりという。

夕暮れどきに外にいる女や子どもが神隠しにあうのは、よその土地と同じである。

松崎村の寒戸(さむと)というところの家で、若い娘が梨の木の下に草履を脱ぎ置いたまま、行方知れずになった。

三十年あまりたったある日、親類や知り合いがその家に集まっていると、ひどく年老いてやつれた女が帰ってきた。あの娘だった。

「どうして帰ってきたの」

「みんなに会いたくて。それじゃあ、また行きます」

そう言うと、女はまた跡形もなく消えてしまった。

その日は、風の激しく吹く日だった。だから遠野の人は今でも、風の騒がしい日には「きょうはサムトの婆が帰ってきそうな日だ」と言う。

九「面白いぞー」

原文
菊池弥之助という老人は若きころ駄賃を業とせり。笛の名人にて夜通しに馬を追いて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜に、あまたの仲間の者とともに浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取り出して吹きすさみつつ、大谷地というところの上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺の林しげく、その下は葦など生じ湿りたる沢なり。この時谷の底より何者か高き声にて面白いぞーと呼ばわる者あり。一同ことごとく色を失い遁げ走りたりといえり。 ○ヤチはアイヌ語にて湿地の義なり、内地に多くある地名なり。またヤツともヤトともヤともいう。

菊池弥之助という老人は、若いころ馬で荷を運ぶ仕事をしていた。笛の名人で、夜通し馬を追うときは、よく笛を吹きながら歩いた。

ある薄月夜、仲間たちと海辺へ越える境木峠を行く途中、また笛を吹き興じながら、大谷地(おおやち)という深い谷の上を通りかかった。白樺の林が茂り、その下は葦の生えた湿地である。

そのとき、谷の底から大きな声がした。

「面白いぞー」

一同まっ青になって、逃げ出したという。

*ヤチはアイヌ語で湿地のこと。ヤツ、ヤト、ヤともいい、各地の地名に多い。

一〇遠い叫び声

原文
この男ある奥山に入り、茸を採るとて小屋を掛け宿りてありしに、深夜に遠きところにてきゃーという女の叫び声聞え胸を轟かしたることあり。里へ帰りて見れば、その同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子のために殺されてありき。

この弥之助が、山奥できのこを採るため小屋に泊まっていたときのこと。真夜中、遠くで女の「きゃー」という叫び声がして、胸がざわついた。

里に帰ってみると、その夜の同じ時刻に、弥之助の妹がその息子に殺されていた。

一一母殺し

原文
この女というは母一人子一人の家なりしに、嫁と姑との仲悪しくなり、嫁はしばしば親里へ行きて帰り来ざることあり。その日は嫁は家にありて打ち臥しておりしに、昼のころになり突然と倅のいうには、ガガはとても生かしては置かれぬ、今日はきっと殺すべしとて、大なる草苅鎌を取り出し、ごしごしと磨ぎ始めたり。そのありさまさらに戯言とも見えざれば、母はさまざまに事を分けて詫びたれども少しも聴かず。嫁も起き出でて泣きながら諫めたれど、露従う色もなく、やがて母が遁れ出でんとする様子あるを見て、前後の戸口をことごとく鎖したり。便用に行きたしといえば、おのれみずから外より便器を持ち来たりてこれへせよという。夕方にもなりしかば母もついにあきらめて、大なる囲炉裡の側にうずくまりただ泣きていたり。倅はよくよく磨ぎたる大鎌を手にして近より来たり、まず左の肩口を目がけて薙ぐようにすれば、鎌の刃先炉の上の火棚に引っかかりてよく斬れず。その時に母は深山の奥にて弥之助が聞きつけしようなる叫び声を立てたり。二度目には右の肩より切り下げたるが、これにてもなお死絶えずしてあるところへ、里人ら驚きて馳せつけ倅を取り抑え直に警察官を呼びて渡したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕えられ引き立てられて行くを見て、滝のように血の流るる中より、おのれは恨も抱かずに死ぬるなれば、孫四郎は宥したまわれという。これを聞きて心を動かさぬ者はなかりき。孫四郎は途中にてもその鎌を振り上げて巡査を追い廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里にあり。 ○ガガは方言にて母ということなり。

妹の家は母ひとり子ひとりだったが、嫁と姑の仲が悪く、嫁はたびたび実家に帰ったきり戻らなかった。

その日、嫁は家で横になっていた。昼ごろ、息子が突然言いだした。

「ガガ(母)はもう生かしておけない。きょうこそ殺す」

そして大きな草刈り鎌を取り出し、ごしごしと研ぎはじめた。とても冗談には見えない。母は必死に詫びたが、息子は聞かない。嫁も起きて泣きながら止めたが、まるで耳を貸さない。

母が逃げ出そうとするのを見ると、息子は前後の戸をすべて閉めてしまった。用を足したいと言えば、外から便器を持ってきて「これにしろ」と言う。

夕方になると、母もあきらめて、囲炉裏のそばにうずくまり、ただ泣いていた。

息子は研ぎ上げた鎌を手に近寄り、まず左の肩口を薙ぐように切りつけた。だが刃先が炉の上の火棚に引っかかって、深くは切れなかった。そのとき母は、山奥で弥之助が聞いたあの叫び声を上げた。

二度目は右の肩から切り下ろした。それでもまだ息のあるところへ、近所の人々が駆けつけて息子を取り押さえ、警官に引き渡した。警官がまだ棒を持っていたころのことである。

息子が引き立てられていくのを見て、母は滝のように流れる血の中から言った。

「私は恨まずに死ぬから、孫四郎は許してやってください」

これを聞いて、心を動かされない者はいなかった。

孫四郎は、連れていかれる途中でも鎌を振り上げて巡査を追い回したりしたが、正気ではないということで許されて家に帰り、いまも村で暮らしている。

一二乙爺

原文
土淵村山口に新田乙蔵という老人あり。村の人は乙爺という。今は九十に近く病みてまさに死なんとす。年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせ置きたしと口癖のようにいえど、あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々の館の主の伝記、家々の盛衰、昔よりこの郷に行われし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。 ○惜むべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり。

土淵村山口に、新田乙蔵という老人がいる。村の人は乙爺(おとじい)と呼ぶ。九十近くで、病気でいまにも死にそうだ。

遠野の昔のことをよく知っていて、「誰かに話しておきたい」と口癖のように言っていたが、あまりに臭いので、近寄って聞こうとする人がいなかった。あちこちの館(たて)の主の話、家々の栄えと衰え、昔からこの土地で歌われてきた歌、山奥の伝説やそこに住む人々の話――どれもこの老人がいちばんよく知っていた。

*惜しいことに、乙爺は明治四十二年の初夏に亡くなった。

一三峠の甘酒売り

原文
この老人は数十年の間山の中に独りにて住みし人なり。よき家柄なれど、若きころ財産を傾け失いてより、世の中に思いを絶ち、峠の上に小屋を掛け、甘酒を往来の人に売りて活計とす。駄賃の徒はこの翁を父親のように思いて、親しみたり。少しく収入の余あれば、町に下りきて酒を飲む。赤毛布にて作りたる半纏を着て、赤き頭巾を被り、酔えば、町の中を躍りて帰るに巡査もとがめず。いよいよ老衰して後、旧里に帰りあわれなる暮しをなせり。子供はすべて北海道へ行き、翁ただ一人なり。

乙爺は何十年も山の中でひとり暮らしをしてきた人だ。よい家の生まれだったが、若いころに財産を使い果たして世の中に見切りをつけ、峠の上に小屋を建てて、通る人に甘酒を売って暮らしていた。

馬で荷を運ぶ人たちは、この老人を父親のように慕った。少しでも稼ぎに余りがあると、乙爺は町へ下りて酒を飲んだ。赤い毛布で作った半纏を着て、赤い頭巾をかぶり、酔うと町なかを踊りながら帰ったが、巡査もとがめなかった。

すっかり年老いてからは故郷に戻り、寂しい暮らしをしている。子どもはみな北海道へ行ってしまい、ひとりきりである。

一四オクナイサマとオシラサマ

原文
部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマという神を祀る。その家をば大同という。この神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真中に穴を明け、これを上より通して衣裳とす。正月の十五日には小字中の人々この家に集まり来たりてこれを祭る。またオシラサマという神あり。この神の像もまた同じようにして造り設け、これも正月の十五日に里人集まりてこれを祭る。その式には白粉を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一帖の室あり。この部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭う。枕を反すなどは常のことなり。或いは誰かに抱き起こされ、または室より突き出さるることもあり。およそ静かに眠ることを許さぬなり。 ○オシラサマは双神なり。アイヌの中にもこの神あること『蝦夷風俗彙聞』に見ゆ。 ○羽後苅和野の町にて市の神の神体なる陰陽の神に正月十五日白粉を塗りて祭ることあり。これと似たる例なり。

どの集落にも必ず古い家が一軒あって、オクナイサマという神を祀っている。その家を大同(だいどう)という。

オクナイサマの像は、桑の木を削って顔を描き、四角い布の真ん中に穴をあけて頭からかぶせ、着物にしたものだ。正月十五日には、集落じゅうの人がこの家に集まって祭る。

オシラサマという神もいる。像の作り方は同じで、これも正月十五日に村人が集まって祭る。そのとき、神像の顔におしろいを塗ることがある。

大同の家には、必ず畳一枚だけの部屋がある。ここで寝ると、いつも不思議なことが起こる。枕をひっくり返されるのは当たり前。誰かに抱き起こされたり、部屋から押し出されたりもする。とにかく、静かに眠らせてくれないのだ。

*オシラサマは二体一組の神である。アイヌにもこの神がいることが『蝦夷風俗彙聞』に見える。

*秋田の苅和野の町でも、市の神である男女の像に、正月十五日におしろいを塗って祭る。よく似た例である。

一五田植えを手伝う小僧

原文
オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃の家という。この家にて或る年田植の人手足らず、明日は空も怪しきに、わずかばかりの田を植え残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方よりともなく丈低き小僧一人来たりて、おのれも手伝い申さんというに任せて働かせて置きしに、午飯時に飯を食わせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び帰りきて終日、代を掻きよく働きてくれしかば、その日に植えはてたり。どこの人かは知らぬが、晩にはきて物を食いたまえと誘いしが、日暮れてまたその影見えず。家に帰りて見れば、縁側に小さき泥の足跡あまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚のところに止りてありしかば、さてはと思いてその扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。

オクナイサマを祀ると、よいことが多い。

土淵村柏崎の長者・阿部家は、村では「田圃の家(たんぼのうち)」と呼ばれている。ある年、田植えの人手が足りず、「明日は天気もあやしいのに、少しばかり植え残すことになるのか」とこぼしていた。

すると、どこからともなく背の低い小僧がやって来て、「わたしも手伝いましょう」と言う。働かせておくと、昼ごはんのときにはいなくなり、またいつのまにか戻ってきて、一日じゅうよく田をならしてくれた。おかげでその日のうちに植え終わった。

「どこの人か知らないが、晩ごはんを食べていってください」

そう誘ったが、日が暮れるとまた姿が見えない。

家に帰ると、縁側に小さな泥の足跡がたくさんついていて、座敷の奥へ続き、オクナイサマの神棚の前で止まっていた。もしやと神棚の扉を開けてみると、神像の腰から下が、田んぼの泥にまみれていたという。

一六コンセサマ

原文
コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今はおいおいとその事少なくなれり。

コンセサマを祀る家も少なくない。ご神体はオコマサマによく似ている。オコマサマの社は村にたくさんある。石や木で男性のものをかたどって供えるのだが、いまではそうしたこともだんだん少なくなった。

一七ザシキワラシ

地図の話「土淵村山口」へ
原文
旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎という人の家にては、近きころ高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、或る日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これは正しく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。しばらくの間坐りて居ればやがてまた頻に鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり。 ○ザシキワラシは座敷童衆なり。この神のこと『石神問答』中にも記事あり。

古い家には、ザシキワラシという神が住んでいることが多い。たいてい十二、三歳くらいの子どもの姿で、ときどき人の前に現れる。

土淵村飯豊の今淵勘十郎の家では、高等女学校に通う娘が休みで帰っていたとき、廊下でばったりザシキワラシに出くわして、たいそう驚いた。まぎれもなく男の子だったという。

同じ村の山口の佐々木家では、母親がひとりで縫い物をしていると、隣の部屋で紙のがさがさいう音がした。そこは主人の部屋だが、主人は東京へ出かけていて留守だ。あやしいと思って板戸を開けたが、誰もいない。しばらく座っていると、今度はしきりに鼻を鳴らす音がする。さてはザシキワラシか、と思った。この家にザシキワラシがいることは、ずっと前から評判だった。

この神のいる家は、富み栄えて何不自由ないという。

*ザシキワラシは「座敷童衆」である。『石神問答』にもこの神の記事がある。

一八孫左衛門の家を去る娘たち

原文
ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来たる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸の毒に中りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近きころ病みて失せたり。

ザシキワラシには女の子もいる。

山口の旧家、山口孫左衛門の家には、女の子の神が二人いると昔から言われていた。

ある年、同じ村の男が町からの帰り道、留場の橋のあたりで、見慣れない美しい娘二人に出会った。何か思いつめたようすでこちらへ歩いてくる。

「どこから来たんだ」

「おら、山口の孫左衛門のところから来た」

「これからどこへ」

「どこそこの村の、なにがしの家へ」

その家は、少し離れた村の、いまも羽振りのよい豪農だった。孫左衛門の家ももう終わりだな、と男は思った。

それからまもなく、孫左衛門の家では主人と使用人の二十数人が、きのこの毒にあたって一日のうちに死に絶えた。七歳の女の子がひとりだけ生き残ったが、その人も年老いて子もなく、最近病気で亡くなった。

一九毒きのこ

原文
孫左衛門が家にては、或る日梨の木のめぐりに見馴れぬ茸のあまた生えたるを、食わんか食うまじきかと男どもの評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食わぬがよしと制したれども、下男の一人がいうには、いかなる茸にても水桶の中に入れて苧殻をもってよくかき廻してのち食えば決して中ることなしとて、一同この言に従い家内ことごとくこれを食いたり。七歳の女の児はその日外に出でて遊びに気を取られ、昼飯を食いに帰ることを忘れしために助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、或いは生前に貸ありといい、或いは約束ありと称して、家の貨財は味噌の類までも取り去りしかば、この村草分の長者なりしかども、一朝にして跡方もなくなりたり。

ある日、孫左衛門の家で、梨の木のまわりに見慣れないきのこがたくさん生えた。食べようか、やめようかと男たちが相談していると、最後の当主となる孫左衛門は「やめておけ」と止めた。

ところが下男のひとりが言った。

「どんなきのこでも、水桶に入れて苧殻(おがら)でよくかき回してから食べれば、絶対にあたらない」

みんなこれを信じて、家じゅうの者が食べてしまった。

七歳の女の子は、その日外で遊びに夢中になって、昼ごはんに帰るのを忘れたので助かった。

主人が急に死んで人々がうろたえているあいだに、遠い親類も近い親類も、生前に貸しがあった、約束があったと言っては、家の財産を味噌に至るまで持ち去ってしまった。村をはじめて開いた長者の家だったが、一夜にして跡形もなくなった。

二〇蛇塚

原文
この兇変の前にはいろいろの前兆ありき。男ども苅置きたる秣を出すとて三ツ歯の鍬にて掻きまわせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打ち殺したりしに、その跡より秣の下にいくらともなき蛇ありて、うごめき出でたるを、男ども面白半分にことごとくこれを殺したり。さて取り捨つべきところもなければ、屋敷の外に穴を掘りてこれを埋め、蛇塚を作る。その蛇は簣に何荷ともなくありたりといえり。

この不幸の前には、いろいろな前ぶれがあった。

男たちが刈っておいたまぐさを、三本歯の鍬でかき出そうとすると、大きな蛇が出てきた。主人は殺すなと止めたが、聞かずに打ち殺した。すると、まぐさの下から数えきれないほどの蛇がうようよと這い出してきた。男たちは面白半分に、それを全部殺してしまった。

捨てる場所もないので、屋敷の外に穴を掘って埋め、蛇塚を作った。蛇は、もっこで何杯運んだかわからないほどあったという。

二一狐を飼いならした学者

原文
右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み耽りたり。少し変人という方なりき。狐と親しくなりて家を富ます術を得んと思い立ち、まず庭の中に稲荷の祠を建て、自身京に上りて正一位の神階を請けて帰り、それよりは日々一枚の油揚を欠かすことなく、手ずから社頭に供えて拝をなせしに、のちには狐馴れて近づけども遁げず。手を延ばしてその首を抑えなどしたりという。村にありし薬師の堂守は、わが仏様は何ものをも供えざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ありと、たびたび笑いごとにしたりとなり。

孫左衛門は村では珍しい学者で、いつも京都から和漢の書物を取り寄せて読みふけっていた。少し変わった人だった。

狐と仲よくなって家を富ませる術を身につけようと思い立ち、まず庭に稲荷の祠を建て、自分で京都へ上って、最高位の「正一位」の位を受けてきた。それからは毎日欠かさず油揚げを一枚、自分の手で供えて拝んだ。やがて狐もなれて、近づいても逃げなくなり、手を伸ばして首を押さえることもできたという。

村の薬師堂の堂守は、「うちの仏様は何もお供えしないが、孫左衛門の神様よりご利益がある」と、よく笑い話にしていたそうだ。

二二炭取りが回る

原文
佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集まりきてその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むがところの風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡の両側に坐り、母人は旁に炭籠を置き、おりおり炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音してくる者あるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かがみて衣物の裾の引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目にも見覚えあり。あなやと思う間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取にさわりしに、丸き炭取なればくるくるとまわりたり。母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち臥したる座敷の方へ近より行くと思うほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に睡を覚しただ打ち驚くばかりなりしといえり。 ○マーテルリンクの『侵入者』を想い起こさしむ。

佐々木氏の曾祖母が年老いて亡くなったときのこと。棺に納めたあと、親族が集まって、その夜はみな座敷で寝た。亡くなった人の娘で、心を病んで離縁された女性もいっしょだった。

この土地では、喪のあいだ火を絶やしてはいけない。そこで祖母と母の二人だけが、大きな囲炉裏の両側に座っていた。母はそばに炭かごを置いて、ときどき炭を足していた。

ふと、裏口の方から足音がした。見ると、亡くなったはずの老女である。生前、腰が曲がって裾を引きずるので、裾を三角にからげて前で縫いとめていたが、まさにそのとおりの姿で、縞の柄にも見覚えがある。

あっと思う間もなく、老女は二人の座る炉のわきを通り抜けた。その裾が炭取りに触れ、丸い炭取りはくるくると回った。

母は気丈な人だったので、振り返って目で追った。老女が親族の寝ている座敷の方へ近づいたと思ったとたん、あの心を病んだ女が、けたたましい声で叫んだ。

「おばあさんが来た!」

寝ていた人々はその声で目を覚まし、ただ驚くばかりだったという。

*メーテルリンクの戯曲『侵入者』を思い出させる。

二三門口の後ろ姿

原文
同じ人の二七日の逮夜に、知音の者集まりて、夜更くるまで念仏を唱え立ち帰らんとする時、門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろ付正しく亡くなりし人の通りなりき。これは数多の人見たる故に誰も疑わず。いかなる執着のありしにや、ついに知る人はなかりしなり。

同じ人の二七日(ふたなのか)の前夜、知り合いが集まって夜ふけまで念仏を唱えた。帰ろうとすると、門口の石に、向こうを向いて腰かけている老女がいた。その後ろ姿は、亡くなった人そのものだった。

大勢が見たので、疑う者はいない。何がそんなに心残りだったのか、ついに誰にもわからなかった。

二四大同という家

原文
村々の旧家を大同というは、大同元年に甲斐国より移り来たる家なればかくいうとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非ざるか。 ○大同は大洞かも知れず、洞とは東北にて家門または族ということなり。『常陸国志』に例あり、ホラマエという語のちに見ゆ。

村々の旧家を大同と呼ぶのは、大同元年(八〇六年)に甲斐国(山梨県)から移ってきた家だからだという。大同は、坂上田村麻呂が蝦夷を攻めた時代である。一方、甲斐は南部家のふるさとだ。二つの言い伝えが混ざったのではないだろうか。

*大同は「大洞」かもしれない。東北では「洞(ほら)」は一族のことをいう。あとに出てくる「洞前(ほらまえ)」という言葉もこれである。

二五片方だけの門松

原文
大同の祖先たちが、始めてこの地方に到着せしは、あたかも歳の暮にて、春のいそぎの門松を、まだ片方はえ立てぬうちに早元日になりたればとて、今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、標縄を引き渡すとのことなり。

大同の祖先がはじめてこの地に着いたのは、ちょうど年の暮れだった。正月の門松を片方立てたところで、もう元日になってしまった。

だから今でもこれらの家では、めでたいしきたりとして、門松の片方を地面に寝かせたまま、しめ縄を張り渡すという。

二六田圃の家の彫刻師

原文
柏崎の田圃のうちと称する阿倍氏はことに聞えたる旧家なり。この家の先代に彫刻に巧なる人ありて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作りたる者多し。

柏崎の「田圃の家」阿部家は、とくに名の知れた旧家である。先代に彫刻の上手な人がいて、遠野じゅうの神仏の像には、この人の作ったものが多い。

二七黄金の出る石臼

原文
早池峯より出でて東北の方宮古の海に流れ入る川を閉伊川という。その流域はすなわち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池の端という家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原台の淵というあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人いで来べしとなり。この人請け合いはしたれども路々心に掛りてとつおいつせしに、一人の六部に行き逢えり。この手紙を開きよみて曰く、これを持ち行かば汝の身に大なる災あるべし。書き換えて取らすべしとて更に別の手紙を与えたり。これを持ちて沼に行き教えのごとく手を叩きしに、果して若き女いでて手紙を受け取り、その礼なりとてきわめて小さき石臼をくれたり。米を一粒入れて回せば下より黄金出づ。この宝物の力にてその家やや富有になりしに、妻なる者慾深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、ついには朝ごとに主人がこの石臼に供えたりし水の、小さき窪みの中に溜りてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りはのちに小さき池になりて、今も家の旁にあり。家の名を池の端というもその為なりという。 ○この話に似たる物語西洋にもあり、偶合にや。

早池峰から流れ出て、北東の宮古の海に注ぐのが閉伊川である。

遠野の町に、いま「池の端」と呼ばれる家がある。その先代の主人が宮古からの帰り、閉伊川の原台の淵のあたりを通ると、若い女に一通の手紙を託された。

「遠野の町の裏の物見山、その中腹にある沼へ行って手をたたいてください。宛名の人が出てきます」

引き受けたものの、道々どうも気にかかる。迷いながら歩いていると、巡礼の六部に出会った。六部は手紙を開いて読むと言った。

「これを持っていけば、あなたの身に大きな災いがふりかかる。書き換えてあげよう」

そして別の手紙を渡してくれた。

それを持って沼へ行き、手をたたくと、はたして若い女が出てきて手紙を受け取った。お礼にと、とても小さな石臼をくれた。米を一粒入れて回すと、下から黄金が出てくる。

この宝のおかげで、家はしだいに豊かになった。ところが妻が欲を出して、一度に米をたくさんつかんで入れた。すると石臼はひとりでにぐるぐる回りだし、主人が毎朝供えていた水がたまった小さなくぼみへ、ころりと滑りこんで消えてしまった。

そのくぼみはやがて小さな池になり、いまも家のそばにある。「池の端」という家の名は、そこから来ているという。

*これに似た話は西洋にもある。偶然の一致だろうか。

二八焼け石を食べた坊主

原文
始めて早池峯に山路をつけたるは、附馬牛村の何某という猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしと。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りておりしころ、或る日炉の上に餅をならべ焼きながら食いおりしに、小屋の外を通る者ありて頻に中を窺うさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるを見てありしが、ついにこらえ兼ねて手をさし延べて取りて食う。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与えしに、嬉しげになお食いたり。餅皆になりたれば帰りぬ。次の日もまた来るならんと思い、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじえて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のようになれり。案のごとくその坊主きょうもきて、餅を取りて食うこと昨日のごとし。餅尽きてのちその白石をも同じように口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。のちに谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといえり。 ○北上川の中古の大洪水に白髪水というがあり、白髪の姥を欺き餅に似たる焼石を食わせし祟なりという。この話によく似たり。

早池峰にはじめて山道をつけたのは、附馬牛村の猟師で、南部家が遠野に来てからのことだ。それまでは、土地の者は誰ひとりこの山に入ったことがなかったという。

猟師が道を半分ほど開き、中腹に仮小屋を建てて住んでいたころ。ある日、炉で餅を焼いて食べていると、小屋の外を誰かが通り、しきりに中をのぞいている。見ると、大きな坊主だった。

坊主は小屋に入ってきて、餅が焼けるのを珍しそうに眺めていたが、とうとう我慢できずに手を伸ばして食べてしまった。猟師も怖かったので、自分からも餅を差し出すと、坊主はうれしそうにまた食べた。餅がなくなると帰っていった。

明日もきっと来るだろう。猟師は、餅によく似た白い石を二つ三つ、餅にまぜて炉にのせておいた。石は焼けて火のように熱くなった。

案の定、坊主はその日もやって来て、前の日のように餅を食べた。餅がなくなると、白い石も同じように口に放りこんだ。とたんに坊主は飛び上がって小屋を駆け出し、姿を消した。

のちに谷底で、この坊主が死んでいるのが見つかったという。

*北上川の昔の大洪水を「白髪水」という。白髪の老婆をだまして、餅に似た焼け石を食わせた祟りだという。この話とよく似ている。

二九鶏頭山の三人の大男

原文
鶏頭山は早池峯の前面に立てる峻峯なり。麓の里にてはまた前薬師ともいう。天狗住めりとて、早池峯に登る者も決してこの山は掛けず。山口のハネトという家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きわめて無法者にて、鉞にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞のみ多かりし人なり。或る時人と賭をして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり、その岩の上に大男三人いたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、気色ばみて振り返る、その眼の光きわめて恐ろし。早池峯に登りたるが途に迷いて来たるなりと言えば、然らば送りて遣るべしとて先に立ち、麓近きところまで来たり、眼を塞げと言うままに、暫時そこに立ちている間に、たちまち異人は見えずなりたりという。

鶏頭山は、早池峰の手前にそびえる険しい峰で、ふもとの村では前薬師(まえやくし)とも呼ぶ。天狗が住んでいるといわれ、早池峰に登る人も、この山にだけは決して足を踏み入れない。

山口のハネトという家の主人は、佐々木氏の祖父の幼なじみで、たいへんな無鉄砲者だった。まさかりで草を刈り、鎌で土を掘るような、乱暴なことばかりしていた。

あるとき、人と賭けをして、ひとりで前薬師に登った。帰ってきて言うには――

頂上に大きな岩があり、その上に大男が三人いた。目の前に金銀を山ほど広げている。こちらに気づくと、険しい顔で振り返った。その目の光の恐ろしさといったらなかった。

「早池峰に登るつもりが、道に迷ってここへ来てしまいました」

そう言うと、男たちは「それなら送ってやろう」と先に立って歩きだした。ふもと近くまで来ると、「目をつぶれ」と言う。言われたとおりにしばらく立っていると、いつのまにか男たちの姿は消えていたという。

三〇地竹の中の大男

原文
小国村の何某という男、或る日早池峯に竹を伐りに行きしに、地竹のおびただしく茂りたる中に、大なる男一人寝ていたるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履を脱ぎてあり。仰に臥して大なる鼾をかきてありき。 ○下閉伊郡小国村大字小国。 ○地竹は深山に生ずる低き竹なり。

小国村の男が、ある日早池峰に竹を伐りに行くと、地竹がびっしり茂った中に、大男がひとり寝ていた。地竹で編んだ三尺(約九十センチ)もある草履を脱ぎそろえ、あおむけになって、大いびきをかいていた。

*地竹は、深い山に生える背の低い竹である。

三一さらわれる子どもたち

原文
遠野郷の民家の子女にして、異人にさらわれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。

遠野の家々の子どもで、異人にさらわれていく者は毎年多い。とくに女が多いという。

三二白い鹿と千晩ヶ岳

原文
千晩ヶ岳は山中に沼あり。この谷は物すごく腥き臭のするところにて、この山に入り帰りたる者はまことに少なし。昔何の隼人という猟師あり。その子孫今もあり。白き鹿を見てこれを追いこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。その白鹿撃たれて遁げ、次の山まで行きて片肢折れたり。その山を今片羽山という。さてまた前なる山へきてついに死したり。その地を死助という。死助権現とて祀れるはこの白鹿なりという。 ○宛然として古風土記をよむがごとし。

千晩ヶ岳(せんばがたけ)の山中には沼がある。その谷はひどく生臭いにおいがして、ここへ入って帰ってきた者はほとんどいない。

昔、なんとか隼人という猟師がいた。子孫はいまもいる。彼は白い鹿を見つけて追いかけ、この谷に千晩こもった。それが山の名になった。

白い鹿は撃たれて逃げ、次の山で片脚を折った。その山を今は片羽山という。鹿はまたもとの山へ戻ってきて、ついに死んだ。その場所を死助(しすけ)という。死助権現として祀られているのは、この白い鹿だという。

*まるで古い風土記を読んでいるようだ。

三三白望の山の不思議

原文
白望の山に行きて泊れば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋のころ茸を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢う。また谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞ゆることあり。この山の大さは測るべからず。五月に萱を苅りに行くとき、遠く望めば桐の花の咲き満ちたる山あり。あたかも紫の雲のたなびけるがごとし。されどもついにそのあたりに近づくこと能わず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋と金の杓とを見たり。持ち帰らんとするにきわめて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどそれもかなわず。また来んと思いて樹の皮を白くし栞としたりしが、次の日人々とともに行きてこれを求めたれど、ついにその木のありかをも見出しえずしてやみたり。

白望(しろみ)の山に泊まると、真夜中にあたりがぼうっと明るくなることがある。秋にきのこ採りで山に泊まる人は、よくこれにあう。谷の向こうで大木を伐り倒す音や、歌声が聞こえることもある。

この山の広さは計り知れない。五月に萱を刈りに行くと、遠くに、桐の花が一面に咲いた山が見える。まるで紫の雲がたなびいているようだ。けれども、どうしてもそこへはたどり着けない。

あるとき、きのこ採りの人が白望の奥で、金の樋と金の柄杓を見つけた。持ち帰ろうとしたが重くて動かない。鎌で端を削ろうとしても削れない。また来ようと、近くの木の皮をはいで白い目印をつけておいた。ところが次の日、仲間を連れて探しに行くと、その木さえ見つからなかった。

三四小屋をのぞく女

原文
白望の山続きに離森というところあり。その小字に長者屋敷というは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。或る夜その小屋の垂菰をかかげて、内を窺う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。

白望の山続きに、離森(はなれもり)というところがある。そのうちの長者屋敷というあたりは、まったく人の住まない土地だ。

ここで炭を焼いていた人がいた。ある夜、小屋の入口に垂らしたむしろをめくって、中をのぞく者がいる。長い髪を二つに分けて垂らした女だった。

このあたりでは、真夜中に女の叫び声を聞くことも珍しくない。

三五宙を走る女

原文
佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るように思われたり。待てちゃアと二声ばかり呼ばわりたるを聞けりとぞ。

佐々木氏の祖父の弟が、白望にきのこ採りに行って泊まった夜のこと。谷をへだてた向こうの大きな森の前を、女がひとり横切って走っていくのが見えた。宙を駆けているように見えた。

「待てちゃア」と二度ほど呼ぶ声が聞こえたという。

三六二ツ石山の狼

原文
猿の経立、御犬の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上に御犬うずくまりてあり。やがて首を下より押しあぐるようにしてかわるがわる吠えたり。正面より見れば生まれ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしといえり。御犬のうなる声ほど物凄く恐ろしきものはなし。

猿の経立(ふったち)や御犬の経立は恐ろしいものだ。「経立」は年を経て妖しい力を持つようになった獣、「御犬(おいぬ)」は狼のことである。

山口村に近い二ツ石山は岩山である。ある雨の日、小学校から帰る子どもがこの山を見上げると、あちこちの岩の上に狼がうずくまっていた。やがて首を下から突き上げるようにして、かわるがわる吠えはじめた。

正面から見ると、生まれたての子馬ほどの大きさに見える。後ろから見ると、案外小さいという。

狼のうなり声ほど、すさまじく恐ろしいものはない。

三七二、三百頭の狼

原文
境木峠と和山峠との間にて、昔は駄賃馬を追う者、しばしば狼に逢いたりき。馬方らは夜行には、たいてい十人ばかりも群をなし、その一人が牽く馬は一端綱とてたいてい五六七匹までなれば、常に四五十匹の馬の数なり。ある時二三百ばかりの狼追い来たり、その足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、そのめぐりに火を焼きてこれを防ぎたり。されどなおその火を躍り越えて入り来るにより、ついには馬の綱を解きこれを張り回らせしに、穽などなりとや思いけん、それよりのちは中に飛び入らず。遠くより取り囲みて夜の明るまで吠えてありきとぞ。

境木峠と和山峠のあいだでは、昔、荷馬を引く人たちがよく狼に出会った。

馬方たちは夜道を行くとき、たいてい十人ほどで連れ立った。ひとりが引く馬は五、六頭から七頭なので、いつも四、五十頭の馬がいた。

あるとき、二、三百頭もの狼が追ってきた。足音で山がどよめくほどだった。あまりの恐ろしさに、人も馬も一か所に集まり、まわりに火を焚いて身を守った。それでも狼は火を飛び越えて入ってくる。

とうとう馬の綱をほどいて、まわりにぐるりと張りめぐらせた。すると、落とし穴か何かと思ったのか、狼はそれ以上飛びこんでこなくなった。遠巻きに取り囲み、夜が明けるまで吠え続けていたという。

三八狼のまね

原文
小友村の旧家の主人にて今も生存せる某爺という人、町より帰りに頻に御犬の吠ゆるを聞きて、酒に酔いたればおのれもまたその声をまねたりしに、狼も吠えながら跡より来るようなり。恐ろしくなりて急ぎ家に帰り入り、門の戸を堅く鎖して打ち潜みたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる声やまず。夜明けて見れば、馬屋の土台の下を掘り穿ちて中に入り、馬の七頭ありしをことごとく食い殺していたり。この家はそのころより産やや傾きたりとのことなり。

小友村の旧家の主人で、いまも元気な老人がいる。町からの帰り道、しきりに狼の吠える声が聞こえた。酒に酔っていたので、面白がって自分も吠えまねをした。すると狼も吠えながらついてくるようだ。

怖くなって急いで家に帰り、戸を固く閉めてひそんでいたが、狼は一晩じゅう家のまわりを回って吠え続けた。

夜が明けて見ると、狼は馬屋の土台の下を掘って入りこみ、七頭の馬を一頭残らず食い殺していた。この家は、そのころから暮らし向きが少し傾いたという。

三九食われた鹿

原文
佐々木君幼きころ、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間もなきにや、そこよりはまだ湯気立てり。祖父の曰く、これは狼が食いたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見ておるに相違なければ、取ることができぬといえり。

佐々木君が幼いころ、祖父と山から帰ってくると、村近くの谷川の岸に、大きな鹿が倒れていた。横腹が裂け、殺されて間もないのか、まだ湯気が立っていた。

「これは狼が食ったんだ」と祖父は言った。「皮はほしいが、狼はきっとこの近くに隠れて見ているから、取れない」

四〇草に隠れる狼

原文
草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといえり。草木の色の移り行くにつれて、狼の毛の色も季節ごとに変りて行くものなり。

草が三寸(約九センチ)も伸びれば、狼は身を隠せるという。狼の毛の色は、草木の色の移り変わりにつれて、季節ごとに変わっていくのである。

四一狼の大移動

原文
和野の佐々木嘉兵衛、或る年境木越の大谷地へ狩にゆきたり。死助の方より走れる原なり。秋の暮のことにて木の葉は散り尽し山もあらわなり。向うの峯より何百とも知れぬ狼此方へ群れて走りくるを見て恐ろしさに堪えず、樹の梢に上りてありしに、その樹の下を夥しき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。そのころより遠野郷には狼甚だ少なくなれりとのことなり。

和野の佐々木嘉兵衛が、ある年、境木越えの大谷地へ猟に行った。死助の方から続く原っぱである。秋の終わりで、木の葉はすっかり落ち、山肌があらわになっていた。

向こうの峰から、何百ともしれない狼の群れが、こちらへ走ってくる。恐ろしさに木のてっぺんへよじ登ると、その真下を、地響きのような足音を立てて駆け抜け、北の方へ去っていった。

そのころから、遠野では狼がめっきり少なくなったという。

四二鉄と雌狼

原文
六角牛山の麓にオバヤ、板小屋などいうところあり。広き萱山なり。村々より苅りに行く。ある年の秋飯豊村の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯豊衆の馬を襲うことやまず。外の村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩をなす。その中には相撲を取り平生力自慢の者あり。さて野に出でて見るに、雄の狼は遠くにおりて来たらず。雌狼一つ鉄という男に飛びかかりたるを、ワッポロを脱ぎて腕に巻き、やにわにその狼の口の中に突き込みしに、狼これを噛む。なお強く突き入れながら人を喚ぶに、誰も誰も怖れて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まで入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛み砕きたり。狼はその場にて死したれども、鉄も担がれて帰り程なく死したり。 ○ワッポロは上羽織のことなり。

六角牛山のふもとに、オバヤ、板小屋などという広い萱山がある。村々の人がここへ萱を刈りに来る。

ある年の秋、飯豊村の人たちが萱を刈っていて、岩穴の中に狼の子を三匹見つけた。二匹を殺し、一匹を持ち帰った。するとその日から、狼が飯豊の馬ばかりを襲うようになった。ほかの村の人や馬には、まったく手を出さない。

飯豊の人たちは相談して、狼狩りをすることにした。中には相撲取りで、日ごろから力自慢の者もいた。

野に出てみると、雄の狼は遠くにいて近寄ってこない。雌の狼が一頭、鉄という男に飛びかかってきた。鉄はワッポロ(羽織)を脱いで腕に巻き、いきなり狼の口の中へ突っこんだ。狼はそれに噛みつく。鉄はさらに奥へ押しこみながら助けを呼んだが、誰もが怖がって近寄らない。

そのうちに鉄の腕は狼の腹の中まで入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕の骨を噛み砕いた。狼はその場で死んだ。鉄も担がれて帰ったが、まもなく死んだ。

四三熊と取っ組み合った熊

原文
一昨年の『遠野新聞』にもこの記事を載せたり。上郷村の熊という男、友人とともに雪の日に六角牛に狩に行き谷深く入りしに、熊の足跡を見出でたれば、手分してその跡を覔め、自分は峯の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊此方を見る。矢頃あまりに近かりしかば、銃をすてて熊に抱えつき雪の上を転びて、谷へ下る。連の男これを救わんと思えども力及ばず。やがて谷川に落ち入りて、人の熊下になり水に沈みたりしかば、その隙に獣の熊を打ち取りぬ。水にも溺れず、爪の傷は数ヶ所受けたれども命に障ることはなかりき。

これはおととしの『遠野新聞』にも載った話である。

上郷村の熊という名の男が、友人と雪の日に六角牛山へ猟に行った。谷深く入ると熊の足跡があったので、手分けして追った。

熊が峰の方へ進むと、岩陰から大きな熊がこちらをにらんでいる。撃つには近すぎる。熊は銃を捨てて熊に抱きつき、いっしょに雪の上を転がって谷へ落ちていった。連れの男は助けようとしたが、どうにもならない。

やがて二頭――いや、一人と一頭は谷川に落ち、人間の熊が下になって水に沈んだ。その隙に、連れは獣の熊を撃ちとめた。

熊という男は溺れもせず、爪で何か所か傷を負っただけで、命に別状はなかった。

四四小屋をのぞく猿

原文
六角牛の峯続きにて、橋野という村の上なる山に金坑あり。この鉱山のために炭を焼きて生計とする者、これも笛の上手にて、ある日昼の間小屋におり、仰向に寝転びて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂菰をかかぐる者あり。驚きて見れば猿の経立なり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろに彼方へ走り行きぬ。 ○上閉伊郡栗橋村大字橋野。

六角牛山の峰続きで、橋野という村の上の山に金山がある。その鉱山のために炭を焼いている男がいた。この男も笛の名人だった。

ある昼、小屋の中であおむけに寝転んで笛を吹いていると、入口のむしろを持ち上げる者がいる。驚いて見ると、猿の経立だった。慌てて起き上がると、猿はのそのそと向こうへ去っていった。

四五猿の経立

原文
猿の経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松脂を毛に塗り砂をその上につけておる故、毛皮は鎧のごとく鉄砲の弾も通らず。

猿の経立はよく人に似ていて、女を好み、村の女をさらっていくことが多い。松やにを毛に塗り、その上に砂をつけているので、毛皮はまるで鎧のようで、鉄砲の弾も通らない。

四六鹿笛に寄ってきた猿

原文
栃内村の林崎に住む何某という男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキを吹きたりしに、猿の経立あり、これを真の鹿なりと思いしか、地竹を手にて分けながら、大なる口をあけ嶺の方より下り来たれり。胆潰れて笛を吹きやめたれば、やがて反れて谷の方へ走り行きたり。 ○オキとは鹿笛のことなり。

栃内村林崎の、いま五十近い男の話。十年あまり前、六角牛山へ鹿を撃ちに行き、鹿笛(オキ)を吹いていた。

すると猿の経立が、本物の鹿だと思ったのか、地竹を手でかき分けながら、大きな口をあけて峰の方から下りてきた。肝をつぶして笛をやめると、猿はそれて谷の方へ走っていった。

四七「六角牛の猿が来るぞ」

原文
この地方にて子供をおどす言葉に、六角牛の猿の経立が来るぞということ常の事なり。この山には猿多し。緒挊の滝を見に行けば、崖の樹の梢にあまたおり、人を見れば遁げながら木の実などを擲ちて行くなり。

この地方では、子どもをおどすのに「六角牛の猿の経立が来るぞ」とよく言う。この山には猿が多い。緒桛(おがせ)の滝を見に行くと、崖の木の上に猿がたくさんいて、人を見ると、逃げながら木の実などを投げつけてくる。

四八仙人峠の猿

原文
仙人峠にもあまた猿おりて行人に戯れ石を打ちつけなどす。

仙人峠にも猿がたくさんいて、旅人に石を投げつけたりして、いたずらをする。

四九仙人堂の落書き

原文
仙人峠は登り十五里降り十五里あり。その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり。この堂の壁には旅人がこの山中にて遭いたる不思議の出来事を書き識すこと昔よりの習なり。例えば、我は越後の者なるが、何月何日の夜、この山路にて若き女の髪を垂れたるに逢えり。こちらを見てにこと笑いたりという類なり。またこの所にて猿に悪戯をせられたりとか、三人の盗賊に逢えりというようなる事をも記せり。 ○この一里も小道なり。

仙人峠は、登り十五里、下り十五里の道のりである。その中ほどに、仙人の像を祀った堂がある。

この堂の壁には、旅人がこの山で出会った不思議なことを書きつけていくのが昔からのならわしだ。たとえば――

「私は越後の者だが、何月何日の夜、この山道で、髪を垂らした若い女に出会った。こちらを見て、にこっと笑った」

ほかにも「ここで猿にいたずらされた」「盗賊三人に出会った」などと書いてある。

*この「里」も小さな里(一里=約六百メートル)である。

五〇カッコ花

原文
死助の山にカッコ花あり。遠野郷にても珍しという花なり。五月閑古鳥の啼くころ、女や子どもこれを採りに山へ行く。酢の中に漬けて置けば紫色になる。酸漿の実のように吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。

死助の山にはカッコ花が咲く。遠野でも珍しい花だ。五月、閑古鳥(カッコウ)が鳴くころ、女や子どもがこれを摘みに山へ行く。酢に漬けると紫色になり、ほおずきのように吹き鳴らして遊ぶ。

この花を摘みに行くのは、若い者たちのいちばんの楽しみである。

五一オット鳥

原文
山にはさまざまの鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附の者など峠を越え来たれば、遥に谷底にてその声を聞くといえり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探しあるきしが、これを見つくることをえずして、ついにこの鳥になりたりという。オットーン、オットーンというは夫のことなり。末の方かすれてあわれなる鳴声なり。

山にはいろいろな鳥がいるが、いちばん寂しい声で鳴くのはオット鳥だ。夏の夜中に鳴く。海辺の大槌から荷を運んで峠を越えてくる人たちは、はるか谷底からその声を聞くという。

昔、ある長者の娘が、別の長者の息子と仲よくなり、二人で山へ遊びに行った。ところが、いつのまにか男の姿が見えなくなった。娘は夕暮れから夜まで探し回ったが見つからず、とうとうこの鳥になってしまった。

「オットーン、オットーン」と鳴くのは、「夫(おっと)」を呼んでいるのだ。終わりの方がかすれて、あわれな声である。

五二馬追鳥

原文
馬追鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のようなる縞あり。胸のあたりにクツゴコ(口籠)のようなるかたあり。これも或る長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがついにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野におる馬を追う声なり。年により馬追鳥里にきて啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。 ○クツゴコは馬の口に嵌める網の袋なり。

馬追鳥は、ホトトギスに似て少し大きく、羽は赤に茶色がかり、肩には馬の手綱のような縞がある。胸のあたりには、馬の口にはめる網袋のような模様がある。

これも昔、ある長者の家の奉公人が、山へ馬を放しに行った。帰ろうとすると一頭足りない。夜通し探し回ったが見つからず、とうとうこの鳥になった。

「アーホー、アーホー」と鳴くのは、この地方で野の馬を追うときのかけ声である。

馬追鳥が里に下りてきて鳴く年は、飢饉の前ぶれだという。ふだんは深い山に住んでいて、その鳴き声が聞こえる。

五三カッコウとホトトギス

原文
郭公と時鳥とは昔ありし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまわりの堅きところを自ら食い、中の軟かなるところを妹に与えたりしを、妹は姉の食う分は一層旨かるべしと想いて、庖丁にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅いところということなり。妹さてはよきところをのみおのれにくれしなりけりと思い、悔恨に堪えず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりという。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺にては時鳥はどちゃへ飛んでたと啼くという。 ○この芋は馬鈴薯のことなり。

カッコウとホトトギスは、昔は姉妹だった。カッコウが姉である。

あるとき、姉は芋を掘って焼き、まわりの固いところを自分で食べ、中のやわらかいところを妹にやった。ところが妹は、姉の食べているところのほうがおいしいに違いないと思い、包丁で姉を殺してしまった。

姉はたちまち鳥になり、「ガンコ、ガンコ」と鳴いて飛んでいった。ガンコとは方言で「固いところ」という意味である。

妹は、姉はおいしいところばかりを私にくれていたのだと気づき、悔やんでも悔やみきれず、やがて自分も鳥になって「包丁かけた」と鳴くようになった。

だから遠野では、ホトトギスのことを「包丁かけ」と呼ぶ。盛岡あたりでは、ホトトギスは「どちゃへ飛んでた(どっちへ飛んでいった)」と鳴くという。

*この芋はジャガイモのことである。

五四淵の底の機織り

原文
閉伊川の流れには淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近きところに、川井という村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取り落したり。主人の物なれば淵に入りてこれを探りしに、水の底に入るままに物音聞ゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機を織りていたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまわらんという時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我がこの所にあることを人にいうな。その礼としてはその方身上良くなり、奉公をせずともすむようにして遣らんといいたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴引などいう博奕に不思議に勝ち続けて金溜り、ほどなく奉公をやめ家に引き込みて中ぐらいの農民になりたれど、この男は疾くに物忘れして、この娘のいいしことも心づかずしてありしに、或る日同じ淵の辺を過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思い出し、伴なえる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂は近郷に伝わりぬ。その頃より男は家産再び傾き、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思いしにや、その淵に何荷ともなく熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。 ○下閉伊郡川井村大字川井、川井はもちろん川合の義なるべし。

閉伊川には淵が多く、恐ろしい言い伝えも少なくない。

小国川との合流点に近い川井村の長者の家に、奉公人がいた。ある淵の上の山で木を伐っていて、斧を淵に落としてしまった。主人の物なので、淵に潜って探していると、水の底へ行くにつれて物音が聞こえてくる。

音をたどっていくと、岩陰に家があり、奥で美しい娘が機を織っていた。機のそばには、あの斧が立てかけてある。

「その斧を返してください」

そう言うと、振り返った娘の顔は、二、三年前に亡くなった主人の娘だった。

「斧は返しましょう。でも、私がここにいることは誰にも言わないで。そのお礼に、あなたが奉公しなくてもすむように、暮らしを楽にしてあげます」

そのおかげかどうか、男はそれから博打に不思議と勝ち続けて金がたまり、ほどなく奉公をやめて、そこそこの百姓になった。

男はすっかり忘れて、娘の言葉も気にとめていなかった。ある日、同じ淵のほとりを通って町へ行く途中、ふと昔のことを思い出し、連れの者に「前にこんなことがあってな」と話してしまった。噂はたちまち近くの村々に広まった。

そのころから男の家はまた傾き、結局もとの主人のところへ戻って、年老いるまで奉公した。

主人の家では何を思ったのか、その淵に熱湯を何杯も注ぎこんだりしたが、何の効き目もなかったという。

*川井は、川が合わさるところ「川合」の意味だろう。

五五河童の子

地図の話「カッパ淵」へ
原文
川には川童多く住めり。猿ヶ石川ことに多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて川童の子を孕みたる者あり。生れし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形きわめて醜怪なるものなりき。女の婿の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀に踞りてにこにこと笑いてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、次第にその女のところへ村の何某という者夜々通うという噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺いたりしが、のちには婿と寝たる夜さえくるようになれり。川童なるべしという評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れどもなんの甲斐もなく、婿の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑う声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなわず、人々いかにともすべきようなかりき。その産はきわめて難産なりしが、或る者のいうには、馬槽に水をたたえその中にて産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたれば果してその通りなりき。その子は手に水掻あり。この娘の母もまたかつて川童の子を産みしことありという。二代や三代の因縁にはあらずという者もあり。この家も如法の豪家にて何の某という士族なり。村会議員をしたることもあり。

川には河童が多い。猿ヶ石川にはとくに多い。

松崎村の「川端の家(かわばたのうち)」では、二代続けて河童の子を身ごもった女がいる。生まれた子は切り刻んで一升樽に入れ、土に埋めた。その姿は醜く、奇怪なものだった。

女の婿の実家は新張村の、これも川端の家で、その家の主人がことの次第を人に語った。

ある日、家の者みんなで畑に出て、夕方帰ろうとすると、女が川の水際にうずくまって、にこにこ笑っていた。次の日は昼休みにまた同じことがあった。

そんなことが続くうちに、村の誰それが夜ごとこの女のもとへ通ってくる、という噂が立った。はじめは婿が海辺へ荷運びに出て留守のときばかりだったが、のちには婿と寝ている夜にまで来るようになった。

河童に違いない、という噂がしだいに高まった。一族が集まって見張ったが、どうにもならない。婿の母が娘のそばで寝てみたこともある。真夜中、娘の笑い声が聞こえ、来ていると分かっていながら、体が動かなかった。

お産はたいへんな難産だったが、ある人が「馬の飼い葉桶に水を張って、その中で産めば楽に産める」と言うので試すと、本当にそのとおりだった。生まれた子の手には水かきがあった。

この娘の母親も、かつて河童の子を産んだことがあるという。二代や三代の因縁ではない、と言う人もいる。

この家もかなりの名家で、士族である。村会議員をつとめたこともある。

五六赤い子

原文
上郷村の何某の家にても川童らしき物の子を産みたることあり。確なる証とてはなけれど、身内真赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌わしければ棄てんとてこれを携えて道ちがえに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思い直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきという。 ○道ちがえは道の二つに別かるるところすなわち追分なり。

上郷村のある家でも、河童らしきものの子が生まれたことがある。はっきりした証拠はないが、全身真っ赤で口が大きく、なんとも気味の悪い子だった。

縁起が悪いので捨てようと、道の分かれ目へ持っていって置いた。一間ほど離れたところで、ふと思い直した。

「惜しいことをした。見世物に売れば金になったのに」

引き返してみると、もう誰かが持ち去ったのか、影も形もなかったという。

五七河童の足跡

原文
川の岸の砂の上には川童の足跡というものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののように明らかには見えずという。

川岸の砂の上に河童の足跡を見つけるのは、まったく珍しいことではない。雨の次の日などはとくによく見られる。

猿の足のように親指が離れていて、人の手の跡に似ている。長さは三寸(約九センチ)たらず。指先の跡は、人間のようにはっきりとは残らないという。

五八馬に引きずられた河童

原文
小烏瀬川の姥子淵の辺に、新屋の家という家あり。ある日淵へ馬を冷しに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆われてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりという。 ○この話などは類型全国に充満せり。いやしくも川童のおるという国には必ずこの話あり。何の故にか。

小烏瀬川の姥子淵(おばこふち)のあたりに、「新屋の家(しんやのうち)」という家がある。

ある日、淵へ馬を冷やしに行かせたが、馬を引く子がよそへ遊びに行っているあいだに、河童が出てきて馬を淵へ引きずりこもうとした。ところが逆に馬に引きずられて、馬屋の前まで来てしまい、飼い葉桶をかぶって隠れた。

家の者が、飼い葉桶が伏せてあるのを不審に思って少し持ち上げてみると、河童の手がにゅっと出てきた。

村じゅうの人が集まって、殺そうか許そうかと相談した。結局、二度と村の馬にいたずらをしないと固く約束させて、放してやった。

その河童は村を去り、いまは相沢の滝の淵に住んでいるという。

*これと同じ型の話は全国にあふれている。河童がいるという土地なら、必ずこの話がある。なぜだろうか。

五九赤い顔の河童

原文
外の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は面の色赭きなり。佐々木氏の曾祖母、穉かりしころ友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃の木の間より、真赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。

ほかの土地では河童の顔は青いというが、遠野の河童は顔が赤い。

佐々木氏の曾祖母が幼いころ、友だちと庭で遊んでいると、三本ある胡桃の木のあいだから、真っ赤な顔の男の子がのぞいていた。これが河童だったという。

その胡桃はいまも大木になって残っている。この家の屋敷のまわりは、すべて胡桃の木である。

六〇銃に詰められた土

原文
和野村の嘉兵衛爺、雉子小屋に入りて雉子を待ちしに狐しばしば出でて雉子を追う。あまり憎ければこれを撃たんと思い狙いたるに、狐は此方を向きて何ともなげなる顔してあり。さて引金を引きたれども火移らず。胸騒ぎして銃を検せしに、筒口より手元のところまでいつのまにかことごとく土をつめてありたり。

和野村の嘉兵衛爺が、雉子小屋にひそんで雉子を待っていると、狐がたびたび出てきて雉子を追い払う。あまりに憎らしいので撃ってやろうと狙うと、狐はこちらを向いて、すました顔をしている。

引き金を引いたが、火がつかない。胸騒ぎがして銃を調べると、銃口から手もとまで、いつのまにか土がぎっしり詰めてあった。

六一白い鹿と黄金の弾

原文
同じ人六角牛に入りて白き鹿に逢えり。白鹿は神なりという言い伝えあれば、もし傷つけて殺すこと能わずば、必ず祟あるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとい、思い切りてこれを撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時のために用意したる黄金の丸を取り出し、これに蓬を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなお動かず、あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくもあらず、全く魔障の仕業なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思いたりきという。

同じ嘉兵衛が六角牛山で、白い鹿に出会った。白い鹿は神の使いだと言い伝えられている。手負いにして殺しそこねたら、きっと祟られるだろうと迷った。

けれども名の知れた猟師だったので、人に笑われるのがいやで、思いきって撃った。手ごたえはあったのに、鹿はぴくりとも動かない。

またも胸騒ぎがした。いざというときの魔よけに用意していた黄金の弾を取り出し、よもぎを巻きつけて撃った。それでも鹿は動かない。

あまりにあやしいので近づいてみると、鹿の形によく似た白い石だった。

何十年も山で暮らしてきた自分が、石と鹿を見間違えるはずがない。これはまさしく魔物のしわざだ――このときばかりは、猟師をやめようかと思ったという。

六二赤い衣の大坊主

原文
また同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンズ縄をおのれと木のめぐりに三囲引きめぐらし、鉄砲を竪に抱えてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心づけば、大なる僧形の者赤き衣を羽のように羽ばたきして、その木の梢に蔽いかかりたり。すわやと銃を打ち放せばやがてまた羽ばたきして中空を飛びかえりたり。この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議に遭い、そのたびごとに鉄砲を止めんと心に誓い、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思い返して、年取るまで猟人の業を棄つること能わずとよく人に語りたり。

また同じ嘉兵衛が、ある夜、山の中で小屋を作る暇がなく、大木の根もとで夜を明かすことにした。魔よけのサンズ縄を、自分と木のまわりに三重に張りめぐらし、鉄砲を抱えてうとうとしていた。

夜ふけ、物音に気づいて見上げると、大きな坊主の姿をした者が、赤い衣を羽のようにはばたかせて、木のてっぺんに覆いかぶさってきた。

すかさず撃つと、坊主はまたはばたいて、空へ飛び去っていった。

このときの恐ろしさも、ひととおりではなかった。こうした不思議に三度もあい、そのたびに猟をやめようと誓い、氏神に願をかけたりもした。それでもまた気が変わって、年をとるまで猟師をやめられなかった――嘉兵衛は、よく人にそう話していた。

六三マヨイガ

地図の話「小国」へ
原文
小国の三浦某というは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿いて蕗を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。訝しけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くおり、馬舎ありて馬多くおれども、一向に人はおらず。ついに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されどもついに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。この事を人に語れども実と思う者もなかりしが、また或る日わが家のカドに出でて物を洗いてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用いたらば汚しと人に叱られんかと思い、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問いたるとき、始めて川より拾い上げし由をば語りぬ。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨイガという。マヨイガに行き当りたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何ものをも盗み来ざりしが故に、この椀自ら流れて来たりしなるべしといえり。 ○このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲み物を洗うため家ごとに設けたるところなり。 ○ケセネは米稗その他の穀物をいう。キツはその穀物を容るる箱なり。大小種々のキツあり。

小国の三浦家は、村一番の金持ちである。二、三代前の主人のころは、まだ貧しい家だった。その妻は、少しぼんやりしたところのある人だった。

ある日、妻は門の前を流れる小川に沿って、ふきを採りに出かけた。よいふきが少ないので、だんだん谷の奥へと登っていった。

ふと見ると、立派な黒い門の家がある。不思議に思いながら門をくぐると、広い庭に紅白の花が一面に咲き、鶏がたくさん遊んでいた。裏へ回ると、牛小屋には牛がたくさん、馬屋には馬がたくさんいる。けれども人の姿はない。

玄関から上がってみると、次の間には朱塗りと黒塗りの膳や椀がたくさん並べてある。奥の座敷では火鉢にかけた鉄瓶の湯が、しゅんしゅんと煮え立っていた。それでも人影はない。

もしや山男の家ではないか――急に怖くなって、妻は家まで走って帰った。

この話を人にしても、誰も本気にしなかった。

ところがある日、妻が家のカド(川べりの洗い場)で物を洗っていると、川上から赤い椀がひとつ流れてきた。あまりにきれいなので拾い上げたが、食器に使ったら汚いと叱られるかもしれない。そこで米びつの中に入れて、穀物を量る器にした。

すると、この椀で量るようになってから、いつまでたっても穀物が減らない。家の者が不思議に思って尋ねると、妻ははじめて、川で拾ったことを話した。

この家はそれから運が開け、いまの三浦家になった。

遠野では、山の中の不思議な家をマヨイガという。マヨイガに行き当たった人は、家の中の道具でも家畜でも、何かひとつ必ず持ち帰るべきなのだ。その人に授けるために、その家は姿を見せるのだから。

この妻は欲がなく、何も持ってこなかった。だから椀のほうから流れてきたのだろう、という。

*「カド」は門ではない。「川戸」のことで、門前の川岸に、水汲みや洗い物のために家ごとに作った場所である。

*原文の「ケセネ」は米や稗などの穀物、「キツ」はそれを入れる箱である。

六四二度目のマヨイガ

原文
金沢村は白望の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六七年前この村より栃内村の山崎なる某かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷い、またこのマヨイガに行き当りぬ。家のありさま、牛馬雞の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのように見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるようにも思われたり。茫然として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨイガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来たり長者にならんとて、婿殿を先に立てて人あまたこれを求めに山の奥に入り、ここに門ありきというところに来たれども、眼にかかるものもなく空しく帰り来たりぬ。その婿もついに金持になりたりということを聞かず。 ○上閉伊郡金沢村。

金沢村は白望のふもとで、上閉伊郡でもとりわけ山奥にあり、行き来する人も少ない。

六、七年前、この村から、栃内村山崎のある家の娘のもとへ婿が来た。この婿が実家へ帰ろうとして山道に迷い、またあのマヨイガに行き当たった。

家のようす、牛や馬や鶏の多さ、紅白の花――すべて前の話のとおりだった。玄関を入ると、膳や椀を並べた部屋がある。座敷では鉄瓶の湯が煮え立ち、いままさにお茶をいれようとしているところのように見えた。どこか便所のあたりに、人が立っている気配もした。

婿はぼうぜんとしていたが、だんだん怖くなって引き返し、やっと小国の村に出た。

小国では誰もこの話を本気にしなかったが、山崎の家の人たちは違った。

「それはマヨイガに違いない。行って膳や椀を持ってきて、長者になろう」

婿を先頭に、大勢で山奥へ探しに入った。「ここに門があった」というところまで来たが、何も見当たらず、むなしく帰ってきた。

その婿が金持ちになったという話も聞かない。

六五安倍ヶ城の錠の音

原文
早池峯は御影石の山なり。この山の小国に向きたる側に安倍ヶ城という岩あり。険しき崖の中ほどにありて、人などはとても行きうべきところにあらず。ここには今でも安倍貞任の母住めりと言い伝う。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖す音聞ゆという。小国、附馬牛の人々は、安倍ヶ城の錠の音がする、明日は雨ならんなどいう。

早池峰は御影石の山である。小国側の険しい崖の中ほどに、安倍ヶ城という岩がある。人がとても近づけるところではない。

ここには今も、安倍貞任の母が住んでいると言い伝えられている。雨が降りそうな夕方には、岩屋の戸を閉める音が聞こえるという。小国や附馬牛の人たちは、「安倍ヶ城の錠の音がする。明日は雨だな」などと言う。

※安倍貞任は平安時代後期、この地方を治めた豪族で、前九年の役で源頼義・義家(八幡太郎)に敗れた。

六六早池峰と安倍氏

原文
同じ山の附馬牛よりの登り口にもまた安倍屋敷という巌窟あり。とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも八幡太郎の家来の討死したるを埋めたりという塚三つばかりあり。

同じ早池峰の、附馬牛側の登り口にも、安倍屋敷という岩屋がある。とにかく早池峰は、安倍貞任にゆかりの深い山である。

小国からの登り口にも、八幡太郎(源義家)の家来で討ち死にした者を葬ったという塚が三つほどある。

六七貞任の陣屋跡

原文
安倍貞任に関する伝説はこのほかにも多し。土淵村と昔は橋野といいし栗橋村との境にて、山口よりは二三里も登りたる山中に、広く平なる原あり。そのあたりの地名に貞任というところあり。沼ありて貞任が馬を冷せしところなりという。貞任が陣屋を構えし址とも言い伝う。景色よきところにて東海岸よく見ゆ。

安倍貞任の伝説は、ほかにも多い。

土淵村と栗橋村(昔の橋野)の境、山口から二、三里登った山中に、広く平らな原がある。そこに「貞任」という地名のところがある。沼があり、貞任が馬を冷やしたところだという。貞任が陣を構えた跡だとも伝えられる。景色がよく、東の海岸がよく見える。

六八安倍家と八幡太郎

原文
土淵村には安倍氏という家ありて貞任が末なりという。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門、今も村にては二三等の物持ちにて、村会議員なり。安倍の子孫はこのほかにも多し。盛岡の安倍館の附近にもあり。厨川の柵に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小烏瀬川の河隈に館の址あり。八幡沢の館という。八幡太郎が陣屋というものこれなり。これより遠野の町への路にはまた八幡山という山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かえる峯にもまた一つの館址あり。貞任が陣屋なりという。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦をしたりという言い伝えありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。この間に似田貝という部落あり。戦の当時このあたりは蘆しげりて土固まらず、ユキユキと動揺せり。或る時八幡太郎ここを通りしに、敵味方いずれの兵糧にや、粥を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かといいしより村の名となる。似田貝の村の外を流るる小川を鳴川という。これを隔てて足洗川村あり。鳴川にて義家が足を洗いしより村の名となるという。 ○ニタカイはアイヌ語のニタトすなわち湿地より出しなるべし。地形よく合えり。西の国々にてはニタともヌタともいう皆これなり。下閉伊郡小川村にも二田貝という字あり。

土淵村には、貞任の子孫だという安倍家がある。昔は栄えた家で、いまも屋敷のまわりには水をたたえた堀がある。刀や馬具がたくさん伝わっている。当主は安倍与右衛門で、いまも村で二、三番目の金持ちで、村会議員である。

安倍の子孫はほかにも多く、盛岡の安倍館の近く、厨川の柵(貞任の最後の砦)のそばにもいる。

土淵の安倍家の四、五町北、小烏瀬川が曲がって流れるところに、館の跡がある。八幡沢の館といい、八幡太郎の陣屋だったという。

ここから遠野の町へ向かう途中にも八幡山という山があり、八幡沢の館の方を向いた峰に、もうひとつ館の跡がある。こちらは貞任の陣屋だという。二つの館は二十町あまり離れている。ここで矢を射かけ合って戦ったと伝えられ、実際に矢じりがたくさん掘り出されたこともある。

そのあいだに、似田貝(にたかい)という集落がある。戦のころ、このあたりは葦が茂り、地面が固まらずにゆさゆさ揺れていた。

あるとき八幡太郎がここを通ると、敵か味方か、どちらかの兵糧の粥がたくさん置いてあった。「これは煮た粥か」と言ったので、それが村の名になった。

似田貝の外を流れる小川を鳴川といい、その向こうに足洗川村がある。義家が鳴川で足を洗ったので、その名がついたという。

*ニタカイは、アイヌ語で湿地を意味するニタトから来たのだろう。地形もよく合っている。西日本でニタ、ヌタというのも同じである。

六九オシラサマのはじまり

原文
今の土淵村には大同という家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞という。この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじないにて蛇を殺し、木に止れる鳥を落しなどするを佐々木君はよく見せてもらいたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪みて斧をもって後より馬の首を切り落せしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎という人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁づきたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありといえり。

いまの土淵村には、大同という家が二軒ある。山口の大同の当主は大洞万之丞という。その養母のおひでは八十を超えて今も元気で、佐々木氏の祖母の姉にあたる。

この人は魔法に通じていて、まじないで蛇を殺したり、木にとまった鳥を落としたりした。佐々木君はそれをよく見せてもらったという。

去年の旧暦正月十五日、この老女が語った話――

昔、あるところに貧しい百姓がいた。妻はなく、美しい娘がひとりいた。それに馬を一頭飼っていた。

娘はこの馬をかわいがり、夜になると馬屋へ行っていっしょに寝て、とうとう馬と夫婦になってしまった。

ある夜、父はそれを知った。次の日、娘には黙って馬を連れ出し、桑の木につり下げて殺してしまった。

その夜、馬がいないので娘が父に尋ね、わけを知った。娘は驚き悲しんで桑の木の下へ駆けつけ、死んだ馬の首にすがって泣いた。

父はそれが憎らしく、斧で後ろから馬の首を切り落とした。すると娘は、その首に乗ったまま、たちまち天へ昇っていってしまった。

オシラサマは、このときから生まれた神である。

馬をつり下げた桑の枝で、神の像を三体作った。根もとの方で作ったのが姉神で、山口の大同にある。中ほどで作ったのは、山崎の在家権十郎の家にあった。佐々木氏の伯母が嫁いだ家だが、いまは絶えて、像の行方はわからない。先の方で作った妹神は、いま附馬牛村にあるという。

七〇オクナイサマのいる家

原文
同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ないて在す神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。また家によりて神の像も同じからず。山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。山口の辷石たにえという人の家なるは掛軸なり。田圃のうちにいませるはまた木像なり。飯豊の大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりという。

同じ老女の話では、オクナイサマは、オシラサマのある家には必ずいっしょにいる神だという。ただし、オシラサマはなくてオクナイサマだけがいる家もある。神の像も家によって違う。

山口の大同のオクナイサマは木像、山口の辷石(はねいし)たにえの家のものは掛け軸、「田圃の家」のものは木像である。飯豊の大同には、オシラサマはないが、オクナイサマだけはいるという。

七一秘密の念仏

原文
この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かわり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝うることはあれども、互いに厳重なる秘密を守り、その作法につきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の者のみの集まりなり。その人の数も多からず。辷石たにえという婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈祷す。魔法まじないを善くする故に、郷党に対して一種の権威あり。

この話をした老女は熱心な念仏信者だが、ふつうの念仏とは違う、隠れ信仰のようなものを持っている。

信者に教えを伝えることはあるが、互いに固く秘密を守り、そのやり方は親にも子にもまったく明かさない。寺とも僧ともかかわりがなく、在家の者だけの集まりで、人数も多くない。辷石たにえという女性も仲間である。

阿弥陀仏の縁日には、夜中、人が寝静まるのを待って集まり、隠し部屋で祈りをささげる。魔法やまじないに通じているので、村人からは一目置かれている。

七二子どもと遊ぶカクラサマ

原文
栃内村の字琴畑は深山の沢にあり。家の数は五軒ばかり、小烏瀬川の支流の水上なり。これより栃内の民居まで二里を隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今は雨ざらしなり。これをカクラサマという。村の子供これを玩物にし、引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどする故に、今は鼻も口も見えぬようになれり。或いは子供を叱り戒めてこれを制止する者あれば、かえりて祟を受け病むことありといえり。 ○神体仏像子供と遊ぶを好みこれを制止するを怒りたもうことほかにも例多し。遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)、または信濃筑摩郡射手の弥陀堂の木仏(『信濃奇勝録』)などこれなり。

栃内村の琴畑(ことばた)は、山深い沢にある五軒ほどの集落で、小烏瀬川の支流の水源にあたる。栃内の人家まで二里も離れている。

琴畑の入口に塚があり、その上に人ほどの大きさの木の座像がある。以前は堂の中にあったが、いまは雨ざらしだ。これをカクラサマという。

村の子どもたちがこれをおもちゃにして、引き出して川へ投げこんだり、道を引きずり回したりするので、いまでは鼻も口もわからなくなってしまった。子どもを叱ってやめさせようとすると、かえって祟られて病気になることがあるという。

*神像や仏像が子どもと遊ぶのを好み、やめさせると怒るという例はほかにも多い。遠江(静岡県)大池村東光寺の薬師仏、駿河(静岡県)豊田村の軍陣坊社の神、信濃(長野県)射手の弥陀堂の木仏などである。

七三カクラサマの像

原文
カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多あり。栃内の字西内にもあり。山口分の大洞というところにもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人のこれを信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳頭の飾のありさまも不分明なり。

カクラサマの木像は、遠野のあちこちにある。栃内の西内にもあるし、山口の大洞にもあったと覚えている人がいる。

カクラサマを信仰する人はいない。粗末な彫りで、衣装や頭の飾りもはっきりしない。

七四カクラサマという名

原文
栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。いずれのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削りの無恰好なるものなり。されど人の顔なりということだけは分かるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したもうべき場所の名なりしが、その地に常います神をかく唱うることとなれり。

栃内のカクラサマは、さきの大小二体である。土淵村全体では三つか四つある。どれも木の半身像で、なたで荒く削っただけの不格好なものだが、人の顔だということだけはわかる。

カクラサマとは、もとは神々が旅の途中で休む場所の名だった。それが、そこにいつもいる神の呼び名になったのである。

七五長者屋敷の女

原文
離森の長者屋敷にはこの数年前まで燐寸の軸木の工場ありたり。その小屋の戸口に夜になれば女の伺い寄りて人を見てげたげたと笑う者ありて、淋しさに堪えざる故、ついに工場を大字山口に移したり。その後また同じ山中に枕木伐出しのために小屋をかけたる者ありしが、夕方になると人夫の者いずれへか迷い行き、帰りてのち茫然としてあることしばしばなり。かかる人夫四五人もありてその後も絶えず何方へか出でて行くことありき。この者どもが後に言うを聞けば、女がきて何処へか連れだすなり。帰りてのちは二日も三日も物を覚えずといえり。

離森の長者屋敷には、数年前までマッチの軸木を作る工場があった。

その小屋の戸口に、夜になると女が忍び寄ってきて、人を見てはげたげたと笑う。その気味悪さに耐えられず、とうとう工場を山口に移した。

その後、同じ山で枕木を伐り出すために小屋を建てた人がいた。ところが夕方になると、人夫がふらふらとどこかへ迷い出ていき、帰ってきてもぼうっとしていることがたびたびあった。そんな人夫が四、五人もいて、その後もしょっちゅうどこかへ出ていった。

あとで聞くと、女が来てどこかへ連れ出すのだという。帰ってから二日も三日も、何も覚えていないという。

七六五つ葉のうつぎ

原文
長者屋敷は昔時長者の住みたりし址なりとて、そのあたりにも糠森という山あり。長者の家の糠を捨てたるがなれるなりという。この山中には五つ葉のうつ木ありて、その下に黄金を埋めてありとて、今もそのうつぎの有処を求めあるく者稀々にあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、このあたりには鉄を吹きたる滓あり。恩徳の金山もこれより山続きにて遠からず。 ○諸国のヌカ塚スクモ塚には多くはこれと同じき長者伝説を伴なえり。また黄金埋蔵の伝説も諸国に限りなく多くあり。

長者屋敷は、昔長者が住んでいた跡だといわれ、近くには糠森という山もある。長者の家で出た糠を捨てたのが積もって山になったのだという。

この山には五つ葉のうつぎがあって、その下に黄金が埋めてあるといわれる。いまでも、そのうつぎを探し歩く人がたまにいる。

この長者は、昔の金山師だったのではないだろうか。このあたりには鉄を精錬したかすがあり、恩徳の金山もここから山続きで遠くない。

*各地の糠塚・スクモ塚には、たいていこれと似た長者伝説がある。黄金を埋めたという伝説も、全国に数えきれないほどある。

七七雨だれ石を枕にした男

原文
山口の田尻長三郎というは土淵村一番の物持なり。当主なる老人の話に、この人四十あまりのころ、おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜、人々念仏を終りおのおの帰り行きし跡に、自分のみは話好きなれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落ちの石を枕にして仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるようなり。月のある夜なればその光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。この人大胆者にて足にて揺かして見たれど少しも身じろぎせず。道を妨げて外にせん方もなければ、ついにこれを跨ぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその跡方もなく、また誰も外にこれを見たりという人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と在りどころとは昨夜の見覚えの通りなり。この人の曰く、手をかけて見たらばよかりしに、半ば恐ろしければただ足にて触れたるのみなりし故、さらに何もののわざとも思いつかずと。

山口の田尻長三郎は、土淵村一番の金持ちである。その当主の老人が四十過ぎのころの話。

おひで婆さんの息子が亡くなり、その葬式の夜、念仏が終わってみなが帰ったあと、話好きの彼は少し遅れて外へ出た。

すると、軒の雨だれを受ける石を枕にして、あおむけに寝ている男がいる。見知らぬ人で、どうも死んでいるようだ。月明かりで見ると、膝を立て、口をあけている。

この人は度胸があったので、足で揺すってみたが、男はぴくりともしない。道をふさいでいて、ほかに通るところもないので、とうとうまたいで家に帰った。

次の朝行ってみると、もちろん跡形もない。ほかに見た人もいない。けれども、枕にしていた石の形も場所も、ゆうべ見たとおりだった。

「手で触ってみればよかった。半分怖かったから足でつついただけで、何だったのか見当もつかない」

その人はそう言っていた。

七八雪合羽の人

原文
同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。かつて夜遊びに出でて遅くかえり来たりしに、主人の家の門は大槌往還に向いて立てるが、この門の前にて浜の方よりくる人に逢えり。雪合羽を着たり。近づきて立ちとまる故、長蔵も怪しみてこれを見たるに、往還を隔てて向側なる畠地の方へすっと反れて行きたり。かしこには垣根ありしはずなるにと思いて、よく見れば垣根は正しくあり。急に怖ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、のちになりて聞けば、これと同じ時刻に新張村の何某という者、浜よりの帰り途に馬より落ちて死したりとのことなり。

同じ人の話。この家に奉公していた山口の長蔵は、七十を過ぎていまも元気な老人である。

若いころ、夜遊びから遅く帰ってくると、大槌街道に面した主人の家の門の前で、海辺の方から来た人に出会った。雪合羽を着ている。近づくと立ち止まったので、長蔵もあやしんで見ていると、その人は街道の向かいの畑の方へ、すっとそれていった。

あそこには垣根があったはずだ、と思ってよく見ると、垣根はちゃんとある。急に怖くなって家に飛びこみ、主人にこのことを話した。

あとで聞くと、ちょうど同じころ、新張村の男が海辺からの帰りに馬から落ちて死んでいたという。

七九雲壁にはりつく男

原文
この長蔵の父をもまた長蔵という。代々田尻家の奉公人にて、その妻とともに仕えてありき。若きころ夜遊びに出で、まだ宵のうちに帰り来たり、門の口より入りしに、洞前に立てる人影あり。懐手をして筒袖の袖口を垂れ、顔は茫としてよく見えず。妻は名をおつねといえり。おつねのところへ来たるヨバヒトではないかと思い、つかつかと近よりしに、奥の方へは遁げずして、かえって右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、なお進みたるに、懐手のまま後ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたるところより、すっと内に入りたり。されど長蔵はなお不思議とも思わず、その戸の隙に手を差し入れて中を探らんとせしに、中の障子は正しく閉してあり。ここに始めて恐ろしくなり、少し引き下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲壁にひたとつきて我を見下すごとく、その首は低く垂れてわが頭に触るるばかりにて、その眼の球は尺余も、抜け出でてあるように思われたりという。この時はただ恐ろしかりしのみにて何事の前兆にてもあらざりき。 ○ヨバヒトは呼ばい人なるべし。女に思いを運ぶ人をかくいう。 ○雲壁はなげしの外側の壁なり。 田尻氏の家のさまの図

この長蔵の父も、長蔵という名だった。代々田尻家の奉公人で、夫婦で仕えていた。

若いころ、夜遊びからまだ宵のうちに帰ってきて門を入ると、洞前(ほらまえ)に人影が立っている。懐手をして、筒袖の袖口を垂らし、顔はぼんやりしてよく見えない。

妻はおつねといった。さてはおつねに夜這いに来た男か――そう思って、ずかずかと近寄った。ところが相手は奥へは逃げず、右手の玄関の方へ寄っていく。人をばかにして、と腹が立ってさらに詰め寄ると、懐手のまま後ずさりして、三寸ほど開いていた玄関の戸の隙間から、すうっと中へ入ってしまった。

長蔵はそれでもまだ不思議とも思わず、戸の隙間に手を差し入れて中を探った。すると、中の障子はぴたりと閉まっている。

ここではじめてぞっとした。少し下がって上を見上げると、さっきの男が玄関の上の雲壁にぴったりとはりついて、こちらを見下ろしている。首は低く垂れて、長蔵の頭に触れんばかり。目の玉は一尺も飛び出しているように見えたという。

このときはただ恐ろしかっただけで、何かの前ぶれというわけでもなかった。

*雲壁は、長押(なげし)の上の壁である。

〔図:田尻家の間取り(原本の図版は省略)〕

八〇遠野の家のつくり

原文
右の話をよく呑みこむためには、田尻氏の家のさまを図にする必要あり。遠野一郷の家の建てかたはいずれもこれと大同小異なり。  門はこの家のは北向きなれど、通例は東向きなり。右の図にて厩舎のあるあたりにあるなり。門のことを城前という。屋敷のめぐりは畠にて、囲墻を設けず。主人の寝室とウチとの間に小さく暗き室あり。これを座頭部屋という。昔は家に宴会あれば必ず座頭を喚びたり。これを待たせ置く部屋なり。 ○この地方を旅行して最も心とまるは家の形の何れもかぎの手なることなり。この家などそのよき例なり。

これまでの話をよくわかってもらうには、田尻家の間取りを図で示す必要がある。遠野の家のつくりは、どこもこれと大同小異である。

門は、この家では北向きだが、ふつうは東向きだ。門のことを城前(じょうまえ)という。屋敷のまわりは畑で、垣根や塀は作らない。

主人の寝室と家族の居間(ウチ)のあいだに、小さな暗い部屋がある。これを座頭部屋という。昔は家で宴会があると、必ず座頭(盲目の芸人)を呼んだ。その座頭を待たせておく部屋である。

*この地方を旅していちばん目につくのは、どの家もL字形の「曲がり家」になっていることだ。この家はそのよい例である。

八一青ざめた顔

原文
栃内の字野崎に前川万吉という人あり。二三年前に三十余にて亡くなりたり。この人も死ぬる二三年前に夜遊びに出でて帰りしに、門の口より廻り縁に沿いてその角まで来たるとき、六月の月夜のことなり、何心なく雲壁を見れば、ひたとこれにつきて寝たる男あり。色の蒼ざめたる顔なりき。大いに驚きて病みたりしがこれも何の前兆にてもあらざりき。田尻氏の息子丸吉この人と懇親にてこれを聞きたり。 田尻氏の家の常居の図

栃内の野崎に、前川万吉という人がいた。二、三年前に三十あまりで亡くなった。

死ぬ二、三年前、夜遊びから帰ってきて、門を入って縁側に沿って角まで来たとき――六月の月夜だった――何気なく雲壁を見ると、そこに男がぴったりはりついて寝ていた。青ざめた顔だった。

万吉はひどく驚いて寝こんだが、これも何かの前ぶれというわけではなかった。田尻家の息子の丸吉がこの人と親しく、この話を聞いたという。

〔図:田尻家の常居(原本の図版は省略)〕

八二手の上に重なる顔

原文
これは田尻丸吉という人が自ら遭いたることなり。少年の頃ある夜常居より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。幽かに茫としてはあれど、衣類の縞も眼鼻もよく見え、髪をば垂れたり。恐ろしけれどそこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当り、戸のさんにも触りたり。されどわが手は見えずして、その上に影のように重なりて人の形あり。その顔のところへ手を遣ればまた手の上に顔見ゆ。常居に帰りて人々に話し、行灯を持ち行きて見たれば、すでに何ものもあらざりき。この人は近代的の人にて怜悧なる人なり。また虚言をなす人にもあらず。

これは田尻丸吉が自分で体験したことである。

少年のころ、ある夜、居間から立って便所へ行こうと茶の間に入ると、座敷との境に人が立っていた。かすかにぼうっとしてはいたが、着物の縞も目鼻もよく見え、髪を垂らしていた。

怖かったが、そこへ手を伸ばして探ってみた。手は板戸にがたっと当たり、戸の桟にも触れた。けれども自分の手は見えず、その上に影のように人の形が重なっている。顔のところへ手をやると、手の上に顔が見える。

居間に戻ってみんなに話し、行灯を持っていってみると、もう何もいなかった。

丸吉は近代的な考えを持った賢い人で、うそをつくような人でもない。

八三開けてはならない葛籠

原文
山口の大同、大洞万之丞の家の建てざまは少しく外の家とはかわれり。その図次のページに出す。玄関は巽の方に向かえり。きわめて古き家なり。この家には出して見れば祟ありとて開かざる古文書の葛籠一つあり。 大洞万之丞の家の建てざまの図

山口の大同、大洞万之丞の家のつくりは、ほかの家と少し違う。玄関は南東を向いている。たいへん古い家である。

この家には、出して見ると祟りがあるといって、一度も開けたことのない古文書の葛籠がひとつある。

〔図:大洞家の間取り(原本の図版は省略)〕

八四海辺の西洋人

原文
佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三四年前に亡くなりし人なり。この人の青年のころといえば、嘉永の頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。釜石にも山田にも西洋館あり。船越の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶蘇教は密々に行われ、遠野郷にてもこれを奉じて磔になりたる者あり。浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合いては嘗め合う者なりなどいうことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には合の子なかなか多かりしということなり。

佐々木氏の祖父は、三、四年前に七十ほどで亡くなった。この人が若いころといえば、嘉永年間(一八四八〜五四年)だろうか。

そのころ、海岸の地方には西洋人がたくさん来て住んでいた。釜石にも山田にも西洋館があり、船越半島の先にも西洋人が住んでいたことがある。

キリスト教はひそかに信仰されていて、遠野でも、これを信じて磔にされた人がいる。

浜へ行った人の話として、「異人はよく抱き合っては、なめ合うものだ」などと、いまだに話す老人がいる。海岸地方には、混血の子もずいぶん多かったという。

八五白い肌の兄弟

原文
土淵村の柏崎にては両親とも正しく日本人にして白子二人ある家あり。髪も肌も眼も西洋人の通りなり。今は二十六七ぐらいなるべし。家にて農業を営む。語音も土地の人とは同じからず、声細くして鋭し。

土淵村柏崎に、両親ともまぎれもない日本人なのに、白子(アルビノ)の子が二人いる家がある。髪も肌も目も、まるで西洋人のようだ。いまは二十六、七歳くらいだろう。家で農業をしている。話す声も土地の人とは違い、細くて高い。

八六胴突きに来た病人

原文
土淵村の中央にて役場小学校などのあるところを字本宿という。此所に豆腐屋を業とする政という者、今三十六七なるべし。この人の父大病にて死なんとするころ、この村と小烏瀬川を隔てたる字下栃内に普請ありて、地固めの堂突をなすところへ、夕方に政の父ひとり来たりて人々に挨拶し、おれも堂突をなすべしとて暫時仲間に入りて仕事をなし、やや暗くなりて皆とともに帰りたり。あとにて人々あの人は大病のはずなるにと少し不思議に思いしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔みに行き今日のことを語りしが、その時刻はあたかも病人が息を引き取らんとするころなりき。

土淵村の中心で、役場や小学校のあるあたりを本宿(もとじゅく)という。ここで豆腐屋を営む政という男は、いま三十六、七歳だろう。

政の父が重い病気で死にかけていたころ、小烏瀬川を渡った下栃内で家の普請があり、地固めの胴突きをしていた。その夕方、政の父がひとりでやって来て、みなにあいさつし、「おれも胴突きをしよう」と言った。しばらく仲間に入って働き、少し暗くなってから、みなといっしょに帰っていった。

あの人は重い病気のはずなのに――あとで人々は少し首をかしげた。のちに聞くと、その日に亡くなっていた。

お悔やみに行って昼間のことを話すと、その時刻は、ちょうど病人が息を引き取ろうとしていたころだった。

八七こぼされたお茶

原文
人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩いして命の境に臨みしころ、ある日ふと菩提寺に訪い来たれり。和尚鄭重にあしらい茶などすすめたり。世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣りしに、門を出でて家の方に向い、町の角を廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して常の体なりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態にてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きしところを改めしに、畳の敷合わせへ皆こぼしてありたり。

名前は忘れたが、遠野の町の豪家の主人が、重い病気で生死の境をさまよっていたころのこと。ある日ふらりと菩提寺を訪ねてきた。

和尚はていねいにもてなし、お茶をすすめた。世間話をして、やがて帰っていったが、そのようすにどこか妙なところがあった。小僧にあとをつけさせると、門を出て家の方へ向かい、町の角を曲がって見えなくなった。

その道でこの人に会った人は、ほかにもいる。誰にもきちんとあいさつして、ふだんと変わらないようすだった。

ところが、この人はその晩に亡くなった。もちろん、そのときは外へ出られるような容態ではなかった。

あとで寺で、お茶は飲んだのだろうかと、茶碗を置いたあたりを調べてみると、畳の合わせ目に、すっかりこぼしてあった。

八八常堅寺を訪ねた老人

原文
これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺は曹洞宗にて、遠野郷十二ヶ寺の触頭なり。或る日の夕方に村人何某という者、本宿より来る路にて何某という老人にあえり。この老人はかねて大病をして居る者なれば、いつのまによくなりしやと問うに、二三日気分も宜しければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合いて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりし故出迎え、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失せたり。

これも似た話である。

土淵村の常堅寺は曹洞宗の寺で、遠野の十二の寺のまとめ役である。

ある夕方、村の男が本宿から来る道で、ある老人に出会った。長く重い病気だった人なので、「いつのまに良くなったんだ」と聞くと、「二、三日調子がいいから、きょうは寺へ話を聞きに行くんだ」と言う。寺の門前でまた言葉を交わして別れた。

常堅寺では、和尚がこの老人を出迎えてお茶をすすめ、しばらく話をして、老人は帰っていった。これも小僧にあとを見に行かせると、門の外で姿が消えたので、驚いて和尚に知らせた。

調べてみると、やはりお茶は畳のすきまにこぼしてあった。老人はその日に亡くなっていた。

八九愛宕山の山の神

原文
山口より柏崎へ行くには愛宕山の裾を廻るなり。田圃に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木の林となる。愛宕山の頂には小さき祠ありて、参詣の路は林の中にあり。登口に鳥居立ち、二三十本の杉の古木あり。その旁にはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言い伝うるところなり。和野の何某という若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降り来る丈高き人あり。誰ならんと思い林の樹木越しにその人の顔のところを目がけて歩み寄りしに、道の角にてはたと行き逢いぬ。先方は思い掛けざりしにや大いに驚きて此方を見たる顔は非常に赤く、眼は耀きてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後をも見ずに柏崎の村に走りつきたり。 ○遠野郷には山神塔多く立てり、そのところはかつて山神に逢いまたは山神の祟を受けたる場所にて神をなだむるために建てたる石なり。

山口から柏崎へ行くには、愛宕山のすそを回っていく。田んぼに続く松林を抜け、柏崎の家々が見えるあたりから雑木林になる。

愛宕山の頂上には小さな祠があり、参道は林の中にある。登り口には鳥居が立ち、杉の古木が二、三十本。そのそばに、がらんとした堂がもうひとつあり、前には「山神」と刻んだ石塔が立っている。昔から山の神が出ると言われる場所だ。

和野の若者が、柏崎に用があって、夕方この堂のあたりを通りかかった。すると、愛宕山の上から背の高い人が下りてくる。誰だろうと、木々の間からその人の顔のあたりを見すえながら近づいていくと、道の曲がり角でばったり出くわした。

相手も思いがけなかったのか、ひどく驚いてこちらを見た。顔は真っ赤で、目はらんらんと輝き、いかにも驚いた顔をしていた。

山の神だ――そう悟った若者は、後ろも振り返らず、柏崎の村まで走り通した。

*遠野には山神塔がたくさん立っている。どれも、山の神に出会ったり祟られたりした場所に、神をなだめるために建てた石である。

九〇天狗森の大男

原文
松崎村に天狗森という山あり。その麓なる桑畠にて村の若者何某という者、働きていたりしに、頻に睡くなりたれば、しばらく畠の畔に腰掛けて居眠りせんとせしに、きわめて大なる男の顔は真赤なるが出で来たれり。若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すようなるを面悪く思い、思わず立ち上りてお前はどこから来たかと問うに、何の答えもせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思い、力自慢のまま飛びかかり手を掛けたりと思うや否や、かえりて自分の方が飛ばされて気を失いたり。夕方に正気づきてみれば無論その大男はおらず。家に帰りてのち人にこの事を話したり。その秋のことなり。早池峯の腰へ村人大勢とともに馬を曳きて萩を苅りに行き、さて帰らんとするころになりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死していたりという。今より二三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多くいるということは昔より人の知るところなり。

松崎村に天狗森という山がある。そのふもとの桑畑で、村の若者が働いていると、急に眠くてたまらなくなった。あぜに腰かけて居眠りしようとすると、とても大きな、顔の真っ赤な男が現れた。

若者は気のいい性分で、ふだんから相撲好きだった。見慣れない大男が立ちはだかって上から見下ろしてくるのが癪にさわり、思わず立ち上がった。

「お前、どこから来た」

返事はない。ひとつ突き飛ばしてやれと、力自慢にまかせて飛びかかった。ところが手をかけたと思った瞬間、逆に自分が投げ飛ばされて気を失った。

夕方に気がつくと、もちろん大男はいなかった。家に帰ってから、このことを人に話した。

その年の秋のこと。村人大勢で馬を引いて、早池峰の中腹へ萩を刈りに行った。さて帰ろうというとき、この若者だけが見当たらない。

みんなで探すと、深い谷の奥で、手も足も一本ずつ抜き取られて死んでいたという。

二、三十年前のことで、当時のことをよく知る老人がいまも生きている。天狗森に天狗が多いことは、昔からよく知られている。

九一鳥御前

原文
遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠なり。町の人綽名して鳥御前という。早池峯、六角牛の木や石や、すべてその形状と在処とを知れり。年取りてのち茸採りにとて一人の連とともに出でたり。この連の男というは水練の名人にて、藁と槌とを持ちて水の中に入り、草鞋を作りて出てくるという評判の人なり。さて遠野の町と猿ヶ石川を隔つる向山という山より、綾織村の続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の端より四五間ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢いたり。彼らは鳥御前の近づくを見て、手を拡げて押し戻すようなる手つきをなし制止したれども、それにも構わず行きたるに女は男の胸に縋るようにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思いながら、鳥御前はひょうきんな人なれば戯れて遣らんとて腰なる切刃を抜き、打ちかかるようにしたれば、その色赭き男は足を挙げて蹴りたるかと思いしが、たちまちに前後を知らず。連なる男はこれを探しまわりて谷底に気絶してあるを見つけ、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までに更になきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にもいうなと語り、三日ほどの間病みて身まかりたり。家の者あまりにその死にようの不思議なればとて、山臥のケンコウ院というに相談せしに、その答えには、山の神たちの遊べるところを邪魔したる故、その祟をうけて死したるなりといえり。この人は伊能先生なども知合なりき。今より十余年前の事なり。

遠野の町に、山のことにくわしい人がいた。もとは南部男爵家の鷹匠で、町の人から「鳥御前(とりごぜん)」とあだ名されていた。早池峰や六角牛の木や石の形と場所を、何から何まで知っていた。

年をとってから、連れとふたりできのこ採りに出かけた。連れは泳ぎの名人で、わらと槌を持って水に潜り、草鞋を編んで上がってくるという評判の男だった。

遠野の町から猿ヶ石川を渡った向山(むけえやま)を越え、綾織村の続石(つづきいし)という珍しい岩の少し上の山に入ったところで、二人は別れて歩いた。

鳥御前がひとりで少し登ったのは、秋の日が西の山の端から四、五間ほどの高さに傾いたころだった。

ふと見ると、大きな岩陰で、赤い顔の男と女が立ち話をしている。二人は鳥御前に気づくと、手を広げて押し返すようなしぐさで、来るなと止めた。かまわず進むと、女は男の胸にすがりついた。

どう見てもふつうの人間ではない。けれども鳥御前はひょうきんな人だったので、からかってやろうと腰の山刀を抜き、斬りかかるまねをした。すると赤い顔の男が足を上げて蹴った――と思った瞬間、何もわからなくなった。

連れの男はさんざん探し回って、谷底で気を失っている鳥御前を見つけ、介抱して家に連れ帰った。

鳥御前はその日の一部始終を話し、こう言った。

「こんなことは、これまで一度もなかった。おれはこれで死ぬかもしれない。ほかの者には誰にも言うな」

そして三日ほど寝こんで、亡くなった。

家の者はあまりに不思議な死に方なので、ケンコウ院という山伏に相談した。答えはこうだった。

「山の神たちが遊んでいるところを邪魔したので、その祟りで死んだのだ」

この人は伊能(嘉矩)先生とも知り合いだった。十年あまり前のことである。

九二「小国さ行く」

原文
昨年のことなり。土淵村の里の子十四五人にて早池峯に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓近くなるころ、丈の高き男の下より急ぎ足に昇りくるに逢えり。色は黒く眼はきらきらとして、肩には麻かと思わるる古き浅葱色の風呂敷にて小さき包を負いたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかと此方より声を掛けたるに、小国さ行くと答う。この路は小国へ越ゆべき方角にはあらざれば、立ちとまり不審するほどに、行き過ぐると思うまもなく、はや見えずなりたり。山男よと口々に言いてみなみな遁げ帰りたりといえり。

去年のこと。土淵村の子ども十四、五人が早池峰に遊びに行き、思いがけず夕方近くになった。急いで山を下り、ふもと近くまで来たとき、背の高い男が下から急ぎ足で登ってくるのに出会った。

色は黒く、目はぎらぎらしていて、麻らしい古い浅葱色の風呂敷で小さな包みを背負っている。

怖かったが、子どものひとりが声をかけた。

「どこへ行くの」

「小国さ行く」

けれどもこの道は、小国へ越える方角ではない。立ち止まって不審に思っていると、すれ違ったと思う間もなく、男の姿はもう見えなくなっていた。

「山男だ!」

口々に叫んで、みんな逃げ帰ったという。

九三「お前の子はもう死んでいるぞ」

原文
これは和野の人菊池菊蔵という者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり。この妻親里へ行きたる間に、糸蔵という五六歳の男の児病気になりたれば、昼過ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負う六角牛の峯続きなれば山路は樹深く、ことに遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて両方は岨なり。日影はこの岨に隠れてあたりやや薄暗くなりたるころ、後の方より菊蔵と呼ぶ者あるに振り返りて見れば、崖の上より下を覗くものあり。顔は赭く眼の光りかがやけること前の話のごとし。お前の子はもう死んで居るぞという。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはっと思いたりしが、はやその姿は見えず。急ぎ夜の中に妻を伴ないて帰りたれば、果して子は死してありき。四五年前のことなり。 ○ウドとは両側高く切込みたる路のことなり。東海道の諸国にてウタウ坂・謡坂などいうはすべてかくのごとき小さき切通しのことならん。

和野の菊池菊蔵の妻は、笛吹峠の向こうの橋野の出である。

妻が里帰りしているあいだに、五、六歳になる息子の糸蔵が病気になった。菊蔵は昼過ぎに家を出て、笛吹峠を越えて妻を迎えに行った。

名高い六角牛山の峰続きなので、山道は木が深い。とくに遠野側から栗橋側へ下りかけるあたりは、道が「ウド」――両側が切り立った切り通し――になっている。

日が崖にさえぎられて、あたりが薄暗くなったころ、後ろから「菊蔵」と呼ぶ声がした。振り返ると、崖の上から誰かがのぞきこんでいる。顔は赤く、目がぎらぎら光っているのは、前の話と同じだ。

「お前の子はもう死んでいるぞ」

その言葉を聞いて、恐ろしさよりも先に、はっと胸を突かれた。その姿はもう消えていた。

急いで妻を連れ、その夜のうちに帰ると、はたして子どもは死んでいた。四、五年前のことである。

*ウドとは、両側を高く切りこんだ道のことである。東海道の国々の「謡坂(うたうざか)」なども、こうした切り通しのことだろう。

九四狐と相撲

原文
この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞われたる残りの餅を懐に入れて、愛宕山の麓の林を過ぎしに、象坪の藤七という大酒呑にて彼と仲善の友に行き逢えり。そこは林の中なれど少しく芝原あるところなり。藤七はにこにことしてその芝原を指し、ここで相撲を取らぬかという。菊蔵これを諾し、二人草原にてしばらく遊びしが、この藤七いかにも弱く軽く自由に抱えては投げらるる故、面白きままに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなわず、さあ行くべしとて別れたり。四五間も行きてのち心づきたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれどなし。始めて狐ならんかと思いたれど、外聞を恥じて人にもいわざりしが、四五日ののち酒屋にて藤七に逢いその話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言いて、いよいよ狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵はなお他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休みに人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれもじつはとこの話を白状し、大いに笑われたり。 ○象坪は地名にしてかつ藤七の名字なり。象坪という地名のこと『石神問答』の中にてこれを研究したり。

この菊蔵が、柏崎の姉の家に用があって出かけた。ごちそうになった残りの餅を懐に入れて、愛宕山のふもとの林を通りかかると、象坪(ぞうつぼ)の藤七に出会った。大酒飲みで、菊蔵とは仲のよい友だちである。

そこは林の中だが、少し芝生になっている。藤七はにこにこしながら芝生を指さした。

「ここで相撲を取らないか」

菊蔵は承知して、しばらく取り組んだ。ところが藤七がやけに弱くて軽く、ひょいひょいと抱えては投げられる。面白くなって三番も取った。

「きょうはとてもかなわない。さあ行こう」

藤七がそう言って、二人は別れた。

四、五間ほど歩いてから気がつくと、懐の餅がない。相撲を取ったところへ戻って探したが、見つからない。そこではじめて、狐だったかと思った。

けれども外聞が悪いので、誰にも言わなかった。四、五日たって酒屋で藤七に会い、その話をすると、

「おれが相撲なんか取るものか。その日は浜へ行っていたんだぞ」

これで、狐と相撲を取ったことがいよいよはっきりした。

それでも菊蔵は、ほかの人にはずっと黙っていた。ところが去年の正月休み、みんなで酒を飲みながら狐の話になったとき、「実はおれも……」とこの話を白状して、大笑いされた。

*象坪は地名で、藤七の名字でもある。象坪という地名については『石神問答』で考察した。

九五空に昇る石

原文
松崎の菊池某という今年四十三四の男、庭作りの上手にて、山に入り草花を掘りてはわが庭に移し植え、形の面白き岩などは重きを厭わず家に担い帰るを常とせり。或る日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までついに見たることなき美しき大岩を見つけたり。平生の道楽なればこれを持ち帰らんと思い、持ち上げんとせしが非常に重し。あたかも人の立ちたる形して丈もやがて人ほどあり。されどほしさのあまりこれを負い、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなるくらい重ければ怪しみをなし、路の旁にこれを立て少しくもたれかかるようにしたるに、そのまま石とともにすっと空中に昇り行く心地したり。雲より上になりたるように思いしがじつに明るく清きところにて、あたりにいろいろの花咲き、しかも何処ともなく大勢の人声聞えたり。されど石はなおますます昇り行き、ついには昇り切りたるか、何事も覚えぬようになりたり。その後時過ぎて心づきたる時は、やはり以前のごとく不思議の石にもたれたるままにてありき。この石を家の内へ持ち込みてはいかなることあらんも測りがたしと、恐ろしくなりて遁げ帰りぬ。この石は今も同じところにあり。おりおりはこれを見て再びほしくなることありといえり。

松崎の菊池なにがしは、今年四十三、四歳。庭づくりの名人で、山に入っては草花を掘ってきて自分の庭に植え、形の面白い岩があれば、重いのもかまわず担いで帰るのが常だった。

ある日、少し気分がすぐれないので、気晴らしに山へ出かけた。すると、これまで見たこともない美しい大岩を見つけた。ふだんからの道楽なので、持ち帰ろうと持ち上げてみたが、とても重い。ちょうど人が立っているような形で、背丈も人ほどある。

それでもほしくてたまらず、背負って、こらえながら十間ほど歩いた。けれども気が遠くなるほど重い。さすがにおかしいと思い、道ばたに岩を立てて、少しもたれかかった。

そのとたん、岩ごと、すうっと空へ昇っていくような心地がした。

雲の上まで来たと思ったころ、そこはとても明るく清らかなところで、まわりにはいろいろな花が咲き、どこからともなく大勢の人の声が聞こえてきた。それでも岩はなおぐんぐん昇っていき、ついには昇りつめたのか、何もわからなくなった。

しばらくして気がつくと、もとのように、あの不思議な岩にもたれかかっていた。

こんな岩を家に持ちこんだら、何が起こるかわからない――急に怖くなって、逃げ帰った。

その岩はいまも同じところにある。ときどきそれを見ると、またほしくなってしまう、と彼は言う。

九六「火事だ、火事だ」

原文
遠野の町に芳公馬鹿とて三十五六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾い、これを捻りてつくづくと見つめまたはこれを嗅ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何ものにても眼の先きまで取り上げ、にこにことしておりおりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ち留り、石などを拾い上げてこれをあたりの人家に打ちつけ、けたたましく火事だ火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げつけられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、のちにはその家々も注意して予防をなすといえども、ついに火事を免れたる家は一軒もなしといえり。

遠野の町に、芳公(よしこう)と呼ばれる三十五、六の男がいた。知的な障害があり、おととしまで生きていた。

この男には、道で木切れやごみを拾い、ひねってじっと見つめたり、においを嗅いだりする癖があった。人の家に上がると柱をこすってその手を嗅ぎ、何でも目の前まで持ち上げては、にこにこしながら嗅いでいた。

この男が、道を歩きながら急に立ち止まり、石を拾って近くの家に投げつけ、けたたましく「火事だ、火事だ」と叫ぶことがあった。すると、その晩か翌日に、石を投げつけられた家から必ず火が出た。

そんなことが何度もあったので、のちには家々も用心して火の始末に気をつけたが、それでも火事をまぬかれた家は一軒もなかったという。

※原文はこの人物を当時の差別的な語で呼んでいるため、言い換えた。

九七けしの花の野

原文
飯豊の菊池松之丞という人傷寒を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛び上り、およそ人の頭ほどのところを次第に前下りに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。何とも言われず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故ならんと訝りつつ門を入れば、紅の芥子の花咲き満ち、見渡すかぎりも知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡くなりし父立てり。お前もきたのかという。これに何か返事をしながらなお行くに、以前失いたる男の子おりて、トッチャお前もきたかという。お前はここにいたのかと言いつつ近よらんとすれば、今きてはいけないという。この時門の辺にて騒しくわが名を喚ぶ者ありて、うるさきこと限りなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思えば正気づきたり。親族の者寄り集い水など打ちそそぎて喚び生かしたるなり。

飯豊の菊池松之丞という人が、重い熱病にかかって、何度も息が止まりかけたときのこと。

気がつくと、自分は田んぼに出て、菩提寺のキセイ院へ急いで向かっていた。足に少し力を入れると、ふわりと宙に浮かび上がった。人の頭くらいの高さを、だんだん前のめりに下がりながら進んでいく。また少し力を入れると、はじめのようにまた浮かぶ。なんとも言えず気持ちがいい。

寺の門に近づくと、大勢の人が集まっている。なぜだろうと思いながら門を入ると、真っ赤なけしの花が一面に咲き、見渡すかぎり果てがない。ますます心地よい。

その花の中に、亡くなった父が立っていた。

「お前も来たのか」

何か答えながらさらに進むと、以前に亡くした息子がいた。

「トッチャ(父ちゃん)、お前も来たのか」

「お前、ここにいたのか」

そう言って近寄ろうとすると、息子が言った。

「いま来ちゃいけない」

そのとき、門のあたりで誰かが騒がしく自分の名を呼んだ。うるさくてたまらないが、しかたがない。重い心で、いやいや引き返した――と思ったところで、正気に返った。

親族が集まって、水をかけたりしながら、名を呼んで呼び戻してくれていたのだった。

九八道ばたの石

原文
路の傍に山の神、田の神、塞の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峯山・六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。

道ばたに、山の神・田の神・塞(さえ)の神の名を彫った石を立てるのは、ありふれたことである。また、早池峰山や六角牛山の名を刻んだ石は遠野にもあるが、海辺のほうにずっと多い。

九九霧の中の妻

地図の話「田の浜」へ
原文
土淵村の助役北川清という人の家は字火石にあり。代々の山臥にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯に遭いて妻と子とを失い、生き残りたる二人の子とともに元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞あるところまで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情なくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりしと心づき、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり。

土淵村の助役、北川清の家は火石(ひいし)にある。代々山伏の家で、祖父の正福院は学者として多くの著作を残し、村のために尽くした人だった。

清の弟の福二は、海辺の田の浜へ婿に行った。ところが先年の大津波で妻と子を失い、生き残った二人の子と、もとの屋敷跡に小屋を建てて、一年ほど暮らしていた。

初夏の月夜のこと。福二は便所に起きた。便所は離れたところにあり、行く道は波の打ち寄せる渚である。

霧の立ちこめた夜だった。その霧の中から、男と女が近づいてくる。見ると、女はまぎれもなく亡くなった妻だった。

思わずあとをつけて、はるばる船越村の方へ向かう岬の、洞穴のあるところまで追っていった。名を呼ぶと、妻は振り返って、にこっと笑った。

男の方を見ると、これも同じ村の者で、津波で死んだ人だった。福二が婿に入る前、妻と深く心を通わせていたと聞いていた男である。

「いまは、この人と夫婦になっています」

妻がそう言うので、福二は言った。

「子どもがかわいくはないのか」

すると妻は少し顔色を変えて、泣いた。

死んだ人と話しているとは思えなかった。悲しく、情けなくなって、うつむいて足もとを見ていると、そのあいだに二人はまた足早に立ち去り、小浦(おうら)へ行く道の山陰を回って、見えなくなった。

追いかけてみたが、ふと、あれは死んだ人だったのだと気づいた。夜明けまで道の真ん中に立ちつくして考え、朝になって帰った。

その後、福二は長く病みついたという。

※「先年の大津波」は、明治二十九年(一八九六年)の明治三陸大津波のこと。

一〇〇妻に化けた狐

原文
船越の漁夫何某。ある日仲間の者とともに吉利吉里より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のあるところにて一人の女に逢う。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思い定め、やにわに魚切庖丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。しばらくの間は正体を現わさざれば流石に心に懸り、後の事を連の者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるると思いて目覚めたりという。さてはと合点して再び以前の場所へ引き返してみれば、山にて殺したりし女は連の者が見ておる中についに一匹の狐となりたりといえり。夢の野山を行くにこの獣の身を傭うことありと見ゆ。

船越の漁師が、ある日仲間と吉利吉里から帰る途中、夜ふけに四十八坂のあたりを通りかかった。小川のほとりで、ひとりの女に出会った。見ると自分の妻である。

けれども、こんな夜中に、妻がひとりでこんなところへ来るはずがない。きっと化け物だ――そう決めつけて、いきなり魚切り包丁で後ろから刺し通した。女は悲しい声をあげて死んだ。

ところが、しばらくたっても正体を現さない。さすがに心配になり、あとを仲間に頼んで、走って家に帰った。

妻は何事もなく家で待っていた。

「いま恐ろしい夢を見ました。あまり帰りが遅いので、夢の中で途中まで迎えに出たら、山道で何かわからないものにおどされて、殺されると思ったところで目が覚めたのです」

さては、と思ってもとの場所に戻ってみると、殺した女は、仲間が見ている前で、とうとう一匹の狐の姿になったという。

夢の中で野山を歩くとき、魂はこの獣の体を借りることがあるらしい。

一〇一起き上がる死人

原文
旅人豊間根村を過ぎ、夜更け疲れたれば、知音の者の家に灯火の見ゆるを幸に、入りて休息せんとせしに、よき時に来合せたり、今夕死人あり、留守の者なくていかにせんかと思いしところなり、しばらくの間頼むといいて主人は人を喚びに行きたり。迷惑千万なる話なれど是非もなく、囲炉裡の側にて煙草を吸いてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば床の上にむくむくと起き直る。胆潰れたれど心を鎮め静かにあたりを見廻すに、流し元の水口の穴より狐のごとき物あり、面をさし入れて頻に死人の方を見つめていたり。さてこそと身を潜め窃かに家の外に出で、背戸の方に廻りて見れば、正しく狐にて首を流し元の穴に入れ後足を爪立てていたり。有合わせたる棒をもてこれを打ち殺したり。 ○下閉伊郡豊間根村大字豊間根。

ある旅人が豊間根村を通りかかった。夜もふけて疲れていたので、知り合いの家に明かりがついているのを幸い、休ませてもらおうと立ち寄った。すると主人が言った。

「いいところへ来てくれた。今夜、死人が出たんだが、留守番がいなくて困っていたんだ。しばらく頼む」

そう言って、主人は人を呼びに出ていってしまった。

迷惑な話だが、しかたがない。囲炉裏のそばでたばこを吸っていた。死んだのは老女で、奥に寝かされている。ふと見ると、その死人が布団の上で、むくむくと起き上がった。

肝がつぶれそうになったが、心を落ち着けて、静かにあたりを見回した。すると、台所の流しの水口の穴から、狐のようなものが顔を突っこんで、じっと死人の方を見つめている。

さては、と旅人は身を低くして、そっと外へ出た。裏口へ回ってみると、やはり狐で、流しの穴に首を突っこみ、後ろ足をつま立てていた。

旅人はそこにあった棒で、狐を打ち殺した。

一〇二小正月の夜

原文
正月十五日の晩を小正月という。宵のほどは子供ら福の神と称して四五人群を作り、袋を持ちて人の家に行き、明の方から福の神が舞い込んだと唱えて餅を貰う習慣あり。宵を過ぐればこの晩に限り人々決して戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと言い伝えてあればなり。山口の字丸古立におまさという今三十五六の女、まだ十二三の年のことなり。いかなるわけにてか唯一人にて福の神に出で、ところどころをあるきて遅くなり、淋しき路を帰りしに、向うの方より丈の高き男来てすれちがいたり。顔はすてきに赤く眼はかがやけり。袋を捨てて遁げ帰り大いに煩いたりといえり。

正月十五日の晩を小正月という。

宵のうちは、子どもたちが「福の神」と称して四、五人で組になり、袋を持って家々を回る。「明きの方から福の神が舞いこんだ」と唱えて、餅をもらうのである。

けれども宵を過ぎると、この晩だけは誰も外へ出ない。小正月の夜中過ぎには、山の神が出て遊ぶと言われているからだ。

山口の丸古立(まるこだち)に住む、おまさという三十五、六の女の話。

まだ十二、三のころ、どういうわけか、ひとりで福の神に出かけた。あちこち回って遅くなり、寂しい道を帰ってくると、向こうから背の高い男が来て、すれ違った。顔はものすごく赤く、目がぎらぎら光っていた。

おまさは袋を放り出して逃げ帰り、ひどく寝こんだという。

一〇三雪女

原文
小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいう。童子をあまた引き連れてくるといえり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇遊びをして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりという者は少なし。

小正月の夜、あるいは小正月でなくても冬の満月の夜には、雪女が出て遊ぶという。子どもをたくさん引き連れてくるそうだ。

村の子どもたちは、冬になると近くの丘でそり遊びをして、夢中になって夜になってしまうことがある。けれども十五日の夜だけは、「雪女が出るから早く帰れ」と言い聞かされるのが常である。

とはいえ、雪女を見たという人は少ない。

一〇四胡桃の月占い

原文
小正月の晩には行事甚だ多し。月見というは六つの胡桃の実を十二に割り一時に炉の火にくべて一時にこれを引き上げ、一列にして右より正月二月と数うるに、満月の夜晴なるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月には直に黒くなり、風ある月にはフーフーと音をたてて火が振うなり。何遍繰り返しても同じことなり。村中いずれの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日はこの事を語り合い、例えば八月の十五夜風とあらば、その歳の稲の苅入を急ぐなり。 ○五穀の占、月の占多少のヴァリエテをもって諸国に行なわる。陰陽道に出でしものならん。

小正月の晩には、さまざまな行事がある。

「月見」という占いでは、胡桃の実六つを十二に割り、いっせいに炉の火にくべて、いっせいに取り出す。それを一列に並べ、右から一月、二月……と数える。

満月の夜が晴れる月の胡桃はいつまでも赤く、曇る月の胡桃はすぐに黒くなる。風の吹く月の胡桃は、フーフーと音を立てて火が震える。何度やっても同じ結果になる。しかも、村じゅうどの家でやっても同じ結果が出るのが不思議である。

翌日はみなでこの結果を話し合う。たとえば八月の十五夜が風と出れば、その年は稲刈りを急ぐのである。

*穀物や月の占いは、多少の違いはあっても各地で行われている。陰陽道から出たものだろう。

一〇五世中見

原文
また世中見というは、同じく小正月の晩に、いろいろの米にて餅をこしらえて鏡となし、同種の米を膳の上に平らに敷き、鏡餅をその上に伏せ、鍋を被せ置きて翌朝これを見るなり。餅につきたる米粒の多きものその年は豊作なりとして、早中晩の種類を択び定むるなり。

「世中見(よなかみ)」というのも小正月の晩の占いである。

いろいろな種類の米でそれぞれ鏡餅を作る。膳の上に同じ種類の米を平らに敷き、その上に鏡餅を伏せ、鍋をかぶせておく。翌朝それを見て、餅に米粒がたくさんついた種類が、その年は豊作だとする。そうして、早稲・中稲・晩稲のどれを作るかを決めるのである。

一〇六山田の蜃気楼

原文
海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりという。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違うことなしといえり。

海辺の山田では、毎年蜃気楼が見える。いつも外国の景色だという。見たこともない都のようすで、道には車や馬が行き交い、人の往来が目を見張るほどにぎやかだ。年ごとに見ても、家の形などは少しも変わらないという。

一〇七山の神にもらった木の葉

原文
上郷村に河ぷちのうちという家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。丈高く面朱のようなる人なり。娘はこの日より占の術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといえり。

上郷村の早瀬川の岸に、「河ぷちのうち」という家がある。

この家の若い娘が、ある日河原で石を拾っていると、見慣れない男が来て、木の葉か何かを娘にくれた。背が高く、顔が朱のように赤い人だった。

娘はその日から、占いができるようになった。あの男は山の神で、娘は山の神の子になったのだという。

一〇八心を読む占い師

原文
山の神の乗り移りたりとて占をなす人は所々にあり。附馬牛村にもあり。本業は木挽なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしに、ある日山に入りて山の神よりその術を得たりしのちは、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占いの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、頼みにきたる人と世間話をなし、その中にふと立ちて常居の中をあちこちとあるき出すと思うほどに、その人の顔は少しも見ずして心に浮びたることをいうなり。当らずということなし。例えばお前のウチの板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡または刀の折れあるべし。それを取り出さねば近き中に死人ありとか家が焼くるとかいうなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かかる例は指を屈するに勝えず。

山の神が乗り移ったといって占いをする人は、あちこちにいる。附馬牛村にもひとりいて、本業は木挽き(材木をのこぎりで挽く職人)だ。柏崎の孫太郎もそのひとりである。

孫太郎はもともと気がふれて正気を失っていたが、ある日山に入って山の神から術を授かってからは、驚くほど人の心の中を言い当てるようになった。

その占いのやり方は、世間の占い師とはまるで違う。書物などいっさい見ない。頼みに来た人と世間話をしているうちに、ふと立ち上がって居間の中をあちこち歩き回り、相手の顔をまったく見ないまま、心に浮かんだことを口にする。それが外れたことがない。

たとえば、こんなふうに言う。

「お前の家の板の間をはがして、土を掘ってみろ。古い鏡か、折れた刀が出てくるはずだ。それを取り出さないと、近いうちに死人が出るか、家が焼けるぞ」

帰って掘ってみると、必ず出てくる。こうした例は数えきれない。

一〇九雨風祭

原文
盆のころには雨風祭とて藁にて人よりも大なる人形を作り、道の岐に送り行きて立つ。紙にて顔を描き瓜にて陰陽の形を作り添えなどす。虫祭の藁人形にはかかることはなくその形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて頭屋を択び定め、里人集まりて酒を飲みてのち、一同笛太鼓にてこれを道の辻まで送り行くなり。笛の中には桐の木にて作りたるホラなどあり。これを高く吹く。さてその折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という。 ○『東国輿地勝覧』によれば韓国にても厲壇を必ず城の北方に作ること見ゆ。ともに玄武神の信仰より来たれるなるべし。

お盆のころには「雨風祭(あめかぜまつり)」がある。わらで人より大きな人形を作り、道の分かれ目まで送っていって立てる。紙で顔を描き、瓜で男女のしるしを作って添えたりする。虫送りのわら人形にはそういう飾りはなく、形も小さい。

雨風祭では、集落の中で当番の家を決め、村人がそこに集まって酒を飲む。それから一同、笛や太鼓でにぎやかに人形を道の辻まで送っていく。笛の中には、桐の木で作ったホラ(ほら貝のような笛)もあり、これを高らかに吹き鳴らす。

そのときの歌はこうだ。

「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」

(二百十日の雨風をお祭りするよ。どっちの方へ祭る? 北の方へ祭る)

*『東国輿地勝覧』によると、朝鮮でも厲壇(災いを鎮める祭壇)を必ず町の北に作るという。どちらも北方を守る玄武神の信仰から来たものだろう。

※二百十日は立春から数えて二百十日目、九月一日ごろ。台風が来やすい厄日とされた。

一一〇火を食べるゴンゲサマ

原文
ゴンゲサマというは、神楽舞の組ごとに一つずつ備われる木彫の像にして、獅子頭とよく似て少しく異なれり。甚だ御利生のあるものなり。新張の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村字五日市の神楽組のゴンゲサマと、かつて途中にて争いをなせしことあり。新張のゴンゲサマ負けて片耳を失いたりとて今もなし。毎年村々を舞いてあるく故、これを見知らぬ者なし。ゴンゲサマの霊験はことに火伏にあり。右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて日暮れ宿を取り兼ねしに、ある貧しき者の家にて快くこれを泊めて、五升桝を伏せてその上にゴンゲサマを座え置き、人々は臥したりしに、夜中にがつがつと物を噛む音のするに驚きて起きてみれば、軒端に火の燃えつきてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上り飛び上りして火を喰い消してありしなりと。子どもの頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を噛みてもらうことあり。

ゴンゲサマは、神楽の組ごとにひとつずつ持っている木彫りの像で、獅子頭によく似ているが、少し違う。とてもご利益があるものだ。

昔、新張の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村五日市の神楽組のゴンゲサマが、道の途中でけんかをしたことがある。負けた新張のゴンゲサマは片耳を失い、いまも耳が片方ない。毎年村々を舞って回るので、知らない者はいない。

ゴンゲサマのご利益は、とくに火よけにある。

あるとき、八幡の神楽組が附馬牛村へ行き、日が暮れても宿が見つからなかった。ある貧しい家が快く泊めてくれたので、五升枡を伏せた上にゴンゲサマを据えて、みんな眠った。

夜中、がつがつと何かを噛む音がする。驚いて起きてみると、軒先に火が燃え移っていた。それを、枡の上のゴンゲサマがぴょんぴょん飛び上がりながら、火を食べて消していたのだという。

頭の病気の子どもなどは、よくゴンゲサマに頼んで、病を噛んでもらうことがある。

一一一ダンノハナと蓮台野

地図の話「デンデラ野」へ
原文
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習ありき。老人はいたずらに死んで了うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。そのために今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。 ○ダンノハナは壇の塙なるべし。すなわち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中にいえり。

山口、飯豊、附馬牛の荒川東禅寺と火渡(ひわたり)、青笹の中沢、そして土淵村の土淵――これらの土地には、どこも「ダンノハナ」という地名がある。そしてその近くには、必ずそれと向かい合うように「蓮台野(れんだいの)」という土地がある。

昔は、六十を過ぎた老人は、みなこの蓮台野へ追いやられるならわしがあった。けれども老人たちは、ただ死を待つわけにもいかないので、昼間は里へ下りて畑仕事をし、食いつないでいた。

そのため今でも山口や土淵のあたりでは、朝、野良仕事に出ることを「ハカダチ(墓立ち)」、夕方、野良から帰ることを「ハカアガリ(墓上がり)」というそうだ。

*ダンノハナは「壇の塙(はなわ)」、つまり丘の上に塚を築いた場所だろう。境の神を祀る塚だと私は考えている。蓮台野も同じたぐいであることは『石神問答』で述べた。

※蓮台野は、いまは「デンデラ野」の名で知られる。

一一二蝦夷屋敷と土器

原文
ダンノハナは昔館のありし時代に囚人を斬りし場所なるべしという。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは大洞へ越ゆる丘の上にて館址よりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなわちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷という。此所には蝦夷屋敷という四角に凹みたるところ多くあり。その跡きわめて明白なり。あまた石器を出す。石器土器の出るところ山口に二ヶ所あり。他の一は小字をホウリョウという。ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然殊なり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリョウのは模様なども巧なり。埴輪もここより出づ。また石斧石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭とて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる渦紋などの模様あり。字ホウリョウには丸玉・管玉も出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。ホウリョウの方は何の跡ということもなく、狭き一町歩ほどの場所なり。星谷は底の方今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありしなりという。このあたりに掘れば祟ありという場所二ヶ所ほどあり。 ○外の村々にても二所の地形および関係これに似たりという。 ○星谷という地名も諸国にあり星を祭りしところなり。 ○ホウリョウ権現は遠野をはじめ奥羽一円に祀らるる神なり。蛇の神なりという。名義を知らず。

ダンノハナは、昔、豪族の館があったころに罪人を斬った場所だろうという。地形は山口も土淵も飯豊もほぼ同じで、村境の丘の上にある。仙台にもこの地名がある。

山口のダンノハナは、大洞へ越える丘の上で、館の跡から続いている。蓮台野は、山口の集落をはさんでその向かいにあり、四方を沢に囲まれている。東はダンノハナとのあいだの低地、南は星谷(ほしや)という。

星谷には「蝦夷屋敷」と呼ばれる四角いくぼみがたくさんあり、跡がとてもはっきりしている。石器もたくさん出る。

山口で石器や土器が出るところは二か所あり、もうひとつはホウリョウという小字だ。ここの土器と蓮台野の土器は、まるで様式が違う。蓮台野のものには技巧がまったくないが、ホウリョウのものは模様なども巧みである。埴輪も出るし、石斧や石刀のたぐいも出る。

蓮台野からは「蝦夷銭」と呼ばれる、土でできた銭の形のもの(直径二寸ほど)がたくさん出る。単純な渦巻き模様などがついている。ホウリョウからは丸玉や管玉も出る。ホウリョウの石器は精巧で、石の質もそろっているが、蓮台野のものは材料がまちまちだ。

ホウリョウは何の跡というわけでもない、一町歩ほどの狭い土地である。星谷は、底のほうがいまは田んぼになっている。蝦夷屋敷はその両側に並んでいたという。

このあたりには、掘ると祟りがあるという場所が二か所ほどある。

*ほかの村々でも、二つの場所の地形や関係はこれと似ているという。

*星谷という地名は各地にあり、星を祀った場所である。

*ホウリョウ権現は、遠野をはじめ東北一帯で祀られている蛇の神だという。名の由来はわからない。

※ここでいう「埴輪」は、土偶など古い土製品をひろく指しているとみられる。

一一三ジョウヅカ森

原文
和野にジョウヅカ森というところあり。象を埋めし場所なりといえり。此所だけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジョウヅカ森へ遁げよと昔より言い伝えたり。これは確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。これを掘れば祟ありという。 ○ジョウズカは定塚、庄塚または塩塚などとかきて諸国にあまたあり。これも境の神を祀りしところにて地獄のショウツカの奪衣婆の話などと関係あること『石神問答』に詳にせり。また象坪などの象頭神とも関係あれば象の伝説は由なきにあらず、塚を森ということも東国の風なり。

和野にジョウヅカ森というところがある。象を埋めた場所だという。ここだけは地震がないといわれ、近くでは昔から「地震のときはジョウヅカ森へ逃げろ」と言い伝えている。

これは確かに人を葬った墓である。塚のまわりには堀があり、上には石がある。掘ると祟りがあるという。

*ジョウヅカは定塚・庄塚・塩塚などと書き、全国にたくさんある。これも境の神を祀った場所で、三途の川の奪衣婆の話などとかかわりがあることは『石神問答』でくわしく述べた。象坪の「象頭神」とも関係があるので、象の伝説もいわれのないことではない。塚を「森」と呼ぶのも東国の習わしである。

一一四ダンノハナの青石

原文
山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を栽えめぐらしその口は東方に向かいて門口めきたるところあり。その中ほどに大なる青石あり。かつて一たびその下を掘りたる者ありしが、何ものをも発見せず。のち再びこれを試みし者は大なる瓶あるを見たり。村の老人たち大いに叱りければ、またもとのままになし置きたり。館の主の墓なるべしという。此所に近き館の名はボンシャサの館という。いくつかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り廻らせり。寺屋敷・砥石森などいう地名あり。井の跡とて石垣残れり。山口孫左衛門の祖先ここに住めりという。『遠野古事記』に詳かなり。

山口のダンノハナは、いまは共同墓地になっている。丘の頂上にうつぎがぐるりと植えられ、東側が門口のように開いている。その真ん中に大きな青石がある。

昔、一度その下を掘った人がいたが、何も出なかった。のちにまた掘った人は、大きな甕があるのを見た。村の老人たちがひどく叱ったので、またもとどおりに埋め戻した。館の主の墓だろうという。

近くの館はボンシャサの館という。いくつかの山を掘り割って水を引き、三重、四重に堀をめぐらせていた。寺屋敷、砥石森などの地名が残り、井戸の跡の石垣もある。山口孫左衛門の祖先がここに住んでいたといい、『遠野古事記』にくわしい。

一一五昔々

原文
御伽話のことを昔々という。ヤマハハの話最も多くあり。ヤマハハは山姥のことなるべし。その一つ二つを次に記すべし。

昔話のことを、遠野では「昔々(むかしむかし)」という。いちばん多いのはヤマハハの話だ。ヤマハハとは山姥のことだろう。そのうち一つ二つを次に書いておく。

一一六ヤマハハと娘

原文
昔々あるところにトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰がきても戸を明けるなと戒しめ、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみていたりしに、真昼間に戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破るぞと嚇す故に、是非なく戸を明けたれば入りきたるはヤマハハなり。炉の横座に蹈みはたかりて火にあたり、飯をたきて食わせよという。その言葉に従い膳を支度してヤマハハに食わせ、その間に家を遁げ出したるに、ヤマハハは飯を食い終りて娘を追い来たり、おいおいにその間近く今にも背に手の触るるばかりになりし時、山の蔭にて柴を苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴の束をのけんとして柴を抱えたるまま山より滑り落ちたり。その隙にここを遁れてまた萱を苅る翁に逢う。おれはヤマハハにぼっかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅り置きたる萱の中に隠れたり。ヤマハハはまた尋ね来たりて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱えたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここを遁れ出でて大きなる沼の岸に出でたり。これよりは行くべき方もなければ、沼の岸の大木の梢に昇りいたり。ヤマハハはどけえ行ったとて遁がすものかとて、沼の水に娘の影の映れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。この間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋のあるを見つけ、中に入りて見れば若き女いたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃のありし中へ隠してもらいたるところへ、ヤマハハまた飛び来たり娘のありかを問えども隠して知らずと答えたれば、いんね来ぬはずはない、人くさい香がするものという。それは今雀を炙って食った故なるべしと言えば、ヤマハハも納得してそんなら少し寝ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言いて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女はこれに鍵を下し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハハに連れて来られたる者なればともどもにこれを殺して里へ帰らんとて、錐を紅く焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハハはかくとも知らず、ただ二十日鼠がきたと言えり。それより湯を煮立てて焼錐の穴より注ぎ込みて、ついにそのヤマハハを殺し二人ともに親々の家に帰りたり。昔々の話の終りはいずれもコレデドンドハレという語をもって結ぶなり。

昔々、あるところにトト(父)とガガ(母)がいて、娘がひとりいた。

二人は町へ出かけるとき、娘に言いつけた。

「誰が来ても、戸を開けるんじゃないぞ」

そして外から鍵をかけて出ていった。

娘は怖くて、炉にあたってひとりですくんでいた。すると真っ昼間、戸をたたいて呼ぶ者がいる。

「ここを開けろ。開けないなら蹴破るぞ」

しかたなく戸を開けると、入ってきたのはヤマハハだった。炉の上座にどっかと足を踏ん張って火にあたり、「飯を炊いて食わせろ」と言う。

娘は言われるままに膳を用意してヤマハハに食べさせ、そのすきに家を逃げ出した。

ヤマハハは飯を食べ終えると、娘を追いかけてきた。だんだん距離が縮まって、いまにも背中に手が届きそうになったとき、山陰で柴を刈っているおじいさんに出会った。

「ヤマハハに追いかけられているの、かくまって!」

娘は刈ってあった柴の山の中に隠れた。追ってきたヤマハハは、「どこに隠れた」と柴の束をどかそうとして、柴を抱えたまま山から転げ落ちた。

そのすきに逃げると、今度は萱を刈っているおじいさんに出会った。

「ヤマハハに追いかけられているの、かくまって!」

萱の山に隠れると、またヤマハハがやって来て、萱の束をどかそうとして、萱を抱えたまま山から転げ落ちた。

そのすきにまた逃げ出すと、大きな沼のほとりに出た。もう行き場がない。娘は岸の大木によじ登った。

「どこへ行ったって逃がすものか」

ヤマハハは沼の水面に娘の姿が映っているのを見て、そのまま沼に飛びこんだ。

そのあいだに娘はまた走りだし、笹でふいた小屋を見つけた。中に入ると、若い女がいた。わけを話すと、女は娘を石の唐櫃(からうど・大きなふたつきの箱)の中に隠してくれた。

そこへヤマハハが飛びこんできた。

「娘はどこだ」

「知らないよ」

「いいや、来ないはずはない。人くさいにおいがする」

「それは、さっき雀をあぶって食べたからだろう」

ヤマハハは納得して言った。

「それなら少し寝るか。石のからうどにしようか、木のからうどにしようか。石は冷たい、木のからうどにしよう」

そして木の唐櫃に入って寝てしまった。

女は唐櫃に鍵をかけると、娘を石の唐櫃から出して言った。

「私もヤマハハにさらわれてきたの。いっしょにこいつを殺して、里へ帰りましょう」

二人は錐を真っ赤に焼いて、木の唐櫃に突き刺した。ヤマハハは何も知らず、「なんだ、二十日鼠か」と言った。

それから湯を煮え立たせ、錐の穴から注ぎこんで、とうとうヤマハハを退治した。そして二人とも、それぞれの親の家に帰った。

昔々の話は、どれも最後を「コレデドンドハレ(これでおしまい)」という言葉で結ぶのである。

一一七おりこひめこ

原文
昔々これもあるところにトトとガガと、娘の嫁に行く支度を買いに町へ出で行くとて戸を鎖し、誰がきても明けるなよ、はアと答えたれば出でたり。昼のころヤマハハ来たりて娘を取りて食い、娘の皮を被り娘になりておる。夕方二人の親帰りて、おりこひめこ居たかと門の口より呼べば、あ、いたます、早かったなしと答え、二親は買い来たりしいろいろの支度の物を見せて娘の悦ぶ顔を見たり。次の日夜の明けたる時、家の鶏羽ばたきして、糠屋の隅ッ子見ろじゃ、けけろと啼く。はて常に変りたる鶏の啼きようかなと二親は思いたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハハのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするときまた鶏啼く。その声は、おりこひめこを載せなえでヤマハハのせた、けけろと聞ゆ。これを繰り返して歌いしかば、二親も始めて心づき、ヤマハハを馬より引き下して殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまた有りたり。 ○糠屋は物おきなり。

昔々、これもあるところにトトとガガがいた。娘の嫁入り道具を買いに町へ出かけることになり、戸を閉めて言った。

「誰が来ても開けるなよ」

「はあ」と娘は答え、二人は出かけた。

昼ごろ、ヤマハハがやって来て娘を食べてしまい、その皮をかぶって娘になりすました。

夕方、両親が帰ってきて、門口から呼んだ。

「おりこひめこ、いるか」

「ああ、いますよ。早かったね」

両親は買ってきた嫁入り道具を見せて、娘の喜ぶ顔を見た。

次の朝、夜が明けると、家の鶏が羽ばたきして鳴いた。

「糠屋(ぬかや)の隅っこ見ろじゃ、けけろ」

はて、いつもと違う鳴き方だな、と両親は思った。

それから花嫁を送り出そうと、ヤマハハのおりこひめこを馬に乗せ、いざ引き出そうとすると、また鶏が鳴いた。

「おりこひめこを乗せないで、ヤマハハ乗せた、けけろ」

何度も何度もそう歌うので、両親もようやく気づき、ヤマハハを馬から引きずり下ろして殺した。

それから糠屋の隅を見に行くと、娘の骨がたくさん転がっていた。

*糠屋は物置のことである。

一一八紅皿欠皿

原文
紅皿欠皿の話も遠野郷に行なわる。ただ欠皿の方はその名をヌカボという。ヌカボは空穂のことなり。継母に悪まれたれど神の恵ありて、ついに長者の妻となるという話なり。エピソードにはいろいろの美しき絵様あり。折あらば詳しく書き記すべし。

「紅皿欠皿(べにざらかけざら)」の話も遠野で語られている。ただ、欠皿のほうはヌカボという名である。ヌカボは「空っぽ」という意味だ。

継母にいじめられた娘が、神さまの恵みで、ついには長者の妻になるという話である。いろいろな美しい場面がある。機会があれば、くわしく書きたい。

※「紅皿欠皿」は、日本版のシンデレラともいえる昔話。

一一九獅子踊りの歌

原文
遠野郷の獅子踊に古くより用いたる歌の曲あり。村により人によりて少しずつの相異あれど、自分の聞きたるは次のごとし。百年あまり以前の筆写なり。 ○獅子踊はさまでこの地方に古きものにあらず。中代これを輸入せしものなることを人よく知れり。 橋ほめ 一 まゐり来て此橋を見申せや、いかなもをざは蹈みそめたやら、わだるがくかいざるもの 一 此御馬場を見申せや、杉原七里大門まで 門ほめ 一 まゐり来て此もんを見申せや、ひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白かねの門 一 門の戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい        ○ 一 まゐり来てこの御本堂を見申せや、いかな大工は建てたやら 一 建てた御人は御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也 小島ぶし 一 小島ではひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白金の門 一 白金の門戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい 一 八つ棟ぢくりにひわだぶきの、上におひたるから松 一 から松のみぎり左に涌くいぢみ、汲めども呑めどもつきひざるもの 一 あさ日さすよう日かゞやく大寺也、さくら色のちごは百人 一 天からおづるちよ硯水、まつて立たれる 馬屋ほめ 一 まゐり来てこの御台所見申せや、め釜を釜に釜は十六 一 十六の釜で御代たく時は、四十八の馬で朝草苅る 一 其馬で朝草にききやう小萱を苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり 一 かゞやく中のかげ駒は、せたいあがれを足がきする        ○ 一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし 一 われ/\はきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり 一 しやうぢ申せや限なし、一礼申して立てや友だつ 桝形ほめ 一 まゐり来てこの桝を見申せや、四方四角桝形の庭也 一 まゐり来て此宿を見申せや、人のなさげの宿と申 町ほめ 一 参り来て此お町を見申せや、竪町十五里横七里、△△出羽にまよおな友たつ ○出羽の字もじつは不明なり。 けんだんほめ 一 まゐり来てこのけんだん様を見申せや、御町間中にはたを立前 一 まいは立町油町 一 けんだん殿は二かい座敷に昼寝すて、銭を枕に金の手遊 一 参り来てこの御札見申せば、おすがいろぢきあるまじき札 一 高き処は城と申し、ひくき処は城下と申す也 橋ほめ 一 まゐり来てこの橋を見申せば、こ金の辻に白金のはし 上ほめ 一 まゐり来てこの御堂見申せや、四方四面くさび一本 一 扇とりすゞ取り、上さ参らばりそうある物 ○すゞは数珠、りそうは利生か。 家ほめ 一 こりばすらに小金のたる木に、水のせ懸るぐしになみたち ○こりばすら文字不分明。 浪合 一 此庭に歌の上ずはありと聞く、歌へながらも心はづかし 一 おんげんべりこおらいべり、山と花ござ是の御庭へさらゝすかれ ○雲繝縁、高麗縁なり。 一 まぎゑの台に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く 一 十七はちやうすひやけ御手にもぢをすやく廻や御庭かゝやく 一 この御酒一つ引受たもるなら、命長くじめうさかよる 一 さかなには鯛もすゞきもござれ共、おどにきこいしからのかるうめ 一 正ぢ申や限なし、一礼申て立や友たつ、京 柱懸り 一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない〻 一 すかの子は生れておりれや山めぐる、我等も廻る庭めぐる〻 ○すかの子は鹿の子なり。遠野の獅子踊の面は鹿のようなり。 一 これの御庭におい柱の立つときは、ちのみがき若くなるもの〻 ○ちのみがきは鹿の角磨きなるべし。 一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからするちたのえせもの〻 ○ちたは蔦。 一 松島の松にからまるちたの葉も、えんが無れやぶろりふぐれる〻 一 京で九貫のから絵のびよぼ、三よへにさらりたてまはす ○びよぼは屏風なり。三よへは三四重か、この歌最もおもしろし。 めず〻ぐり 一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ〻 ○めず〻ぐりは鹿の妻択びなるべし。 一 鹿の子は生れおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな〻 一 女鹿たづねていかんとして白山の御山かすみかゝる〻 ○して、字は〆てとあり。不明 一 うるすやな風はかすみを吹き払て、今こそ女鹿あけてたちねる〻 ○うるすやなは嬉しやななり。 一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる〻 一 笹のこのはの女鹿子は、何とかくてもおひき出さる 一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの〻 一 奥のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき候〻 一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな〻 一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの〻 一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる〻 一 沖のと中の浜す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物〻 なげくさ 一 なげくさを如何御人は御出あつた、出た御人は心ありがたい 一 この代を如何な大工は御指しあた、四つ角て宝遊ばし〻 一 この御酒を如何な御酒だと思し召す、おどに聞いしが〻菊の酒〻 一 此銭を如何な銭たと思し召す、伊勢お八まち銭熊野参の遣ひあまりか〻 一 此紙を如何な紙と思し召す、はりまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし ○播磨檀紙にや。 一 あふぎのお所いぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり〻、おりめにそたかさなる ○いぢくなりはいずこなるなり。三内の字不明。仮にかくよめり。

遠野の獅子踊りには、古くから歌い継がれてきた歌がある。村により人によって少しずつ違うが、私が聞いたのは次のようなものだ。百年あまり前に書き写されたものである。

*獅子踊りは、この地方でそれほど古いものではない。中世にほかの土地から取り入れたものであることは、よく知られている。

※以下は、家や橋や町をほめたたえる祝い歌である。方言や古いことば、写し間違いが多く、柳田自身も「意味不明」と注をつけている箇所がある。ここでは意味のとれる範囲で今のことばに置き換えた。(?)は推測。原文は下の「原文」を開くと読める。

【橋ほめ】

来てごらん、この橋を。
どんなお方が、はじめて渡ったのだろう。
渡っても渡っても、尽きることのない橋(?)。

ごらんなさい、このお馬場を。
杉並木が七里も続く、大門まで。

【門ほめ】

来てごらん、この門を。
檜と椹(さわら)で建てた、めでたい白銀の門。

門の扉を押し開いて、ごらんなさい。
なんと見事なお暮らしぶり。

【本堂ほめ】

来てごらん、このご本堂を。
どんな大工が建てたのだろう。

建てたお方はお手柄だ。
昔、飛騨の匠が建てた寺。

【小島節】

小島では、檜と椹で門を建て、
これぞめでたい白銀の門。

白銀の門の扉を押し開いて、ごらんなさい。
なんと見事なお暮らしぶり。

八棟造りに檜皮ぶき(?)、
屋根の上には唐松が生える。

唐松の右と左に湧く泉、
汲んでも飲んでも尽きることがない。

朝日がさし、夕日が輝く大きな寺。
桜色の稚児が百人。

天から落ちる千代の硯水、
それを待って立っておられる(?)。

【馬屋ほめ】

来てごらん、このお台所を。
女釜に男釜、釜は全部で十六。

十六の釜でご飯を炊くときは、
四十八頭の馬で朝草を刈る。

その馬で、朝草に桔梗や小萱を刈りまぜて、
花で輝く馬屋になる。

輝く馬屋の鹿毛の馬は、
「お家よ栄えよ」と足踏みをする。

【あいさつの歌】

この庭には歌の名手がいると聞く。
踊りながらも、気恥ずかしい。

わたしたちは昨日習って、今日踊る。
不調法はお許しを。

ごあいさつを申せば限りがない。
一礼して立とう、友だちよ。

【桝形ほめ】

来てごらん、この桝を。
四方四角の、桝形の庭。

来てごらん、この宿を。
人の情けの宿という。

【町ほめ】

来てごらん、このお町を。
縦に十五里、横に七里。
迷うなよ、友だちよ。

【検断ほめ】

来てごらん、検断さま(町役人)を。
町の真ん中に旗を立てて。

前は立町、油町。

検断どのは二階座敷で昼寝して、
銭を枕に、金のおもちゃで遊ぶ。

来てごらん、このお札(高札)を。
してはならぬことを書いた札(?)。

高いところを城といい、
低いところを城下という。

【橋ほめ】

来てごらん、この橋を。
黄金の辻に、白銀の橋。

【お上ほめ】

来てごらん、このお堂を。
四方四面、くさび一本で組んである。

扇を取り、数珠を取り、
お参りすればご利益がある。

【家ほめ】

黄金の垂木に、
水の流れる棟に波が立つ(?)。

【浪合】

この庭には歌の名手がいると聞く。
歌いながらも、気恥ずかしい。

繧繝縁(うんげんべり)に高麗縁(こうらいべり)、
山ほどの花ござを、このお庭にさらりと敷け。

蒔絵の台に、玉の杯を選んで据えて、
このお庭に置く。

十七の娘がお酌をすれば(?)、
お庭がぱっと輝く。

このお酒を一杯受けてくださるなら、
命は長く、ますます栄える。

肴には鯛も鱸もあるけれど、
名高い唐の軽梅(?)。

ごあいさつを申せば限りがない。
一礼して立とう、友だちよ。

【柱懸り】

仲立ちを入れよ、仲を入れろ。
仲立ちがいなけりゃ、庭はさびしい(?)。

鹿の子は生まれ落ちれば山をめぐる。
わたしたちもめぐる、庭をめぐる。
*獅子踊りの面は鹿のような顔である。

このお庭に柱が立つときは、
鹿は角を磨いて若返る。

松島の松を育ててみれば、
松にからみつく、やっかいな蔦。

松島の松にからまる蔦の葉も、
縁がなければ、ぽろりとほどける。

京で九貫もする唐絵の屏風を、
三重四重に、さらりと立てまわす。
*この歌がいちばん面白い。

【めずすぐり(雌鹿選び)】

仲立ちを入れろ、仲を入れろ。
仲立ちがいなけりゃ、庭はさびしい(?)。

鹿の子は生まれ落ちれば山をめぐる。
わたしたちもめぐる、庭をめぐるよ。

雌鹿をたずねて行こうとすれば、
白山のお山に霞がかかる。

うれしいな、風が霞を吹き払った。
いまこそ雌鹿をたずねていこう。

いくら雌鹿が隠れても、
すすきの茂みをかき分けて、たずねていく。

笹の葉陰の雌鹿も、
どう隠れても、引き出される。

雌鹿と大鹿のしぐさをごらん。
鹿の心は、みやびなもの。

奥の深山の大鹿は、
今年はじめて踊りに出てまいりました。

雌鹿をとられて恋いこがれ、
心がくすぶる雄鹿だなあ(?)。

松島の松を育ててみれば、
松にからまる、やっかいな蔦。

松島の松にからまる蔦の葉も、
縁がなければ、ぞろりとほどける。

沖の洲にいる浜の鳥は、
ゆらりと揺られて、そろりと飛び立つ。

【なげくさ】

この「なげくさ」を、どなたがお出しくださったのか。
出してくださったお方のお心がありがたい。

この台を、どんな大工が作ったのか。
四隅で宝をもてあそぶ(?)。

このお酒を、どんなお酒とお思いか。
名高い菊の酒。

この銭を、どんな銭とお思いか。
伊勢参り、熊野参りの使い残りか。

この紙を、どんな紙とお思いか。
播磨の檀紙か、鹿島の紙か。
折り目に沿ってお遊ばせ(?)。

扇のお住まいはどこだろう。
扇の御所は三内の宮(?)。
その中に住むのは要(かなめ)。
折り目に沿って重なる。

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